昨日は、市内唯一の和書古本屋『ほんだらけ』さんに行き、事前知識も全くなく、何気なく手に取った一冊を数ページ立ち読みの後、購入して帰り道から読み始め、一日で読了した。宝石のような一冊。

『困ってるひと』大野更紗著

好きな映画や本の分類の一つとして、私は個人的に

「素晴らしい作品であるが、この作品が生まれるきっかけになった事件や事象が起こらず、この作品が生まれることがなかった方が、著者や人類は幸せだったかもしれない作品」という類を設けている。これまでに、この類に入ると思った本を挙げると、

『夜と霧』
『The Kite Runner』 (和訳は『君のためなら千回でも』)
『Angela's Ashes』(和訳は『アンジェラの灰』)

である。そして今日から『困ってるひと』がリストに加わった。

こういうことを英語圏で言うと、ナチのユダヤ人虐殺を個人的体験の比較対象にするのは、ホロコーストの歴史的重大性を軽んじている云々と文句をいう人が必ず出るのだが、私はホロコーストを軽んじているからこういうことを言うのではない。人が本当に困って人生の底を打つとき、困る理由が大戦中のユダヤ人迫害であっても、タリバン支配下のアフガニスタンであっても、アイルランドの大貧困生活であっても、そして、日本における世にも稀な難病闘病生活であっても、その苦しみの度合いは完全に底を打っているという意味で、同じことが起きる。同じこと、というのは、底を打った人がその体験を通して真理や神秘を目撃する、ということだ。

この著者、大野更紗さんは、本当に底を打って真理と神秘を目撃した経験があると、誇張でなく言い切れる数少ない人の一人だと思う。そして、この人は、自分の人生の底を打つ前に、まず、ビルマ難民というやはり底を打った人々と触れ合っていた。この病に襲われることがなかったら、ビルマ難民のための人権活動家になっていたはずの人である。

それが、難病によって、日本の医療難民のための人権活動家になってしまった。ここに、宿命的なものを感じる。ある意味で、ビルマ難民のための人権活動家よりももっと大々的に、一国の社会を動かすような人権活動家になるべくして、生まれてきた人なのではないかと思った。

ノンフィクションであり、実在の人物に実際に起きたことなのに、「実によくできている」などと言っては不謹慎極まりないのだが、真実は小説よりも奇なりと言うとおり、見事に起承転結ができている話である。そして、これほどの苦しみを経て、日本の難病医療福祉制度に物申す人権活動家になって行くに違いない著者の人生には、フィクションの世界でしかあり得ないと誤解されているPoetic Justice(*)がある、と感じざるを得ない。

 (* ここで、Poetic Justiceの意味を説明しておかないと、大変な誤解を受けるので説明する。「勧善懲悪」「因果応報」などと訳されることが多いが、それは狭義の訳である。Poetic Justice の本来の意味は、罰されるべき悪人が罰され善人が報われる、というだけではない。起こるべきことが起こり、現れるべき人が現れ、物事や人物があるべき姿に還り、すべての辻褄が合っていく、という意味である。そこには予感があり、予感されたことの実現がある。そして、予感が実現される瞬間の「報われた感」が非常に強く、何らかの人智を超えた神秘が感じられ、鳥肌が立つ。というのが、Poetic Justiceという言い回しの意味するところである。)

著者とはお知り合いではないので、ご本人に確認することはできないが、恐らく、ご本人も同じことを感じられたことがあるのではないか。だから、ある時心無い発言をした人達に対する恨み言を、著者は書かない。すべては必然的なプロセスで、現れるべき人が現れ、やるべきことをやったのだと、悟っておられるからではないかと思った。

職業上治せなければならないはずの病を治せないという挫折、困っている家族・友人を助けなければならないという良心から生じる重荷、そして結局、一番困っている患者を責めたり恨んだりするに至る人間心理、そういう人間心理を見てしまったときの困っているひとの孤独と絶望というどん底。

底に至らなければ這い上がることができないので本当の底を打つまで苦難は延々続く、というなぜか普遍的な真理があり、著者は、この真理に従い、ここが底だと思っても、何度も何度も、それより深い底があることを見せられて、とうとう本当の底まで落ちていく。そのときに・・・ネタバレになるのでやめておこう。

とにかく、これをPoetic Justiceと呼ばずして何と呼ぶのか、と思われる神秘的で感動的な展開に至るのだ。

こういうことを弱冠25歳で経験し悟った上で、お涙頂戴でも恨み節でもなく、さりげなくユーモアたっぷりに社会制度への意見書として書き上げた著者は、本当に尊敬するべき御仁であると思った。

アマゾンでどのような批評をされているか見てみたところ、驚くべきことに、5つ星をつけた人と1つ星をつけた人がほぼ同数居る。著者が悟ったことは、多くのまだ困ったことがない読者の頭や心を飛び越してしまったのか。文体が軽いとか、外国語のカタカナ表記がいやだとか、そういう理由で気に入らなかった人はまあ好みの問題だから仕方がないが、感謝が足りないだの自己中心的だのと著者を批判している声には開いた口が塞がらない。著者が感謝していなければ、この体験を一言の恨み節もなく書いたはずがないだろうに。著者は自分の壮絶な体験を、一個人の体験として社会の片隅で終わらせるのではなく、社会貢献に転換しようとし、満身創痍の身体にムチ打って書いてくれたのだ。それを自己中心と言うとは、何をどう読んだのか。

と、ここで私が憤っても仕方ないのだが、この記事を読まれた後に、アマゾンを見に行かれる方もおられるかもしれないので、先回りして言っておきたかった。

『困ってるひと』は、本当に素晴らしい本である。但し、冒頭に書いたように、この本が生まれるきっかけになった難病がこの世に存在せず、この本が生まれることが無かった方が、著者は幸せだったかもしれない、というくらい壮絶でもある。絶賛推薦図書だ。

著者の難病は筆舌に尽くし難い激痛を伴うものらしいが、寛解する可能性も無きにしも非ず、という種類の病らしい。なんとか症状を安定させて、今後も活躍し続けていただきたい。




本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。