• 04 Jan
    • 年頭のご挨拶

      皆様、新年あけましておめでとうございます。 過去ブログの履歴を見ていて気が付きましたが、一年以上ブログの更新をしておりませんでした。まさに開店休業状態だったわけですが、その間にも新しい読者になってくださった方々もおられたようで、感謝申し上げます。 当ブログは書きたいことが分かったときに書くブログですので、一年以上更新しなかった理由は、ずばり、書きたいことが分からなかったから、です。 2015年は、後退の年でした。「一歩も二歩も後退した」という表現をよく聞きますが、私にとっては、二百五十歩後退して振り出しに戻ったような年で、あらゆる方面で退縮運転をしました。しかし、そのような年にも、全く想定外の方向から吉兆がやって来ることもあり、中止を覚悟の上で取り組んだことが中止にならず無事遂行できたこともありました。一年を総括すると、良くも悪くも予定外のことが沢山起きた年、それでもなんとかなった年、そして長く長く感じた年、と要約できます。 そういう中で迎える新年、長期的な計画や目標を立てることはできません。どんなに長期と言っても1か月先くらい、そのくらい先の予定を立てる場合は、チャラになるのを覚悟で計画します。 というわけで、一年の抱負は、物事を長期的に考えないこと、でしょうか。 今、目の前にある楽しみを楽しみ、目の前に居る人を大切にし、今利用している商品やサービスに関わったすべての人に感謝する、言わば「その日暮らし」。 これは要するにマインドフルの奥義なので、このこと自体は良いことだと思います。大切にした一日一日を積み重ねているうちに、結果的に、予想も予定もしなかった喜びを味わえる一年になるかな? 年始に、全く長期目標を立てられない状況に置かれている皆様、その日暮らしをぜひ楽しみましょう。 そしてもちろん、長期目標を持っておられる皆様は、目標に向かってしっかりと計画を立て、元気にまい進されてください。 皆様にとって、幸多い一年となりますように。

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  • 01 Nov
    • Rab Ne Banadi Jodi または赤い糸

      ブログをお留守にしてから実に3ヶ月経ってしまいました。この間、懲りずに読者でいてくださった皆様、感謝いたします。 何をしていたかというと、私的には想定外の極限状況にあった人々を支援していました。でもその内容を書くことは当ブログの主旨ではないので、ここには一切書きません。 今日は、何事もなかったかのように、私のお気に入り自慢の記事をアップします。これは8月に書きたかった記事ですが、今になってしまいました。 8月に、私は地元の長距離走大会に例年どおり出場し、昨年出した自己ベストを30秒縮めてきました。でも、これは、自分の努力の賜物ではなく、天候の賜物で、最適気温の曇り空という好条件の中、全体的に速かったのです。私くらいの平均的アマチュアランナーがタイムを30秒縮めたら、順位が200位くらい上がりそうなものですが、順位は1位しか上がりませんでした。(笑)全員、去年より30秒速く、ゴールしたということですね。 で、その帰り道、バスの中で隣に座った男性ランナーが、インド人。偶然にも住んでいる地域が同じで、最寄り駅は私の最寄り駅の隣というので、一時間強の帰宅途上をご一緒しました。 彼は、コンピュータ技術系エンジニアで、その種の職業の人にありがちな話ですが、能力点数による移民制度を利用して、家族を連れて移民したそうです。でも、彼が言うには、インドの方が、貧しかったけれど良かったそうです。 「オーストラリアでは、皆、大きな家を構えて、自分の家の中で一人、自分の苦しみと向き合っている。インドでは、家なんて無い人も多いし、あっても壁が薄くて何もかも近所に筒抜け。一人の苦しみを皆が見て、助け合っている。すべての人が自分と同じように、あるいは自分以上に、苦しんでいる。それを見ながら、自分の苦しみを苦しんでも、不幸感はない。皆、一緒に苦しんでいるという連帯感がある。」 と彼は言いました。だから、インドに里帰りしている間の方が、幸福感が強いのだそうです。彼は、子どもをインドで育てたかった、と言いました。些細なことで不平不満を言い、人と比較して不幸になる大人にはならないでほしい、と思いながら、いつしか、自分自身も些細なことで不平不満を感じ、自分の家の中で一人悶々とする、そんな人になってきた、と嘆いていました。 インド視点の先進国観察、面白いことを言うなあ、と思ったのでした。 さて、そのうちに、映画の話になり、私の大好きなボリウッド映画「Rab Ne Banadi Jodi」を彼も観た事があったので、電車の中で偉く盛り上がってしまいました。今日の本題はこれです。 Rab Ne Banadi Jodi(ラブ・ネ・バナーディ・ジョーディ)の意味は、英訳するとMatch Made in Heaven(天に結ばれた仲)、日本語で言えば「赤い糸」です。 ラブコメディで、その話の展開は少女漫画的にわかりやすいです。ボリウッドの醍醐味である、突然始まる群舞シーンでは、その大人数のダンサー達は一体どこから湧いて出たのか?と突っ込みたくなりますが、肩の力を抜いて楽しめる珠玉の名作です。 なぜ名作かというと、恋愛感情の根幹を成す本質である「無条件の愛」を歌い上げる素晴らしい歌曲が出てくるから。一目惚れに始まった恋愛でも、それを成就させる力は、真に無条件の、神のごとき愛にあるということを、この映画は、子どもっぽいラブコメディながら、しっかりと伝えています。 残念ながら、和訳版はないので、英訳版でご紹介します。映画の前半で、男の方が一目惚れの片思いを必死に訴える場面、映画の後半で、惚れられた女の方が、男の愛の本質に気づいて心打たれる場面、同じメロディですが、歌詞が違います。男の方がこの詩を歌うときは、何も相手のことを知らないうちから一生を共にしたいと思い込む恋愛感情の本質(つまり「あばたもえくぼ」な盲目の愛)を歌います。女の方がこの詩を歌うときは、男女の間にある盲目の愛の本質(つまり神のごとき「無条件の愛」で愛される喜び)を歌います。そして、共に、「私はあなたの中に私の神を見る」と歌うのです。 一目惚れに始まった恋愛であっても、最後に勝つのは、神のごとき無条件の愛。相手の欠点も未熟さも、総て見えなくなって何もかも良い方にしか考えられなくなる恋愛感情に、実は、人間性の本質である神性が現れているのだということを、恋に堕ちるという人間の習性の中に、相手の中に神性を見出して一心に愛する能力が隠れているということを、この映画は、軽いタッチのラブコメディながら、見事に描いています。それでは、同じメロディを違う歌詞で歌った2曲、お楽しみください。 人と人の間で、相手の中に神を見るほど盲目になって無条件に愛することができたら、いいですね。そういう愛はきっと周りにも沢山あり、そして最後に勝つ愛です。 それでは、皆様、本日も周りの人達の神性を敬い、和気藹々と過ごされますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 27 Jul
    • 自己批判・自嘲の声が強い人のために:ボランティア活動のすすめ

      人間関係の記事の中で何度か触れた点ですが、自分と自分の人間関係(自分の中の親部分と自分の中の子部分の人間関係)が、親による子の批判・嘲笑の関係になっている方は、心(頭)の中で常に自分の言動を批判・嘲笑する声と闘っています。 自分の言動を意地悪く批判・嘲笑する声は、あなたに対して誰かが言ったことを、内面化してしまったものです。その誰かは親とは限りません。心ない学校の先生、いじめっ子達、友達や上司や同僚、犯罪被害に遭った時に犯罪者に言われたこと、など、特にショックだった言葉を内面化し、自分に対する批判や嘲笑として、心の中で反芻していることがあります。また、言われたことではなく、何らかの状況下で自分が持った思い込みが、自分を批判する声になっている人も居ます。この典型は、子どもの頃に親が離婚したり、親と死別した場合に、親の離婚(死亡)は自分のせいだと思い込んでしまい、以来、色々な場面で「私が悪いんだ」という声が心の中に響いてしまうという例です。 心の中の自己批判と闘う人は、それを何年もやっているので、それが普通の状態と思い、自己批判の声と闘いながらでもできることしかやらない人生設計になっています。もう恋はしないとか、人前に立って話したり余興を演じたりすることは絶対にしないとか、このようなルールが高じて、もう家の外に出ないとか、友達は持たないとか、人と会話はしないとか、それでいいことにする場合があります。 しかし、心の中で自分を批判・嘲笑する声を無視することができれば、本当はやりたかったことをできるようになるのではないでしょうか。今日の記事は、こういう方々のために、書きます。 (ここまで読んで、はあ?!なんじゃそりゃ?!と思われた方には、今日の記事は必要ないです。 ここまで読んで、心の中でこんな葛藤をしているのは私一人じゃなかったのか、と思われた方は、この先もお読みください。また、家族や友人の中にこういう苦しみを抱えているような感じがする人が居る方々は、ご自分自身にはあてはまらなくても参考になさってください。) 精神分析的な発想をするなら、心の中の自己批判の声が出てくるきっかけとなった事件を(その記憶の抑圧が強い場合は退行催眠を使ってでも)思い出し、その事件以来、抑圧してきた感情を解放し、思い出した事件が過去の事件であって今と関係ないことを意識的に納得することにより、その事件の結果的な症状である自己批判の声は止む、ということになります。 しかし、これには、退行催眠を使う精神分析家の治療に通うことになり、一定のお金がかかります。あまりにも重症な場合は、この方法を試す価値もありますが、経済的になかなか難しいというのが普通でしょう。 このブログでは、自助努力でできる方法をご紹介したいと思います。やりやすいものを選んでやってみてください。これらの方法は、カウンセリングに行くと「宿題としてやってください」と言われるようなことです。 1.鏡を見て、自己批判の声を打ち消す力を持つ文章(励まし、褒め言葉)を10回言う。これを1日3回やる。例えば、自分の容姿を批判する内なる声がうるさい場合、鏡を見ながら、「私は人間として美しい人であることができる。私の心の美しさを知る人は、私の心の美しさを愛してくれる。」と10回言ってみましょう。最初のうちは、抵抗を感じるかも知れませんが、一日3回、鏡を見て10回ずつ言っているうちに、自分の容姿を気にして傷ついていた心が癒されてきます。抵抗なく言えるようになったら、次は、一足飛びに、鏡を見て、「私は美しい。私を知っている人は、私の本当の美しさを知っている。」と言い切ってみてください。これを10回、鏡を見ながら言えるようになると、鏡に映る自分の姿が実は美しいことに気づくでしょう。私達が視覚的に認識している自分像は、実は、視覚1割、思い込み9割くらいで構成されているのです。 2.EFTタッピングセラピー。顔や頭部の周りのツボを軽く叩きながら、自分を苦しめる批判や嘲笑の言葉を、深刻にならずに極めて軽々しく言い、ネガティブなエネルギーを流し出してしまう方法です。(これは、一見、根拠のないおまじないのようなやり方ですが、実は行動療法の一種である「露出療法」の原理に適っており、繰り返しているうちに、自己批判の言葉への生理的な恐慌反応が鈍化され、同じ言葉を聞いても反応しなくなります。)やり方の詳細は、以前の記事をお読みください。「ネガティブな感情を宿便にしないために」 3.自己批判の言葉を、頭の中で楽しい歌のメロディーに載せるか、アニメや漫画の面白キャラの声で言わせて、面白おかしくしてしまう。(これも、上記の「露出療法」の原理で、自己批判の言葉に対する生理的な恐慌反応を鈍化させる効果があります。)これは特に子どもに有効な方法です。この方法は、アクセプタンス・エンド・コミットメント・セラピー(ACT、受容と実行療法)で使用します。 最後に、私が個人的にお勧めする方法をご紹介します。 4.人助けに徹する。 自己批判の声が強い人は、人生を常に自分の言動に注目して過ごしているということに気づいてください。これは、多くの人が見過ごす点ですが、自己批判が強いということは、自己評価が限りなく低く、自尊心が低く、自分を大切にできないにも関わらず、自己中心的なのです。自分の言動を厳しくチェックして批判している間、私は他の人の言葉に注意を払ったり、他の人の欲求を満たしたりすることができません。なぜなら、私の頭は自分の言動のチェックに忙しいからです。ただでさえ自己批判が強いのに、それは自己中だと言われたら、受け容れ難い苦痛だと思います。それでも、この点に自分で気づかなければ、いつか、家族か友達に言われることになります。 私は若い頃、内なる自己批判の声が非常に強い人だったので、何度も友達を失いました。それもそのはずで、友達と会ってきた後に覚えていることは、友達に自分が話した言葉であり、それが本当に相手を大切にした言葉だったか、心無いことを言ってしまったのではないか、ということを、くよくよいつまでも考えました。また、楽しい時間を過ごした後でも、自分の服装が適度にセンスの良い、場に適ったものだったか、自分のジョークのセンスが場の雰囲気を乱さないものだったかどうか、そんなことを、いつまでもくよくよ悩んで分析し、考えれば考えるほど、自分はセンスの悪い服を着て、センスの悪いジョークや話題を振りまき、友達の気分を害して帰って来たに違いないという結論に達していました。 今振り返っても、神経症的な若者だったと思います。そのことを楽しんでいたわけではありませんが、やはり、私は最大級に自己中心的な若者だったのです。 ということが分かった時、私は、自分の言動をチェックすることをやめる努力をし、それでも神経症的な私の頭が空回りを繰り返す時は、ボランティア活動をすることにしました。なぜなら、ボランティア活動の支援先となる状況に置かれている人達は、生死に関わる重要な問題を抱えていて、私の服装のセンスや会話のセンスなどが問題視される状況にはなり得ないからです。ボランティア活動の支援先にとっては大変迷惑なことかもしれません。ボランティアをする動機としては最も不純な動機かもしれません。 しかし、自分の言動をチェックする神経症的な癖をやめたい私と、私の頭の中で何が起きているかに関係なく、私に車椅子を押してもらいたい人の間には、完ぺきな持ちつ持たれつの関係が成り立つのです。私が支援者で相手が被支援者である、という上下関係には絶対になりません。支援する相手にどれほど自分が救われているか、私自身が知っていますから。 色々な形でボランティアをするようになってから、私は、ボランティアの支援を受ける人達は、何らかの理由でボランティア活動をしなければならないような内的要因を抱えている人が活動する場を提供するために、ボランティアの支援を受けて生活するような人生を歩んでくださっている偉い魂なのだと思うようになりました。 その辺のところは、宇宙が裏でどのようにアレンジしているか、物理界に居る私達には真相はわかりません。でも、支援する役の人と支援される役の人が出会う時、必ず、双方が各々必要としているものが満たされるような形で、出会うのです。 このような経験から、自己批判・自己嘲笑をやめる一番の早道は、人助けをすることであると、言い切ることができます。但し、これは、究極の解決策ではありません。人助けに忙しくしていても、心の内なる声は、しつこく自己批判の言葉を言い続けることができ、すぐに黙ってくれるわけではありません。ですので、人助けをしながら、上記1~3の技法も使って、自分の心のエネルギーを自己愛・自己肯定・自己激励に振り向けられるように、徐々に訓練しましょう。 自分の精神状態が改善すると同時に、支援を必要としている誰かの生活のお役にも立てるわけですから、これは究極の一石二鳥です。 というわけで、自分に自信の無い方、自己批判・自己嘲笑をなかなかやめられない方、ぜひ、ボランティア活動先を探して、ボランティアに没頭してみてください。自己批判の声から解放された新たな自分に出会える可能性大です。 末筆ながら、私がこれまでボランティアとして支援させていただいたすべての方々に、私の精神衛生改善の場を与えてくださったことを感謝したいと思います。そういう裏があったとは全く知らなかったと思いますが、あったのです。 それでは、皆様、本日も、自己愛・自己肯定・自己激励の言葉を沢山心の中で発して、ご自分らしくお過ごしください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 21 Jul
    • 人間関係を良くするために(6)ー相手のための時間は自分の時間とみなす

      学校で、将来どんな仕事に就きたいか考えなさいと言う先生達が何故か絶対教えてくれなかった人生の真実、それは、仕事の如何に関わらず、人生のある時期は、収入にならない他者奉仕に費やされる、ということです。 もちろん、どの程度まで無償の他者奉仕を求められるかについては、大きく個人差があり、また、それがいつ始まるか、どのくらいの期間続くか、についても個人差があります。自分で奉仕を始めるタイミングを決められる場合(結婚、計画的妊娠出産)もあり、決められない場合(できちゃった結婚、家族の事故や高齢化による介護)もあります。 無償の他者奉仕が求められる状況になった場合、もちろん、それを断り続け、逃げ続ける人も一定の割合で居ます。親が子育てから逃げ続けたら犯罪になりますし、子が親の介護から逃げ続けてもやはり犯罪になります。父親が子育てから逃げ続けて仕事しかしない場合、それが離婚の原因となる場合もあります。つまり、他者奉仕をとことん拒否するという選択肢もありますが、それにはそれなりのかなり重大な結果が伴います。 それでは、犯罪や離婚に至らない程度に、他者奉仕を引き受ける場合に、奉仕する相手を恨まずに自分らしい人間関係をその人との間に築くには、どうしたらよいでしょうか。 答は、相手のために過ごす時間は自分のための時間とみなす、です。 この考え方は、初めのうち、なかなか受け容れられないかもしれません。しかし、これを受け容れなければ、相手との関係は常に、私がやってあげて、相手が得をして、私が損をし続ける関係になってしまいます。このように損得勘定を常に意識しながら相手に奉仕する場合、同じ行動をしていても、相手には、奉仕の心は恐らく伝わらないように思われます。人間というものは、相手が出している雰囲気とか波動というものを感知します。恨みの波動を出している人に幾ら物理的に奉仕されても、感謝の心は湧きません。このことは、いやいやながら子育てする親に育てられた子が虐待されたと感じたり、いやいやながら介護する家族に高齢者が怒りや恨みの反応をする、という現象となって現れます。 子育ても介護も、大変な肉体労働/精神労働である場合がありますが、それでも、それをいやいやながらではなくやる方法を見出さなければ、折角の努力が相手の心に届かず、水の泡になってしまいます。 そこで、他者のための奉仕の時間は自分のための時間とみなす、という発想の転換が必要になるのです。これには、 1)他者のために奉仕する時間を必ず自分も楽しめるように画策する(作戦的転換) 2)他者のために奉仕する時間は必ず自分の糧になっているはずだと宇宙を信頼する(概念的転換) の二つの意味があります。以下に説明します。 1)他者のために奉仕する時間を必ず自分も楽しめるように画策する(作戦的転換) 先日の記事に、人間関係に自分の方から供出する性質の一つとして、「自分を大切にする」という性質をぜひ加えていただきたいと書きました。他者奉仕の時間を自分の時間にする、というのは、自分を大切にする一つの方法です。奉仕をする時間、自分の欲求は何でもすべて我慢することにしてしまうと、恨みが残ります。自分の欲求も相手に伝え、交渉しながら一緒に過ごすようにすることで、自分も楽しめるように画策しましょう。例えば、子どもが楽しめて大人は全く楽しめない所に出かけるのではなく、子どもも大人も楽しめる所を選び、子どもにも大人の用を済ませる間の5分や10分は付き合ってもらい、「付き合ってくれてありがとう」と言いましょう。あるいは、高齢者が食べられるものしか食卓に載せないのではなく、高齢者が食べられるものと若者が食べられるものを両方食卓に載せて、一緒に食べましょう。一緒に食べるという行為は、一緒に食卓を囲むことに意義があるのであって、全員が同じものを食べなくてもいいのです。食べられないものが沢山ある高齢者がかわいそうなどと言って、高齢者用のものばかり食べて自己犠牲をすると、いずれ恨む日が来ます。(そんなこと普通にやってるやん、と思うあなたは、他者に奉仕する時にも自分を大切にすることが普通にできている人ですから、この項目は必要なかったかもしれません。) とにかく、誰かと一緒に過ごした後、「ああ、疲れた、自分のための楽しみは一つもなかった、自己犠牲の一日だった、私って偉い」と思うような過ごし方は避けましょう。どんなに「私って偉い」と悦に入っても、それは相手に対して失礼な発想です。人に極端な自己犠牲を強いることによってしか生きられない自分などという人生を心から願っている人は居ません。 2)他者のために奉仕する時間は必ず自分の糧になっていると宇宙を信頼する(概念的転換) これは、行き先や食事のメニューをちょっと調整する程度ではどうにもならない、重度の介護や看病の場合に、必要となる発想の転換です。上記1)の作戦的転換などはもう対応不可能で、とにかく、相手のために必要なことをやり続けるしかない状況です。学校では教えてくれなかったことですが、人生には、こういう時期も必ずと言ってよいほど訪れます。こういう時、それまで、毎日を、自分で計画した通りに生きてきた人は、「時間が無くなった」と感じ、更に「自分の時間が無い」と感じるのですが、ここで、他者奉仕の時間を自分の時間とみなすことにより、自分の時間を取り戻すことができるのです。 そのためには、他者奉仕をするという時期を人生のこの時点で与えられたことに何か深い意味があり、この奉仕を真摯にすることで、私は必ず今よりも良い/高い所に行く、と信じることが必要になります。また、自分の成長に必要の無い人間関係を与えられることはないと信じることも必要です。どんなに自分の時間の無駄のように思われる人間関係でも、それが自分の人生に発生したのには、何らかの理由と意味があるのです。(と思わなければ虚しくなりませんか?) この発想の転換は、一朝一夕には難しいかもしれません。でも、周りを見回すと、何らかの形で真摯な他者奉仕をしたことがある人は、必ず、成熟した心の平安を持っています。この種の心の平安は、学校で将来どんな職業に就きたいかと考えていた私には、絶対にあり得なかったものです。本当の他者奉仕をしたことがある人に出会うと、職業よりも大切な仕事が人生にはあるのだと考えさせられます。 でも、2)の概念的転換をマスターした後も、1)の作戦的転換を忘れてはいけません。他者奉仕の時間は自分の時間とみなすと決めた上で、もし、自分も一緒に楽しめる活動があったら、盛り込みましょう。霞を喰って生きている仙人でもないかぎり、あるいはマザーテレサでもないかぎり、他者奉仕だけで満足と言う芸当はなかなかできません。長期的に続ければ続けるほど、疲弊し、恨みが募ってきます。そうならないように、隙あらば自分の楽しめる活動をちょっとだけ盛り込み相手に付き合ってもらうということを常に考えながら、奉仕の時間も自分の時間とみなしてできるだけ楽しみ、成長した自分を見る日を楽しみにしましょう。 このような心構えをして臨む必要のある人間関係は、例えば、10代の反抗的な子との関係や、介護が必要な高齢者(特に実親ではない姻戚関係の高齢者)との関係や、四六時中世話をしなければならない乳幼児との関係などです。参考にしていただければ幸いです。 それでは、皆様、本日も、隙あらば自分の楽しめる活動をちょっと盛り込んで、楽しく自分らしい一日を過ごされますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 16 Jul
    • 人間関係を良くするために(5)―愛情表現の5つの母国語

      本日は、ある本を読んで学んだことを、受け売りします。 Gary Chapman著「The 5 Love Languages」という本があります。著者は長年、結婚カウンセリングをしてきたカウンセラーで、本の内容は主に結婚しているカップル向けですが、結婚していない恋人関係や、親子関係にも応用できます。和訳は「愛を伝える5つの方法」という表題で出版されています。 著者は、人種や国籍や文化を問わず、人間には、生まれつき持った愛情表現の母国語というべきものがあるようだ、と言います。そして、母国語が異なる配偶者や恋人との間に、愛情表現の言葉が通じていない場合がよくあり、そのせいで、愛情関係がうまく行かなくなっていることが多々ある、というのです。 著者が長年の経験から見出した人間の愛情表現の母国語は、以下の5つです。 1)褒め言葉 2)一緒に居る時間(但し、映画を観るなど、二人で何かをすると言う意味ではありません。一緒に居て、相手に注目している、相手の話を聴いていると言う意味です。) 3)贈り物 4)家事奉仕 5)スキンシップ(性行為は含みません。手をつなぐ、ほっぺにキス、抱きしめる、肩もみなどです。) 第一言語は生まれつき決まっているようですが、生まれ育った家族の言語が一致しない場合もあり、子どもの頃から第一言語による愛情表現に飢えているということもあり得ます。例えば、日本の家庭によくあることだと思いますが、親が謙遜の心を教えようとして子どもを人前で褒めなかったり、本人に面と向かって褒めなかったりすると、褒め言葉に愛を感じる子どもの場合、ものすごく愛に飢えてしまうことがあり得るわけです。そういう家庭で、母親は、子どものために家事をすごくきちんとやっていたりすると、母にとっては、家事奉仕を通してあれほど愛情表現したのに、子にとっては「お母さんは全然褒めてくれなかった」という恨みになってしまったりするのです。 また、これも日本の特殊事情ですが、日本人は、大人になるに従い、スキンシップをしなくなります。大人同士が手をつないで歩いたり、キスをしたり抱きしめ合ったりすることはあまりなく、子どもも10代くらいから、親に抱きしめてもらったりキスしてもらうことがなくなってきます。一定の割合でスキンシップによってしか愛を感じられない子どもが生まれるとしたら、そういう子どもは、日本では必然的に愛に飢えることになってしまうのです。 夫婦の第一言語が異なる場合、例えば、夫の方が愛を込めて贈り物をしているのに、妻の方は「家事を手伝ってくれないのにプレゼントでごまかそうとしてもだめよ!」と叱りつけてしまったりします。夫にとっては、贈り物が愛情表現の母国語、妻にとっては家事奉仕が愛情表現の母国語なので、外国語で愛を語り合おうとしているかのように、意思疎通できていない状態になるわけです。 この本を読んで、私自身がよくわかったことは、私と夫の夫婦関係が今日まで続いたのは、別に私たちが愛情深いからではなく、たまたま、非常に幸運なことに、二人の愛情言語が完全一致しているからだ、ということでした。 うちの場合、夫婦揃って、スキンシップが第一、褒め言葉が第二、一緒に居る時間が第三で、家事奉仕は必要最低限でよく、贈り物には全く興味がありません。夫婦の第一言語と第二言語のみならず、一位から五位の順序までが完全一致していました。 このように一致している夫婦は珍しいのだそうです。私たちが、文化的背景も、母国語も、宗教的信条も、趣味も、食習慣も、清潔観念も、何ひとつ一致していないのに、しかも、あまり意識的な努力もしていないのに、本人と周囲の予想に反して続いたのは、この幸運な愛情言語の一致のおかげであったことが、よ~くわかりました。 但し、これまで私が大変ストレスに感じてきたことが一つあり、それは、家事分担がものすごく不公平なことでした。ここには、文化的な要素が絡んでいたことも、この本を読んでよくわかりました。日本育ちの日本人である私は、家事をきちんとしない主婦は、主婦として失格だと思い込んでいて、自分の愛情表現の母国語でもないのに、一生懸命、家事奉仕を通じて愛情を伝えようと努力していたのです。 しかし、うちの家族は、夫も子供達も家事奉仕を愛情表現と受け取らないので、感謝されることも褒められることもなく、家事を分担しようと言ってくれることも全くなく、一体全体どうなっているんだ、と憤慨していたのです。但し、よく考えてみれば、夫も子供達も一貫して「やらなくていいよ、別に」と言って来ました。「やらなくていいってこたぁないだろうよ」と私が勝手に思い込んでいたのですが、家事奉仕をしてもらっても愛情表現とは感じない家族には、家事をしてあげる必要は初めからなかったのです。食事は買い食い、家の中は散らかり放題、洗濯物も汚れた食器も積み上げ放題、どうにもならなくなったら、皆でぶうぶう言いながら、まとめて洗濯や掃除をやっておしまい、でよかったのですね。恐らく、四半期に一度くらい掃除をすれば、どこからも文句は出ないでしょう。 それがわからなかった私は、平均的な家庭くらいには清潔な家に保ち、三度の食事もできるだけきちんと作り、弁当もほぼ毎日詰めてやらねばならないと思い、時間が無くて四苦八苦して、一人で苦しんでいたわけでした。この本を読んで最大の収穫は、無理に家事をやらなくてもよい家族を持っていたということに気づいたことかもしれません。 そう言えば、夫と結婚する前に付き合った別の人と、友達の家に招かれて、鍋料理をご馳走になったことがありました。鍋はとてもおいしく、会話も弾み、楽しい一時を過ごして帰り道、その彼は、 「あんな汚い家に人を招くなんて考えられん。なんて失礼な奴らなんだ。」 と私の友達夫婦を厳しく批判したのでした。その時私は、「この人と付き合ったら大変なことになるわ、早く気づいて良かった」と思い、間もなくお別れしました。もし、私があの人と結婚していたら、家事奉仕に対してはものすごく感謝されていたと思います。でも、私自身が家事が好きな人間ではありませんから、あの人が喜ぶレベルの家事をするのはものすごく大変な努力だったはずで・・・結婚しなくて、ああ、良かった、くわばらくわばら・・・ 恋愛関係/夫婦関係を飛躍的に向上する5つの愛情言語の使い分け、ぜひ、皆様もお考えになってみてください。目から鱗の人間関係向上の術を学べるかもしれません。親子間の長年の亀裂を修復する理由を見出せるかもしれません。 お薦めの良本です。巻末には、自分の愛情表現の第一言語を見極めるための質問集がついています。自分の愛情表現の第一言語は自分でわかっているだろうと思いそうですが、実はそうでもないのです。 例えば、若い男性は大抵、愛の第一言語はスキンシップだろうと思います。でも、それは、セックスが大好きな年頃だからであり、この人とセックスをしたいと最初に感じさせた理由は、セックスそのものではなかったはずなのです。例えば、自分の業績を褒めてくれた女性にときめき始めた場合、その男性の愛の第一言語は褒め言葉であってスキンシップではありません。自分でも知らなかった自分の愛情表現の欲求が明確になり、恋人/配偶者の愛情表現の欲求も明確になると、あとは、お互い、相手が欲している方法で愛情表現するように気をつければ、飛躍的に関係が向上するのです。 ぜひお読みになって、周囲の人間関係の向上にお役立ていただければと思います。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 15 Jul
    • 人間関係を良くするために(4)-自分がこの関係に供出したい性質を守る

      今日は、人間関係を良くするために行う、意識的で積極的な努力の仕方を考えたいと思います。 自分がこの関係に供出したい性質を守る というタイトルを書きましたが、これだけを見たら、恐らく大半の人が「意味がわからん」と思われるでしょう。 「自分が供出したい性質を守る」という言い回しは、実は英語から訳したからわかりにくくなってしまったのです。この発想は、日本にも大分前から紹介されているACT(アクセプタンス・アンド・コミットメント・セラピー)に基づいています。但し、私は、何でもカタカナ訳にするのが嫌いなので、勝手に「受容と実行療法」と呼んでいます。 「受容と実行療法」では、今起きていることと取っ組み合って闘わずに、それが起きていることを受容し、それが起きているという前提で、自分が定義した自分自身の在り方に沿う行動を実行し続けることにより、外的状況の如何に関わらず、自分らしい人生を生きることができる、というスキルを伝授する療法です。 人間関係にも利用できますが、重症疾病や重度障がい、離別・死別、虐待経験、犯罪被害経験など、天地がひっくり返るような大事件のショックから立ち直り、自分らしさを取り戻すために、特に有効な療法です。 本日は、この療法を人間関係の向上に応用するとどうなるか、ということを考えてみたいと思います。 まず、今起きている人間関係は起きていることを受容する、ということが前提となります。つまり、上司がせこい場合、上司がせこいということを、「起きていることだから仕方ないや」と受容します。次に、その上司との人間関係に自分が供出したい性質を定義し、それを遵守します。 ああ、またわからんことを言う!と思われた方もおられるでしょう。人間関係に自分が供出したい性質を遵守するとはどういうことか。難解な概念は極端な例を考えるとわかりやすくなりますので、意地悪な看守の居る刑務所に入っている凶悪犯罪者と、平和運動をして思想犯として収監されたお坊さんの場合、という極端な例を考えてみたいと思います。 この二人の囚人の置かれている環境は、ほぼ同じです。看守は凶暴で、警棒で殴ったり食事を取り上げたり、様々な意地悪や嫌がらせをしてきます。 この状況で、粗暴な凶悪犯罪者は、 腕力では負けない やられたらやり返す 絶対に生き延びる という自分らしさの定義に従って行動を選び続けます。彼は、看守の隙を見て殴りかかったり、似たような考え方をする囚人達と徒党を組んで暴動を起こしたり、自分よりも弱い囚人から食べ物を巻き上げたりして生き延びようとします。従って、彼の獄中生活には、暴力沙汰や喧嘩がつきまとい、生傷が絶えません。 一方、同じ牢獄に収監されている平和運動家のお坊さんですが、彼の自分らしさの定義は、 万人を愛す、 万人のために祈る 困っていたら助ける 心の平安を保つ などです。この自己定義に従って、お坊さんは、看守に殴られたり食べ物をもらえなかったりしても、その看守のために祈り、周囲の弱い囚人の世話をし、心の平安を保って牢獄生活を送ります。でも、このお坊さんが牢獄生活を生き延びるかどうかは、全く保証がありません。 この二人のどちらが優等でどちらが劣等か、という話になるのだろうと思われた方、残念ながら、その予感は、はずれです。 ここでは、二人の思想信条の優劣を問いたいのではなく、どちらも、与えられた環境で、自分らしく生き、自分らしい人間関係を看守との間に築いている、ということを言いたいのです。お坊さんは看守との間に、心の平安という性質を供出し、心の平安のある関係を築いています。一方的ではありますが、お坊さん自身は、この関係の中でも心の平安を得る方法を知っているのです。 暴力犯罪者の方は、暴力という性質を供出し、看守との間にも、他の囚人との間にも、暴力的な人間関係を築いています。 このお坊さんに、自分の生存率を上げるためには、もっと戦闘的に自分を守りなさいと教えても、彼はそうしないでしょう。暴力犯罪者に、喧嘩や生傷を減らすためには、もうちょっと平和的になりなさいと教えても、彼自身の内側で根本的に思想が変わらない限り、行動だけを平和的に治すことはできないでしょう。 このように、私達の行動は、常に、私達の思想や自己定義を反映しており、私達の周囲の人間関係も、私達の自己定義を反映した行動を反映しており、つまり、私達の自己定義を反映しているのです。故に、「人間関係は自分の鏡だ」と言えるのです。ですから、上手く行かない人間関係に悩む時、その人間関係に、 私が供出している性質は何か を考え直す必要があるのです。 例えば、人間関係に、猜疑心、従順、存在不安、自己犠牲精神という性質を供出する人は、人からいいように使われ、ないがしろにされたり命令されたり騙されたりし、なぜこういう理不尽な扱いを受けるのだろう、相手に悪意があるのだろうか、あるいは自分の何かがいけないのだろうか、と不安に苛まれるでしょう。 しかし、ちょっとよく考えてみると、他人の善意を完全に信用していない(猜疑心)、自己主張しないことは正しいと思う(従順)、自分の存在に自身がない(存在不安)、自分の欲求を我慢して譲らなければいけないと思う(自己犠牲精神)という性質を自分が供出していて、それが反映された人間関係を周囲に築いているだけなのです。 謙遜、譲り合い、自己犠牲を美徳とする日本では特に、博愛精神や善意や親切と組み合わせて、極端な自己犠牲や我慢を供出してしまう人が多いです。そのため、博愛精神や善意や親切を美徳としているけれど、自己犠牲や我慢をしない人との間に、ストレスの高い人間関係を築いてしまいます。これは特に国際交際カップルに多い現象で、日本人ではない方が悪意なく普通に振舞っているのに、日本人である方が、「いつも自分が我慢している」と相手を責めるケースが少なくありません。 はっきり申し上げますが、「我慢は美徳だ、我慢できる人でありたい」という自己定義を持っているから、我慢を強いられる人間関係を築いているのです。こういう場合、自分の方から我慢という性質を供出するのをやめましょう。相手が変わらなくても、その相手との関係は飛躍的に向上します。 このように、人間関係については、自分がその人間関係の「被害者」であるように感じられる時も、自分が実はその人間関係の「創造者」であることに気づくことが大切です。そして、どのような自己定義に基づき、関係を築いてきたのか、今後はどのような関係を築きたいのか、考え直す必要があります。 日本人には特に重要な点ですが、他者との人間関係を築く際に供出する性質として 自分を大切にする という性質を、必ず組み入れて欲しいと思います。自分を大切にしないまま、愛情深い、相手を大切にする、困っていたら助ける、などの美徳的性質を供出すると、相手を大切にして助ける余り、自分が倒れる人間関係を築いてしまい、最終的に相手を恨みます。 自分を大切にするという性質は、日本人の場合特に、子どもの頃から奨励されていないため、修得するのが大変難しい性質になっています。これについては、また別の記事を後日書きます。 今日のところは、自分がストレスに感じている人間関係に、これまで自分が供出して来た性質は何だったかを分析し、これから自分が供出して行きたい性質は何にするかを意識的に選択し、その性質を反映した行動を選び続けることにより、人間関係を自分で納得できる関係にすることができる、ということを考えてみていただきたいと思います。 それでは、皆様、本日も、周囲の人間関係に自分が選んだ性質を供出して、自分らしく生きられますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 12 Jul
    • 人間関係を良くするために(3)ー相手の反応は現在の自分に対するものなのか

      記事のタイトルを見て、もう大体、内容の予想がついたと思われる方もおられるかもしれません。前回の記事に書いたことの裏返しのようなものですが、今日は、私のやったことに、とんでもない反応をする人は、本当に今の私のやったことに反応しているのか、それとも、何か別のことに反応しているのか、ということを、考えてみたいと思います。 まず、例を挙げて考えてみましょう。 例えば、ここに、病気の話になると耳が聞こえなくなる人が居ます。(本当に聞こえなくなるのではなく、なぜか耳に病気の情報が入らない、という意味です。)その人は、誰かが体調が悪いと訴えると、耳が聞こえなくなってしまうため、体調の話をする人を遮って別の話題を振ったり、体調の悪い人に平気で大量の仕事を頼んでやらせたりし、ものすごく冷たい人だと思われていました。この人は、本当に冷たい人なのでしょうか、それとも何か他の事情があったのでしょうか? 実は、何年も経ってからわかったことですが、この人の家族の中に、体調が悪いことを理由に家事をひっきりなしに手伝わせ、手伝わせるついでに面白くもない愚痴を沢山聞かせ、一日中、この人の時間を占有しようとする人が居るのでした。こういう家族を持ったこの人は、体調が悪い話は遮ってやめさせなければならない、と学んでしまったのです。 このことは、周囲の一人が本当に深刻な病気で倒れた時に、初めてわかりました。というのは、倒れた人を、この人が真剣に介抱したのです。そこで初めて、周囲の人は、「あの、あなた、今日はなんでそんなに病人に親切なのですか?」と聞いたのです。ご本人は、「どういう意味だよ?!病人は看病するのが当たり前だろ」と言いました。「だって今まで風邪引いたりインフルエンザに罹ったりしても、心配してくれたこと一度も無いし、それは仮病だろって言いましたよ。」と言われて、この人は初めて、自分が何年も冷たい人だと思われていたことを知ったのでした。 この種の話は、実は至る所にあります。あるおばあちゃんは、孫(18歳)のカノジョ(17歳)が、別の男の子(19歳)とデートしたと聞いて逆上し、そんな女とは別れなさいと、孫を追いかけ回して泣き叫びました。カノジョに浮気された孫は、そのことでひどく傷ついているところに、泣き叫んで取り乱すおばあちゃんに追いかけ回されて居場所がなくなり、お腹をすかせたまま深夜まで路上をうろついて、最悪の一日を送りました。数日後にわかったことですが、このおばあちゃんは、若かりし頃、彼氏に浮気をされてひどく傷ついたことがあったのです。そう言われてみれば、おばあちゃんがなぜ逆上したのか、わかる気もするのでした。 このように、事情を聞けばなるほど納得なのだけれど、一見して奇妙な行動を、私たちはよく目撃します。そして、そういう奇妙な行動の犠牲になることもしばしばあります。そういう時、私たちは、相手が自分を傷つけようとしたとか、相手が自分を愛していない証拠だとか考えて、相手を責めます。 でも、本当に、相手は、今現在の自分との関係に反応して、自分を傷つけるようなことを言ったりしたりしているのでしょうか。 こういう場面で、冷静になって、 まてよ、この人は過去の何かに反応しているんだ、そうに違いない。 と思ってみる訓練をすると、ものすごく苦手な相手や絶望的に反りが合わない相手とうまくやっていける可能性が生まれます。あるいは、夫婦や親子のように、どんなに反りが合わない部分があっても一生仲良く付き合っていきたい相手と、仲良く付き合える可能性が生まれます。 自分を傷つけるような、あるいは思いやりのかけらも無い、ひどい行動を取る相手が、赤の他人の場合、この人は、私より前に出会った誰かに腹を立てているのだな、でもそれは私とは関係ない、と思うようにしましょう。この方式を当てはめることにより、無駄なストレスを感じずに日々を送れるようになります。例えば、店員の態度が悪い場合、その店員は別に私の顔を気に入らないわけでも、私の服装が気に入らないわけでもなく、昼休みにカレシと喧嘩したのかもしれません。二度と会うことはないのですから、こいつ、きっとカレシと喧嘩したんだな、と思ってやり過ごしましょう。そう思う事によって私がストレスを感じずに済めば、それが事実であろうとなかろうと、それでいいではありませんか。 問題は、自分を傷つけるような、あるいは思いやりのかけらも無い行動を取る相手が、大切な身近な人の場合です。例えば、最初の例のように病人をいたわらない人が、上司ではなく家族の場合、きっと誰かと喧嘩したんだな、で済ませるわけにはいきません。こういう場合は、相手がなぜ、自分を傷つけるような(あるいは自分を愛していないような)行動を取るのか、見極めなければなりません。しかし、大抵の人は、見極めるのではなく、責めることから始めるのです。 「なぜ病気の私をいたわってくれないのか?人の心ってものがないのか?人間としてどうかと思う。」 と、いきなり相手の人格を批判する台詞が飛び出して、大げんかになってしまうのが普通ではないでしょうか。 この普通の成り行きを、普通でない方法で少し変えてみましょう。普通でない方法というのは、 今起きたことを描写する、という方法です。 「私は今、風邪で熱があると言い、あなたは、それを遮って、今日買い物に行ったら、これとこれを買っておいてくれ、と言った。風邪で熱があるのに、買い物に行けるわけがないと思うのだけど、なぜ、私に買い物を頼もうと思ったの?」 と聞くのです。 ここで大切なのは、太字にした最初の部分、今起きたことの描写の部分です。なぜなら、現在、起きていることに、過去からの習慣で反応している人は、自分が習慣的にやっていることの自覚がないからです。人に言われて初めて、自分が奇妙な行動をしたということを自覚できるのです。この人の場合、一回言われたくらいでは、まだ聞こえないかもしれません。何しろ、「風邪」とか「熱がある」という単語を聞いた瞬間に耳が閉じるという条件反射になっていますから、なかなかこちらの言ったことが聞こえない可能性もあります。だから、根気が要りますが、怒ったり泣いたりせず、まず、静かに、何が起きたかを描写して知らせてあげましょう。何度かそういうことがあると、自分は病気の話になると耳が聞こえなくなる傾向があるのだな、と本人が自覚できるようになります。 でもそのためには、この人がこの行動を取った時には、見逃さずに指摘するということが必要です。5回中4回は見逃してあげて、1回は指摘するようなことをしていると、どれほどの頻度で奇行をしているか、本人は気づきません。見逃さず指摘し、けれども叱りつけたり泣き喚いて責めたりはしない、ということを、繰り返してやってあげる必要があるのです。そして、もし見逃してしまった時があったら、その時のことを後から持ち出して恨み言を言うのは、効果がありません。(ペットの躾と似ています。人間の場合も、問題行動を目撃した瞬間に指摘すれば効果がありますが、過去のことを持ち出して反省を促しても効果はないのです。) そして、奇行を指摘するだけでなく、必ず、「なぜそういう行動を取ったのかな?」と聞いてあげましょう。最初のうちは、わからない、知るか!という反応が返ってくると思いますが、やがて、自分がその奇行を何度も繰り返すことを自覚し、自分でも変だなと思うようになると、なぜそういう行動様式を身につけてしまったのか、自分でも知りたくなり、分析するようになります。ある日、「そういえば、私の実家ではこういう習慣があり・・・」と語り始める日がくるのです。 このようにして、過去からひきずっている条件反射の行動様式とは異なる行動を、現在の人間関係の中で新たに身につけるということが可能になります。これをする必要があるのは、恋人や配偶者や大人になってから友達になった人や姻戚など、異なる過去を持つ大人が、今後長期間にわたって協力的な愛情関係を築きたい場合です。 ですが、このようなことは小学校でも中学校でも高校でも教えてくれないため、私たちは、自分を傷つけるようなことをした人が居たら、怒ったり泣いたりするということしか知らずに、大人になり、別の大人との親密な関係を、泣いて怒って築こうとします。だから喧嘩になるのです。 大人の皆さんには、ぜひ、怒る前に指摘する、そして、なぜ自分には奇行としか思えない行動を取るのか聞いてみる、という技術を身につけていただきたいと思います。喧嘩ではなく話し合いをしながら、過去から解放された新しい人間関係を築くための、人生には必須と言える技術です。 そして、怒る前に聞いてみる、ということを実践していくと、この世にはほとんど怒る必要がないこともわかってきます。どんなに不誠実で不親切な行動を取る人でも、その裏には、なるほど納得の事情がある場合が多いのです。(凶悪犯罪は例外です、とお断りしておきますが。)普通の人間関係の中にある「こいつとは反りが合わない」程度の違いは、相手の過去を知れば知る程、許せる範囲の違いになっていきます。 知る必要のない赤の他人に対してまで、このような努力をする必要は全くありませんが、何の因果か家族や姻戚や友達になった人については、少し努力をしてみると、相手が過去からひきずってきたものがわかり、それがわかることによって、相手を過去から解放してあげられるのです。なぜなら、私がその人に真摯に関わることにより、その人は過去に身に付いた条件反射とは異なる新しい行動様式を自分の好みや信念に従って選択し、私との関係の中で、新しい自分を創造することができるからです。 そんな風に、相手の未来の創造に関わることができたら、その人との関係は本当にかけがえのない関係になります。だから、今、身近な人と「反りが合わない」ことを怖れる必要はありません。それは、その人と新しい未来を創造する方向を示す道標なのです。 それでは、皆様、本日も、身近な人と、互いを過去から解放するような、真に創造的な人間関係を築いて、お幸せに過ごされますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 07 Jul
    • 人間関係を良くするために(2)ー自分の反応は現在からか、過去からか?

      シリーズ化しようと思って書き始めるわけではないのですが、なぜかシリーズになってしまいます。 今日は、今、目の前にある人間関係の問題は、今目の前の問題ではないことがある、ということを書きたいと思います。 私達は皆、(残念ながら)過去の記憶を背負って生きています。もちろん、過去があるから、経験や業績や実績があり、楽しい記憶や支えてくれた人の言葉の記憶もあるし、記憶があるから出かけても家に帰れるわけで、自転車にも乗れるわけで、記憶があることは残念だ、と言いきってはいけません。 しかし、過去の記憶があるために、私達は、今を生きていないことがよくあります。(いや、ほとんど今を生きていないです、と言っても過言ではありません。) 今現在の人間関係の中で、ストレスを感じている時、そのストレスは、今、目の前に居る人との関係から来る部分が1割くらい、過去の記憶から来る部分が9割くらい、ということが、実はよくあります。 横暴な父親の言葉の暴力に耐えながら育った人は、横暴な父親を想起させる何か(声が似ている、横顔がなんとなく似ている、体格が似ているなど)を持った父親くらいの年齢の温和な男性に、なぜかストレスを感じて話せなくなる、などということがあります。(実際、この種の理由で上司と合わず、仕事を辞めようかと悩む人も時々居ます。) お客様センターに電話したら、ものすごく邪険に扱われ、腹立たしい思いをした人は、次に全く関係のない別の会社の電話センターに電話して、出た人が敬語を間違えた程度のことで、すごく不愉快になってしまうかもしれません。 過去の記憶に基づく現在の状況へのストレス反応は、軽症であるがゆえに自覚の無いPTSD(心的外傷後ストレス症候群)のようなものです。人間関係のストレスについては、この要素が大きな部分を占めていて、今、目の前に居る人との関係の中で、私達は過去にトラウマになった人間関係を追体験してしまうのです。 そこで、誰か特定の人(毎日のように頻繁に会わなければならない人)や、特定の種類の人(容姿や声、考え方、職種など)に、常に原因不明のストレスや怒りや悲しみを感じる場合、まず、私は今、目の前に居るこの相手に対して反応しているわけではないのかもしれない、と認識することが必要です。 この認識を持たず、感じるままに反応し続ければ、その関係は必ず悪化し、相手はこちらが関係を悪化させたと責め、こちらは、相手が私の神経を逆撫でしたと感じ続けるでしょう。 神経を逆撫でされた、というのは、本当のことです。でも、「相手が」私の神経を逆撫でしたのではなく、相手の持つ何らかの性質が想起させた過去の経験が、私の神経を逆撫でし、治りきっていない傷をえぐったのです。 この違いを認識することが必要です。 この認識を持ったら、次に、一旦、その関係から距離を取ることが必要です。これは、縁を切るという意味ではなく、別の部屋に行く、ということです。別の部屋に行き、相手に対する自分の今の感情的反応は、どの過去体験への反応だったかな、と考えてみると良いのです。 あなたの神経を常に逆撫でする人が、毎日会わなければならない人(家族)の場合、相手に、この問題をわかってもらうことも大切です。「私があなたに理不尽なほど腹を立てるとき、私は実はあなた以外のある人に腹を立てているので、私が腹を立て始めたら、別の部屋に行って」と頼んでおく、という方法もあります。 そんな芝居がかったことができるか、と思われると思いますが、実は、過去の記憶からの反応を現在の人間関係に持ち込んで問題を起こしている例は、家族の間にものすごく多いのです。夫婦の間にもよくあります。 意外によくあるのは、周囲の大人に「平凡な顔なんだから」と言われて育った娘が、夫に「平凡な顔だね」と言われると異様に腹が立つ、いう例です。その人は本当に平凡な顔かもしれませんが、顔の可愛さが一番気になる年頃に何気なく言われた「平凡な顔なんだから」という言葉が、意外と深い傷を残していたのです。そこへ、好き合って結婚した夫が「君は平凡な顔だけど可愛いよ」などと漏らした日には、たとえそれが事実だったとしても、たとえ「可愛いよ」という褒め言葉が後に付いていても、怒ってしまったりするものです。でも、その許せない気持ちは、夫に対してではなく、子どもの頃に大人に傷つけられて以来、積もり積もった恨みだということです。 このように、生命には関係のない、ほとんどどうでもよいレベルのことで、私達は過去からひきずっている感情的反応を繰り返すことにより、夫婦間や親子間の大切な人間関係の軋轢を生んでしまいます。 更に、顔が似ているということが生む命に関わる悲劇として、夫婦関係がうまく行かなくなってきたときに、父あるいは母に顔が良く似ている子だけが虐待されて育つという大変痛ましい例があります。夫婦関係があまり上手く行かなくなってきた時には、このことに特に気をつけていただきたいと思います。 自分の感じている人間関係ストレスが過去から来ているな、と気づいたら、自分の中の過去の感情的わだかまりを、できるだけ早期に解消しましょう。 一番簡単な方法は、過去に傷つけられた言葉と反対の褒め言葉を、鏡を見て自分の顔に言う、という方法です。 これもまた芝居がかっていて、そんな照れくさいことができるか、と言う方が多いですが、過去に何回も言われて傷ついたことは、反対のことを何回も言って中和するしかありません。 例えば、先ほどの「平凡な顔なんだから」という言葉に傷ついて育った女性の場合、鏡で自分の顔を見て、 「普通に可愛い顔なんだから」と言ってみましょう。一日10回くらい言っているうちに、過去に傷ついた心が癒されて、鏡に映る自分の顔に愛着を持てるようになります。 周囲の大人がどちらかというとネガティブ思考の安全志向で、「お前、頭悪いんだから、親の言うこときいとけよ」というようなことを言って聞かされた方は、 「普通に頭いいんだから、やればできるんだよ。」 と自分の顔に言ってあげましょう。一日10回くらい言っているうちに、自分の顔を見ると、やればできる気になるようになります。 過去に起きたこと(傷つけられた事件)を遡って変えることはできませんが、過去に起きたことにより無意識の底に植え付けられた自己否定感は、現在の自分が自分で自分を愛し肯定する努力によって、解消することができます。 鏡のエクセサイズを一日か二日しかやらずに、やっぱり癒えない傷だと言い張る人が居ますが、子ども時代から十年以上もかけて形成された無意識の底のことなのですから、一朝一夕に変わらなくてもショックを受けず、地道に鏡を見てやり続けてみてください。 そして、配偶者や親友などのように身近な人には、踏まれたら困る地雷のありかは伝えておき、現在の大切な人との関係を過去から引きずっているもので悪化させないように用心しておきましょう。 大人の男女交際については特に言えることですが、相手に性的な魅力を感じた時点から、私たちは相手との意識的な関係形成の努力を怠り、情緒や性的興奮に舵を取らせてしまうことがよくあります。 しかし、性的魅力を感じている相手との関係の中でも、過去からの傷は必ず、思いもよらない方向から、私たちの心を傷つけ、関係を壊しかねない感情的反応を起こさせます。過去の傷に現在の良好な関係を壊されないために、私たちは、敢えて意識的に自分と他者の関係を分析し、過去からの反応を現在起きていることと切り離すという努力をする必要があるのです。 すべての人がこれを実行したら、世界中のすべての人間関係が、皆、今より少し良い関係になるはずだと私は思いますがいかがでしょうか。 それでは、皆様、本日も、過去に舵取りを渡さず、今にあるご自分がご自分らしく生きられ、良い一日を過ごされますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 26 Jun
    • 人間関係を良くするために

      この前の記事には、「人間関係を上手くやって喰いっぱぐれないようにしておけ」と言うのは、脳内禁止用語だと書いたのに、今回は、人間関係を良くするための知恵について書きます。 おかしいな、と思われるかもしれませんので、ちょっと説明します。 人間関係を「上手くやる」というのは、事なかれ主義で、事を荒立てないように、波風を立てないようにやる、というイメージで、そこには、相手への誠意も自分への誠意も実は無くてもいいのです。 人間関係を「良くする」というのは、その関係の質を向上し、自分にも相手にも貢献するような良好な関係性を築く、という意味を込めて使っています。 他の文脈では、「上手くやる」も「良くする」も同じ意味で使われる場合もあるかもしれませんが、この記事では便宜上、上記のような区別をして使用しますので、ご了承ください。 さて、人間関係を「良くする」知恵は、10も20も30もあると思いますが、今日話題にしたいのは、 相手を批判/議論しない という知恵です。 なんだそれなら「上手くやる」んじゃないか、と思われるかもしれませんが、上手くやるのとは違うのです。どう違うかと言いますと、相手を批判したり相手に議論を吹っかけたりしないけれど、自分は相手の意見や指図に一切振り回されず、相手が気を悪くしても意に介さないのです。故に、相手との関係が悪化することは大いにあり得ます。指図通りに動いてくれない人に腹を立てるような相手の場合、必然的に、関係は大いに悪化するでしょう。 それなら人間関係を「良く」してないじゃないか、と思われるかもしれませんが、それも違います。相手の指図に従わず、自分のやるべきことをやることによって、自分は自分自身との人間関係を良くしているのです。 多くの人があまり考えたことがないことですが、私という人間の関わる人間関係の中には、私と私の人間関係というものがあるのです。 私の中には、のびのびとやりたいことをしたがる子どものような自分(インナーチャイルド)と、それを叱責したり、制止したり、あるいは育成したり激励したりする親のような自分(インナーペアレント)の間の人間関係が常にあるのです。 指図したがる人に服従し続ける人間関係に耐えている時、私の中の親の部分と子の部分の人間関係は、親が子をいじめている関係になっているということに気づいてください。親に虐待されて育った人は、たとえ、自分の子どもを虐待する親にならずに済んだとしても、自分を虐待する言葉を内面化しているという意味で、自分に対して「虐待の連鎖」をしている場合がよくあります。 社会の中で人間関係を「上手く」やることが、自分の中の自由な子ども部分をいじめることになっていないかどうか。この点が、「上手くやる」と「良くする」の根本的な違いなのです。 自分の中の親部分が子部分をいじめなくても、誰かとの社会的な人間関係が良好である場合は、その人間関係をそれ以上「良くする」必要はありません。他人は、そんなあなたを見て、「あの人と上手くやっているみたいね。」と言うかもしれませんが、厳密に言えば、「上手い」関係を築いているのではなく、「良い」関係を築いているのです。 微妙なところですが、ここを区別できるように、相手との人間関係という文脈の中の、自分と自分の人間関係の質というものに、注意を払ってみましょう。 自分が自分をいじめることによってやっと成立している、傍目には「良好な」人間関係にストレスを感じているなら、そのストレスを脱するために、相手を批判する必要は全くありません。 人間関係がストレスになっている時、真っ先に改善できるのは、その人間関係という文脈の中の自分と自分の関係です。自分と自分の関係は、自分一人で100%コントロールできますから、相手が変わってくれなきゃ無理、ということは絶対にありません。 だから、人間関係を向上するために、相手を批判したり議論したりする必要は無い、ということになるのです。 と、ここまでは抽象論でしたので、これを具体論におろしてみましょう。 世に「これでもか」というくらいよくある嫁姑問題の例です。 姑と上手く行っているのに、嫁の方がひそかにストレスを感じ続けているという場合、そのお嫁さんは、姑と「上手くやる」ために、自分の中の親部分が自分の中の子部分をいじめ続けているのです。例えば、お嫁さんの方がお洒落をしてお化粧をして友達と夜遊びに出かけたい時に、「でも、そんなことしたら姑に尻軽女と思われるなあ」と思って、出かけるのを諦めるとします。このお嫁さんは、いつも家に居て、きちんと家事をこなしていますから、お姑さんはもちろん「良いお嫁さんをもらったわあ」と近所に吹聴しているかもしれません。 でも、これは「良い」人間関係ではありません。お嫁さんの心の内で、常に、自分に制止をかけ自分いじめをしていますから、この外見は良い人間関係は、お嫁さん自身の自分虐待を基盤として成り立っているのです。そういう人間関係は「良い」関係ではありません。それは、大切なものを犠牲にして「上手くやっている」だけです。 それでも、お姑さんを喜ばせているのだから、そのお嫁さんは偉い、でしょうか?このお嫁さんは、自分で自分を虐めていることを誰にも言わずに、一人でストレスを感じて苦しんでいます。いつの日か、「私がこんなに苦しいのは、あなたのせいよ」とお姑さんに対して爆発してしまう日が来るに違いありません。 これは、お姑さんに対して誠意のある人間関係ではないのです。相手に本当の自分を隠して、何とか「上手く」やっているだけで、やっていけなくなったら、突然相手を責めることになります。 相手を批判したり、相手に議論を吹っかけたりする行動の裏には、 自分は悪くないと言ってもらいたい、自分は正しいことを世に示したい、 という欲求があります。でも、正しいも悪いもないのです。結婚した後に、お洒落してお化粧して友達と夜遊びに出かけたいと思うのは、正しいことでも悪いことでもありません。行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなければいいだけです。このこと自体は、正しくも悪くもない中立な事象です。 こういう状況下で、嫁が夜遊びをするのは正しいか悪いか、という論点に議論をすり替えて、「お義母さんは頭が古いのよ!私の行動を制約するのはやめてよ!」と相手を批判するのは、問題の本質を見逃しています。 本質は、お嫁さん自身の中の親の部分が、楽しいことをしたいという子の部分に、制止や叱責の言葉を浴びせて、いじめ続けている、ということなのです。自分と自分の人間関係の部分を無視して、自分がストレスを感じている責任を相手に転嫁してはいけません。 こういう状況で、本当に人間関係を良くしたいなら、お嫁さんは、「今夜はでかけるね」と言って、お洒落してお化粧して夜遊びするべきなのです。それまで家にこもって家事をよくやっていたお嫁さんがこういうことをすると、お姑さんはぶったまげると思いますし、「なんで、どうして、やめときなさいよ」と制止の言葉をたくさん言ってくると思いますが、そこで大事なことは、そういうお姑さんを批判したり黙らせたりすることではなく、そういうお姑さんに同調して、「やめときなさいよ」と言い出す自分の中の親部分を、「いってらっしゃい。あなたは人生を楽しむために生まれたのだから。」と言ってあげる愛ある親に変えていくことです。 この仕事は、お姑さんが代わりにやってくれることはありません。お嫁さん自身が自分でやらなければならない心の中での作業です。 自分を慈しみ、育て、激励する親を自分の内に持つ、ということは、とても難しい作業で、特に、批判・嘲笑・制止の言葉でいじめ続けた親に育てられた人には、困難な作業になりますが、それでも、この原理を理解して実践し続ければ、必ずできます。 トラブルになる人間関係というのは、往々にして、大切な人間関係です。隣家が変な人で、突然、難癖をつけられた、というような人間関係のトラブルも、時にはありますが、多くの人間関係のトラブルは、大切な人との関係です。母子、父子、夫婦、兄弟、姉妹、親友、義理親子などの間の人間関係が、最も大切で、最もストレスになります。 それはなぜかと言うと、お互い、「上手くやりたい」という気持ちが強いからです。誰でも、大切な相手とは喧嘩したくないし、相手に好かれたいし、相手を喜ばせてあげたいのです。だから、相手の意思や希望を尊重し波風立てずに同調し上手くやる、ということをしたくなるのです。しかし、それをやりすぎると、自分が自分を制止して我慢させ続け、自分と自分の人間関係が悪化の一途を辿ります。そしてある日ある時、爆発して、相手にとっては晴天の霹靂である雷を落としてしまうのです。 そうならないように、常日頃から、自分と自分の人間関係に注意を払い、自分を慈しみ、育て、励ます言葉を自分にかけ続けることが大切です。 相手との人間関係は、どんな関係でも、自分が50%貢献しています。 そして、その人間関係という文脈の中の自分と自分の関係は、自分が100%コントロールしています。 どんなに絶望的にこじれたと思われる人間関係でも、自分がこれだけの部分をコントロールできるのだということに気づいてください。そして、そのコントロールできる部分の大半は、あなたの心の中で起きていることですから、変える練習をすれば必ず変えられます。 なお、人間関係のトラブルの中には、相手が本当にこちらを傷つけることにしか興味がない、という関係もあります。いじめっこといじめられっこの関係、パワハラ上司と部下の関係、虐待を楽しいと感じる人格異常の親と子の関係などです。そういう場合は、人間関係のトラブルに括るのがそもそも間違いで、犯罪対策という観点で考えるべきです。犯罪としか言いようのない人間関係に悩んでいてこの記事を読まれた方がおられましたら、この記事は犯罪的人間関係には参考にならない内容ですので、ご了承ください。ご自分の心の中で起きていることを変えればいいのだ、などと悠長なことを考えず、すぐに危険な相手や場所から退避し、安全を確保する必要があります。 それでは、本日も、自分で自分を慈しみ、育て、激励して、何か楽しいことを一つでも二つでもやって、良質な一日をお過ごしください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 25 Jun
    • 元気を奪う宇宙観(12)脳内放送禁止用語

      実に1ヶ月以上空けての更新となりました。先月はネット接続の不具合が続いて、ネットが使えなかった時期があり、その後も色々忙しく・・・、忘れた頃に、元気を奪う宇宙観シリーズ総集編です。 本日は、自分の元気を奪う様々な自己抑制的、自虐的、自己攻撃的、自嘲的思考を「脳内放送禁止用語」とし、それを「脳内放送奨励用語」に変換するということを考えてみたいと思います。 私達は、実は、知らないうちに、脳内で放送するべきでない言葉を沢山放送しています。なぜそうなったかというと、人間という動物は、攻撃力も防衛力もあまりない弱い生命体ですから、脳の配線からして、保身のために危ないことには近寄らず生命維持さえできればいいと考えるようにできているからです。 危ないことというのは、古代人の場合、猛獣、飢餓、事故、疾病など、明らかに直接、死に至る危険でした。現代人にとっての危ないことは、事故、疾病、飢餓までは古代人と同じですが、他にも、落第、失業、人間関係、恥など、直接、死に至るわけではないけれども、生存を脅かされるような気がする危険が含まれます。 生存を脅かされるような気がする危険について、私達は子どもの頃から周囲の大人に様々な制止や叱責の言葉を言われて育ちました。 ・落第したら就職できないぞ。(つまり喰いっぱぐれるぞ、つまり餓死するかもしれないぞ。) ・失業したら餓死するかもしれないぞ。 ・人間関係を上手くできないと就職できなかったり失業したりするぞ。(つまり、餓死するかもしれないぞ。) ・若い女が夜遊びして夜遅く帰ってくると評判が悪くなる。(つまり、結婚できないぞ、つまり、喰いっぱぐれるぞ、つまり餓死するぞ。) と、大体、親や教師が口を酸っぱくして言ったことは、「餓死するかもしれないぞ」という動物的な生存の危機に還元できます。 だから、喰いっぱぐれない(餓死しない)ような生き方を選べ、ということを、親や学校の先生は教えてくれました。これは決して悪意による教えではありません。極めて本能的な、子どもの生命を守りたい親や教師なら、何はさておき子どもに教えておかなければならないと思うような教えです。 しかしここで、他の動物にはあり得ない(と思われる)人間特有の悩みというものが浮上します。 人間には、生存したいという欲求の他に、自己実現したいという欲求があるのです。この欲求は、例外なくほぼすべての人間にあるように見受けられます。 人間は、食べ物、着る物、住む処が確保されても、自己実現できないという理由で、自らの生命を進んで脅かすほど心理的に苦しむことができるという、大変特異な動物です。衣食住が満たされた人が、うつになったり、食事を摂らずやせ細ったりする例は山ほどありますが、社会の底辺に位置づけられた人が、一つ地位が上の人のご機嫌伺いをして現在の低い地位を守ろうとすると、「おべっか使い」「こびている」「上司の犬」などと、人間社会では軽蔑されることすらあります。 ここが摩訶不思議な人間特有の悩みです。脳の構造は生命維持を最優先しているのに、同じ脳(あるいは全身)のどこかにある私達の心は、自己実現や人格・品格という生存に役立たないものを優先したがります。そして、脳内物質や全身のホルモン状態を測定すると、生命維持を脅かす飢餓、寒暖、疲労に対して出る生理的ストレス反応と全く同じ反応を、自己実現ができていないという抽象概念や思考に対しても、身体が出すことがわかります。 面白いのは、「失業するな、落第するな、上司や教師や年長者や家族に媚びて円満にやっておけ」という、生命維持に役立つ指令が、自己実現を最優先したい自分に対する大きなストレス要因になる、という不条理です。 いや、これは面白がっている場合ではなく、深刻な問題です。生命維持を優先する限り、自己実現はできず、自己実現を追及するかぎり、生命が脅かされ、いずれにしろ、私達はストレスを感じて生き続けるしかないのでしょうか。 ここで、大事な役割を果たすのが、各個人が持つ宇宙観です。 生理機能に抗うことは生命体である限りできない人間は、生理的なストレス要因(飢餓、口渇、疲労、疼痛、寒暖など)には、生理的なストレス反応をせざる得ませんが、自己実現に関するストレス要因は、自分の頭の中で構築した思考や概念こそがストレス要因ですから、自分の頭の中の思考や概念を少し変えることで、生理的ストレス反応をしなくても済むのではないでしょうか。そのために、ストレス反応をしないような宇宙観を選択して信じることが必要だと私は思います。 つまり、直接生存を脅かしているわけではない事象に、あたかも今日明日の生存が脅かされているような恐慌反応をするという習慣的な連想を、やめればよいのです。この連想をする癖はどこから来ているのか、それは、冒頭に書いた通り、子の生存を心底願う親や恩師の教えが内面化されたものです。 そこで、折角、自分の生存を第一に考えてくれた親や恩師には申し訳ありませんが、 今日明日中に私の生命を直接脅かさないものは、私の生命を脅かさないものとみなす。 というバナー広告を、頭の中に掲げてみましょう。これが、脳内放送禁止用語を脳内放送奨励用語に書き直す大前提です。 それでは、具体的に転換の練習をしてみましょう。 例) 世間体が悪いことはしてはならない → 世間体が悪いことをしても別に死ぬわけではないから、世間体は私の生命への脅威ではない。 採算が合わないことをしてはならない → 採算が合わなくても今日明日死ぬわけではないから、採算が合わないことは私の生命への脅威ではない。 勉強は理由がわからなくても何がなんでもしなければならない → 今すぐに勉強しなくても、別に死ぬわけではない。勉強をしないことは私の生命への脅威ではない。 とにかく就職して、一度就いた仕事は絶対やめるな → 今日明日食べるものにも困る状況でなければ、仕事を辞めても変えてもいい。自分のライフワークにつながることをするのが重要だ。 失業は深刻な問題だ → 今日明日食べるものに困る状況にはまだなっていないから、まだ深刻ではない。自分に本当に合った仕事を探そう。 上記の例を読んで、このように、言い換えてしまうことに、不安を感じますか?言い換え後の文章を見て、怒りを感じますか?言い換え後の文章を実践しているような家族や知人が居て、そんなことを考えていてはだめだと、叱りたくなりますか?そいつだけには、このブログを見せてはだめだ!と思いますか。あいつみたいになりたくない、と怒りを込めて思いますか? そのような不安や怒りを感じる部分が自分の中にあるということは、生存不安を煽る宇宙観が正しいという証明では、実はありません。 生存不安を煽るのが正しいかどうかは、自分が生存不安を感じている理由こそが直接の原因となって実際に多数の人が死亡したかどうかによって、初めて証明されます。 ライオンに追いかけられた人は一生懸命、逃げた→それでも捕まって食べられてしまった。ライオンに追われて逃げ切った人より逃げられなかった人の方が多いことを私は知っている。 この時、あなたがライオンに生命の危険を感じることは正しい、と言えます。但し、私たちは動物園でライオンを見ても生命の危険は感じません。動物園でライオンに人が食べられてしまったところを目撃したことは実はないので、同じライオンであってさえ、本当に自分の生命への脅威なのか、場合によっては違うのか、冷静に判断できています。 この例と比較したとき、今日失業した人が、生存の危機を感じてものすごくショックを受け、全身がストレス反応状態に陥るのは、論理的な反応と言えるでしょうか。今日失業した人が、今日明日中に飢え死にしてしまう確率は、一体どのくらいでしょう? といいますか、皆様は、失業したために飢死した人を、直接何人知っていますか?(新聞で読んだ事例は数に入れないで下さい。新聞というものは、珍しい事件ほど希少価値があるので報道します。失業した人が、再就職するまで飢え死にしなかった事例は、絶対に報道されません。新聞を読んだから世界的傾向を知っているわけではありません。) 失業であれ、貧困であれ、世間体であれ、勉強(不勉強)であれ、採算であれ、自分が生存の危機と捉えている様々な事象が直接の原因で死亡した人を直接何人知っているか、一度考えてみてください。 私の場合、世間体が悪いことを沢山して親戚一同のひんしゅくを買った親族を知っていますが、その人は、親戚一堂の様々な不吉な予言にも関わらず、世間体の悪いことをし続けて50年以上ぴんぴん生きています。あんなことをしていたら、喰いっぱぐれて大変な死に方をするという親戚一同の予言は悉く外れました。 でも、子どもの頃から、怠けたり勉強をしなかったりした時に必ず引き合いに出されていたこの親族のことを、私は未だに覚えています。周囲の大人が、世間体の良い(従って生存率が高いかもしれない)人間に私を育てるために、口を酸っぱくして世間体恐怖を教え込んだことは明らかです。 このようにして、私は、世間体という実は私の生命を脅かさないものを怖れる気持ちを、幼少期から学び、世間体が悪いと思った瞬間に、全身に大々的なストレス反応が起きるということを、若い頃はよくやっていました。 この例のように、親や恩師から教え込まれた非論理的で根拠薄弱な生存の危機感を持っている場合は、それを脳内放送禁止用語とみなし、脳内放送奨励用語に変換する訓練を、自分でしなければなりません。 皆様も、ご自分がストレスに感じる事象や概念について、それが、道でライオンと出くわしたくらいに怖いのはなぜなのか、一度じっくり考えてみてください。 そして、その脳内放送禁止用語を、どのように脳内放送奨励用語に書き換えられるか、一度考えてみてください。 以下に、よくある脳内放送禁止用語を列挙しておきますので、練習問題としてご活用ください。 ・学歴だけはつけておけ。 ・結婚だけはしておけ。 ・~歳までに結婚して子どもを持て。 ・~歳までには一人前の仕事に就け。 ・就職するなら、一流企業に入れ。 ・高給取りになれ。 ・高給取りと結婚しろ。 ・年上の人はとにかく敬え。 ・女なのだから男の後を歩け。旦那を立てろ。 ・重大疾病に罹るな。(家族に迷惑をかけるな。) ・重傷を負うな。(家族に迷惑をかけるな。) ・障がい者になるな。障がい者を生むな。(家族に迷惑をかけるな。) ・身づくろいをきちんとしろ。みっともない恰好をするな。女なら化粧しろ。 ・金にならないことはするな。 ・金にならない友達とは縁を切れ。 などなど、上記はすべて、私達の元気を奪う、根拠薄弱で非論理的な宇宙観です。本当は生命の危機ではないことに関する多大な恐怖心を植え付け、恐怖心に駆られて生きるための宇宙観です。 「けっ、こんな馬鹿なことは私は思ったことも言ったことも考えたこともないわい」と思う方でも、重大疾病や重傷を負うと突然、家族に「迷惑をかけて済まない」と詫び始めます。疾病や重傷は「迷惑をかけることになる」という発想は、自分でも驚くほどに、根深いものです。疾病や怪我を負った自分の存在をありのままに肯定することは、かくも難しいものなのです。 でも! 自分で意識して、脳内放送禁止用語を脳内放送奨励用語に書き換える練習をし続ければ、必ず、恐怖でがんじがらめの状態から解放されていきます。 脳内放送奨励用語は、ご自分の好きな言い方にしてください。但し、その大意は、常に、 ま、なんとかなるさ! とか、 人間はひとりぽっちじゃないんだし、とか 誰かがなんとかしてくれるさ。 であるべきです。心にもくもくと不安の雲が湧いてきたら、「ま、なんとかなるさ!」「なんとかしてくれるさ!」「ひとりじゃないんだし!」と思う練習をすることにより、不安の雲の黒さが日増しに薄らいで行くでしょう。 不安の雲の陰が薄らいでくると、あらあら不思議、今まで見えなかった地平線やらその先の明るい未来が見えてきたりするものです。 それでは、本日も、皆様、脳内放送禁止用語に囚われず、恐怖に囚われず、安心しておおらかに生きられますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 15 May
    • 元気を奪う宇宙観(11)〜があれば

      お金があれば、思い通りに生きられる。 時間があれば、好きなことをできる。 仕事があれば、恋愛・結婚できる、一人暮らしできる、 車があれば、デートできる、海に行ける、 体力があれば、運動するんだけど、等々 私たちは、~があれば、~が可能になる、という発想をよくします。私自身も、日常の会話の中で、頻繁に、「~があればやるんだけどねえ」と言っています。「~があれば」という理由で、手を付けることを先延ばしにしている案件が、数えるとざっと5件くらいはあるでしょうか。 私の場合は、「時間があれば」と「体力があれば」が、今のところ、一番頻繁に使われる「やりたいことをできない理由」です。 「~があれば」が、やりたいことへの障壁になっている場合、この障壁は~が手に入るまで乗り越えられないのでしょうか。乗り越えられないと考える人は、元気のない人になります。乗り越えられると考える人は、元気のある人になります。「~があれば」という理由で元気のない人が、元気のある人になる方法を、今日は考えてみたいと思います。 まず、最初に欠かせない手続きは、真相究明です。 「~があれば」と言う時、 1)本当に~が無い、 2)本当は~が少しあるが、無いと思い込んでいる、 のどちらが本当なのか、見極めなければなりません。 例えば、時間がない人は、まず一週間、自分の一日の行動を悉く記録し、本当に時間がないかどうか、調べてみる必要があります。子育て中だった頃、私は常に時間が無かったのですが、時間管理のコツについてネットで読んで実践してみるべく、一週間、自分の行動を記録したことがありました。その結果、わかったことは、本当に一分も無駄にしている時間はなく、それでも睡眠時間が不足しているということでした。つまり、当時の私は、時間管理法を学んでも、時間が無いという事態を改善することは不可能だったのでした。 しかし、子どもが成人して巣立った後の私が時間が無いと嘆く時、本当は、時間はあるのです。子育て中は絶対に観なかったようなテレビ番組を沢山観ているし、ブログも書いているし、インターネットサーフィンもしているし、猫とじゃれたり、一日一時間くらい運動したり、睡眠時間も7時間以上取っています。今の私が「時間があればできるのに」と嘆く時、正確には「時間の使い方の優先順位を正せばできる」という意味です。 時間とお金に関しては、あればできる、と思う場合、本当は少しあるのに優先順位を間違って使っているのではないか、とまず疑ってかかり、記録を取ってみることが必要です。お金だったら、一週間(あるいは一ヶ月)のお金の出入りを悉く記録し、自分が本当にやりたいことに使う代わりに、今やらなくても/買わなくてもよいものに使っていないかどうか、確認してみてください。お金が少しはあることがわかったら、お金の使い方の優先順位を見直し、自分にとって一番必要なことに、一番先に出費するようにしてください。確実に、夢に向かって一歩一歩進むことができるようになります。 体力に関しては、「運動する体力がない」と言う場合、1キロ歩けないという意味なのか、500メートル歩けないのか、100メートル歩けないのか、具体的に考えてみましょう。そして、「~メートル歩けない」という文章を「~メートルまでなら歩ける」という肯定文に書き換え、歩ける距離を散歩することから始めてみれば、体力は確実に付きます。人体は、果物や獲物を探して、二足歩行を一日中続け、日の入りには就寝し、日の出とともに起き出すという生活に最適設計されています。歩くことと睡眠による体力の回復は、本当に驚異的ですので、体力こそが人生最大の障壁になっている方は、数歩でも歩けるなら、歩くことと、よく寝ることから始めてください。(因みに、私は、子育てが終わった頃、1キロ歩けない体力に落ちていたので、自宅から500メートル以内で折り返す散歩から始めました。5年後の今日、週4~5日、5キロ前後のジョギングをする体力を維持しています。) 車/仕事/持ち家などが無いという時、あるかないかは一目瞭然ですから、真相究明は必要ありません。 さて、真相究明により、本当に~が無いということが確認されたら、そこから何ができるのか、そのことを考えてみたいと思います。 「~があれば」やりたいことが明確にあるなら、~が無くてもやる、というのが、解決策になります。なぜなら、何が無くてもやりたいくらいに好きなことなら、とにかくそれをやることにより、必ず、幸福感が増し、健康増進し、自信がつき、人間関係が向上し、人脈ができ、恐らく運気が変わるからです。 と言われても意味がわからん、と思われる方のために、私が最近お手伝いした一件を例に挙げてみます。 その女性は、20代、シングルマザー、子どもの父親が養育費をくれない、身体を壊して入院したことにより一時的に処方箋薬中毒になっている、実の親の疲れて来て意地悪なことを言うようになった、という人でした。 大変可哀想な話でした。本人のせいではない不運のために、なんでここまで苦しめられるのかと、他人事ながら憤りを感じました。 しかし、憤っていても、同情していても、この人の問題を解決することには繋がりません。そこで、にっちもさっちも行かない状況のために取って置きの「奇跡の質問」をしました。 「今夜寝て、明日目が覚めたら、あなたはなぜか、今の問題が夜の間に解決してしまったと確信します。何らかの奇跡が起きて、あなたの問題は解決したのです。そうしたら、あなたは、朝一番にまず何をしますか。」 すると彼女は、 「娘達を抱き締めて、どんなに愛しているか伝える。」 と答えました。私は、 「それでは、それが、今のあなたが、何は無くてもやるべきことなのではないでしょうか。中毒を脱していなくても、恋人ができなくても、誰も支えてくれなくても、それだけは毎日やってください。あなたは、良い母親になる方法を既に知っています。」 と言いました。長い沈黙の後、彼女は、 「その通りだ。私は良い母親になる方法を知っている。やってみる。」 と言い出しました。 20代、シングルマザー、養育費をもらえていない、恋人を持つ時間も体力もない、処方箋薬中毒、実の親に見放されかけている・・・泣きっ面に蜂というこの状況で、良い母親であり続ける自信を喪失する気持ちはよくわかります。何かが変わらなければ、一つか二つ、外部条件が改善しなければ、もう自分には何もできないと感じる気持ちもよーくわかります。それでも、この人は、良い母親になる方法を知っており、それを実行する手段も、実は持っていました。 恋人ができなければ、 親がもっとサポートしてくれなければ、 中毒を脱することができなければ、 できないと思っていたことは、実は、恋人が居なくても、親がもっとサポートしてくれなくても、中毒を抱えたままでも、ある程度までできることだったのです。 できない理由に焦点を当てて物事を考えていた間、できなくて当然だという結論を信じるに至っていたのです。 できることに焦点を当てることにより、何はなくてもできるという結論にシフトすることは、この人のような極端な例でさえ、可能でした。 と私は信じていますが、どうでしょうか。楽観的すぎるでしょうか。でも悲観したら問題が解決するわけではありませんから、せめて楽観することにより元気を取り戻し、できることを一つ一つやってみる方がよくありませんか。 ~があれば~できるのに、と思う時は、~は無くても~するのだ、に転換してみてください。 車があればあの子をデートに誘うのに、と思ってくよくよしている若者は、公共交通機関で行かれる素敵なデート先を探して、とにかく、デートに誘うのです。デートの予定を立てるところから、デート中の気遣いまで、その子を本当に大切にしていることを示すことができれば、格好良い車を持っていることよりも、遥かに確実に、愛が伝わります。 時間とお金があれば音楽を勉強するのに、と思っている方は、時間とお金が無いのに音楽を勉強してください。このブログを読んでいる暇があったら音楽をやってください。今は、YouTubeなどのインターネットのメディアもありますし、楽器を持たずに音楽を制作できる様々なアプリケーションがあります。時間とお金と楽器がなくても、有名でなくても、音楽家になれる条件は整ったと言っても過言ではない時代になりました。ぜひやってください。 お金があれば家を買って家庭菜園を楽しむのに、と思っている方は、借家のベランダで家庭菜園を楽しんでください。いつか持ち家を持てた時に、素晴らしい庭を造る能力が総て備わっていて、短時間で、夢の庭を実現できるでしょう。あるいは家庭菜園の趣味が高じて、ガーデニングを職業とすることになり、その収入で、予定よりも早く持ち家が持てるかもしれません。 才能があれば~をやるのに、と思っておられる方は、才能がなくても~をやり続けてください。世の中に数在る才能のうち、「やり続ける情熱という才能」は、最強の才能です。天性の才能を持っていてもやり続ける情熱という才能を持っていない人は、途中でやめてしまいます。やり続けたい気持ちがあるなら、才能が無いと思っても、やり続けてください。必ずの形になります。 学歴があれば○○をやるのに、と思っておられる方は、○○に関する本や文献を沢山読み、ドキュメンタリー番組や教育番組を沢山見て、学歴が無くても○○について1から100まで語れる人になってください。そういう努力をしている過程で、○○に関する貴重な出会いがあり、それが職業につながるという保証はありませんが、必ず、○○はあなたの人生にかけがえのない一部分になります。 お金があれば子どもにもっと良い生活をさせてあげられるのに、と常日頃思っておられる親御さんは、お金がなくても子どもにあげられる最良の贈り物である「愛」を、毎日プレゼントしてあげてください。お金で買えるものよりも遥かに高価なプレゼントです。これさえあげていれば、他に何もあげなくても、お子さんは大丈夫です。 それでは、皆様、本日も、「~があればできるのに」という思いに元気を奪われることなく、「私は何が無くても~をするように生まれたんだ、それだけは毎日やるんだ」と思ってそれをやり続け、大いに自己満足して楽しく元気にお過ごしください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 14 May
    • 元気を奪う宇宙観(10) 勧善懲悪

      本日は、実に多くの人が、なんとなく知らないうちに信じていて、そのことによって、人生に一度くらいは大変な目に遭うことになる信念、勧善懲悪信仰を扱います。 勧善懲悪信仰とは、一行にまとめれば、幸福は善行に比例する、という思い込み(勘違い)です。 私達の勧善懲悪願望を満たしてくれる物語が、私達は大好きです。このことをエンターテインメントの制作者は実によく心得ていて、漫画でも小説でも、テレビドラマでも映画でも、善人が途中大変な苦労をしながら、最後には夢が叶ったり、命が助かったりして、救われる、あるいは勝利するという展開にするのが、観客に喜んでもらう定石となっています。 それでは芸術性や現実味に欠けると言って、勧善懲悪な展開を避ける作品も沢山ありますが、難解だ、感動しなかった、奇を衒っている、一般向けではない、アート系などと評されて、興行収入が上がらなかったりします。 これが理由で、銭形平次や、遠山の金さんや、必殺仕事人などの往年の45分時代劇が、何十年間も夜8時台の定番として放送されたりしたわけです。そして、日本人が忠臣蔵を好きなのも、最後に吉良上野介の首が落ちるからです。吉良の首を取れずに、四十七士が切腹して終わるだけだったら、国民的人気を誇る物語にはなりませんし、ハリウッドまで行って英語の映画になることもなかったでしょう。 私たちはなぜ、勧善懲悪が好きなのか。それは、善行は最後に必ず報われると信じることにより、安心できるからです。この世が勧善懲悪原則によって回っているとすれば、普通程度の善人である自分の未来の普通程度の幸福が保証されると感じるからです。 しかし、この考え方には大きな落とし穴があります。 人生には勧善懲悪原則では説明のつかない悲劇が時々起こります。その時、勧善懲悪を信じてきた人は、自分がどんな悪いことをしたからこのような悲劇が起きたのかと、疑い始めます。完ぺきな人はこの世にいませんから、自分の過去の落ち度を探し始めたら、必ず、一つや二つどころか、十や二十は、落ち度が見つかります。 子どもの頃に、同級生や兄弟姉妹をいじめたかもしれません。四六時中いじめっ子であったわけではなくても、意地悪なことをしたことが一度もない人は、恐らく一人も居ないでしょう。 恋人や配偶者を傷つけるようなことを言ったりしたりしたことも、一度くらいはあるでしょう。我が子を邪魔に思ったり、邪険に扱ったことも、一度くらいはあるでしょう。親に辛く当たったことなど、百度くらいはあるかもしれません。 家族や友達にさえ、心ないことを言ったりしたり思ったりしたことがあるのですから、赤の他人に八つ当たりしたことも、一度や二度はあるでしょう。 こういう過去の落ち度の記憶が、人生の一大悲劇に見舞われた時に突然思い出されて、この悲劇は自分への罰なのだという結論に至る人が、結構な数、居るのです。 更に、自分一人に関する勧善懲悪のみならず、先祖代々の罪滅ぼしという考え方をする人も居ますし、この考え方を教義として、お祓いや先祖が殺傷した相手の供養をする宗教さえあります。先祖の話まで持ち出されると、事実として確認することは不可能ですから、先祖の罪滅ぼしをしていると考えることにより、その人が自分の人生を生きて行く活力を見出せるなら、それでいいのではありませんか、としか言えませんが、残念ながら、今生では先祖の罪滅ぼしをしろと言われて、活力を見出せる人はお見かけしません。自分はこの世に先祖の罪滅ぼしをするためだけに生まれて、重大疾病や重度障害の人生を生きるのだと考えたら、生きる活力が得られるでしょうか。この考え方からは、何も望まず何にも挑戦せず、辛うじて死なずに生きていく程度の活力しか得られないではないかと思ってしまいます。 勧善懲悪は、子どもに善悪を教える時には好都合なので、親なら、今善行をしておけばご褒美がある、と教えたくなります。実際に、子どもの善行へのご褒美は、親がコントロールできる範囲内のことですので、家庭内で、勧善懲悪を実現することが可能です。お手伝いをしたらアイスクリームを食べられる、いたずらをしたら食後のアイスクリーム剥奪、など、実に簡単に、勧善懲悪の世界を家庭内に築くことができます。 大半の大人が、無意識に勧善懲悪信仰を持っているのは、そのように育てられて来たからかもしれません。そして、ある日、勧善懲悪を教えてくれた親にはコントロールできない規模の悲劇が、自分の善行悪行と比例したわけではなく襲って来た時、この悲劇は自分の悪行に比例した懲罰に違いないという論旨を飛躍した結論が頭の中に生じて、自分を攻撃してくるのです。親が勧善懲悪的な育て方をしたのは、あなたを将来、こんな風に苦しめたかったからではありません。しかし、この論旨の飛躍は、ほとんど100%の確率で、悲劇の真っ只中に居る人達の思考の中に一度は発生します。悲劇の真っ只中に居るだけでも大変なことなのに、悲劇を自分への罰と考えて自責の念に苦しむという、二重の悲劇を起こす仕組み、それが勧善懲悪信仰です。 ですから、子育て中の親御さんには、勧善懲悪を無修正でお子さんに教えるのではなく、勧善懲悪が通用しない場面、勧善懲悪を当てはめてはいけない場面もあるということを、セットで教えていただきたいなあ、と思います。どうやったらそんな複雑なことを幼い子に教えられるのか、できるわけないじゃないか、と言われそうですが、普段は勧善懲悪な教育をしていても、家庭や学校の周囲で、不慮の事故、重大疾病、重度障害などを必ず見かけますから、そういう機会を捉えて、あの事故に遭ったお友達は、何かの罰として事故に遭ったわけではない、と教えてあげてください。また、残念ながら親御さんが別居や離婚に至る場合、親の別居や離婚はお子さんのいたずらや悪口や悪行の罰ではないということを、必ず教えてあげてください。 そして、アメとムチで善悪を教えなければならない年齢を過ぎたお子さんには、善行は未来に得られる報酬を目当てに行うものではないということを、教えてあげて欲しいと思います。 善行は未来の報酬目当てに行うものではありません。善行は、今この瞬間の自分という人間を、自分がどのように規定するのか、という意思表明以上のものではありません。善行を行うこと自体が、自分を自分で規定するという満足感を即座に瞬時に与えるので、それ以上の報酬は本来必要ないはずです。このように考えて、善行を行うかやめるか決めると、後悔することが絶対にありません。 例えば、困っている友人にお金を貸すかどうか迷っている場合、 今貸しておけば、将来自分が困った時に貸してくれるだろうから貸すのは、勧善懲悪の発想です。 友人が金に困っているのはギャンブルに金をはたいてしまったからで、ギャンブルに浪費するような奴は罰として貧乏になるべきだから貸さないのは、勧善懲悪の発想です。 対して、 今金を貸すのは、困っている人に余分なお金を快く貸せるような人間でありたいからだ、というのは、自己規定の発想です。 ギャンブルに金をはたいてしまった友人に金を貸さないのは、友人がギャンブルではなく真っ当な仕事で金を稼ぐように支援したいからだ、というのは、自己規定の発想です。 このように、同じ金を貸す、あるいは貸さない、という結論でも、その結論に至る動機が異なります。自己をどのように規定するかという動機で行動する場合、この行動を取った瞬間に、自己を規定したという満足があり、それ以上の報酬を期待しませんから、後悔したり失望させられたりすることは絶対にありません。 それに対して、勧善懲悪の視点から同じ行動を選択した場合、後々まで、報酬と懲罰の行方を追って、自分の選択が正しかったことを証明したいという欲求が生じます。自分が将来困った時に、誰かが金を貸してくれるかどうか、あるいは、自分が金を貸すことを拒否した相手が本当にしっかり貧乏を経験したかどうかを確認し、自分の選択は正しく、この世は勧善懲悪原則で回っていることを確認したくなるのです。そして、それが確認出来ない時、強い不公平感や不満が生じます。 勧善懲悪信仰は、満足感や幸福感の達成が未知の未来に依存しているため、一定の確率で必ず悲劇をもたらす信仰です。満足感や幸福感は、今この瞬間に達成できる以上のものを追求しないことです。そうすれば、期待を裏切られることは絶対にありませんし、努力が無駄になったと感じることも絶対にありません。なぜなら今やっている努力が今この瞬間にあなたに与える満足感と幸福感以上の結果を、初めから期待していないからです。 この発想は、「結果重視ではなくプロセス重視」という言い方で、既に一般的に知られています。結果を出すためにやっている今の努力そのものが与える満足感と幸福感こそが、この努力の目標であるべきなのです。結果はたまたま付いて来るだけで、努力に比例するとは限りません。 プロセス重視の発想は、企業に於ける人材管理の手法や、スポーツ選手のトレーニング管理の手法には、どんどん取り入れられていますが、人生全体に関する発想法としては、まだまだ勧善懲悪主義より少数派のようです。こと善行悪行に関しては、「最後に」報われるという結果重視主義が横行して、報われなかった人達を苦しめています。 いい加減、勧善懲悪信仰に苦しめられるのをやめましょう。悲劇は、一定の割合で、善行悪行に比例せず、発生します。悲劇に見舞われる前も、見舞われた後も、私たちには常に、今この場所で、この瞬間の行動を選択するある程度の自由があります。その選択の基準は、未来のある時点で報酬を得られそうだから、ではなく、それを選択することによって、自分らしい自分に一歩近づけるから、であるべきです。 子育て中の親御さんには、ぜひ、子どもさんに、自分らしい自分に一歩近づくために善行を選択するという発想を教え始めていただきたいと思います。 遠山の金さんが好きな方は、別に、いますぐ、遠山の金さんを観るのをやめる必要はありませんが、悲劇に見舞われたときは、勧善懲悪信仰を捨てるということだけ、頭のどこかにしっかり覚えていていただきたいと思います。 それでは、皆様、本日も、自分らしい自分に一歩近づける行動を何か一つして、自分らしい一日をお過ごしください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 12 May
    • 元気を奪う宇宙観 (9) 常識

      本日は、「常識」について、書いてみたいと思います。 突然ですが、まず、クイズを一つ。 世界のどこに行っても必ず通じる唯一絶対正しい「常識」があります。それは、どんな常識ですか?答は最後に書きます。堪え性の無い方以外は即刻スクロールダウンしないでくださいね。(^^) この人達には、常識が通じないらしい、と思った経験がありませんか。 振り返ると、実家の外では常識が通じなかったことが沢山ありました。例を挙げれば、 ―便、尿、屁の話は、どんな場面でも禁句。(子どもの頃、平気で話す子が結構多くて、仰天しました。) ―自分がされたら嫌なことは、人にはしない。(幼稚園で徹底的に教え込まれましたが、小学校に上がったら、幼稚園が一緒だった子以外には、通じませんでした。) ―床に落とした・置いたものは汚れ物とみなす。(婚家で通じません。) ―家の外と内では履物を履きかえる。(同じく、婚家で通じません。) ―戴き物は2~3回遠慮してから、ありがたく頂戴する。(日本の外では通じません。) ―家族のことを人前で悪く言うのは謙虚な証拠。(一部の国では、児童虐待や夫婦不和を疑われます。) ―店員はお客様を大切にするものだ。(日本を一歩出たら、期待を裏切られることが多いです。) ―仕事は真面目にやるものだ。(同上。) ―時間厳守。(同上。) ―公共の場所で手を繋いだりキスしたりしない。(全然平気で手を繋いだりキスしたりする国が沢山あり、一方で、そういうことをすると逮捕投獄される国も沢山あります。) ―クリスマスディナーは24日の夜に食べる。(24日の夜、25日の昼、25日の夜、と意見が分かれる上、クリスマスは祝わない家庭も沢山あります。) ―お酒は飲んでもよい。(一部の国では、逮捕投獄されます。) ―女子も学校に行ける。(一部の国では、女子は命がけで学校に行かなければならない情況が続いています。) ―児童労働の禁止(国際条約にまでなっていますが、児童労働が止まらない国々が沢山あります。) ―児童結婚の禁止(多くの国で国内法で禁止していますが、児童の結婚は横行しています。日本でも、20世紀半ばくらいまで、当たり前でした。私の親類にも15歳で結婚した人達が居ます。) などなど。 通じるはずだと思っている常識が、処や時代が変われば全く通じないどころか、逮捕や襲撃や軽蔑の対象になったりするのですから、常識ほど当てにならない知識はありません。でも、当てにならない情報というものは、世の中に沢山あり、情報が当てにならないだけでは、あなたの元気を奪うほどの一大事にはなりません。 常識が元気を奪うほどの一大事になるのは、常識を当てにし過ぎ、通じない相手に憤慨することに、エネルギーを使ってしまう場合です。 そんな愚かなことは私はしないと思われるでしょうが、実は、「自分の常識が相手に通じない」ことこそ、世の人間関係トラブルの大半に関係している一大要因なのです。 どのような人間関係でも、どちらかが相手に当然のこととして期待することを、相手が実現してくれないと、不和の原因となります。恋愛・結婚関係での例を挙げれば、 ―日に(週に)~度くらい電話やメールをしてほしい。 ―記念日やバレンタインデーや誕生日に特別企画で喜ばせてほしい。 ―浮気はしないでほしい。 ―暴力はやめよう。 ―デート代は割り勘、または、男が払う、または、収入比例分担。 ―家事や力仕事を、分担してほしい。 ―生活費を、分担してほしい。 ―生活費を稼げる程度の最低限の仕事をしよう。 ―子どもや老親の世話を、分担してほしい。 ―自分の友達やご近所と愛想よく付き合ってほしい。 ―自分の家族に敬意を表してほしい。 ―自分の家族や友人に金の無心をしないでほしい。 ―早起きをして時間を有効に使うべきだ。 ―起きたい時間まで幾らでも寝ててもいいじゃないか。 ―風呂場は使ったら綺麗にして出てほしい。 ―風呂で暖まった後に風呂掃除をしていたら、風邪を引く。風呂場は昼間掃除するものだ。 ―テレビは~時ごろには消してほしい。 ―テレビを深夜まで延々観てもいい。 などなど。 相手に通じるはずなのに通じない常識は、切りがないほどあります。そして、通じない時に、一直線に怒りの感情に突っ走る人が、実に多いのです。 相手が「常識的」な行動をしてくれない場合、怒れば相手の行動が改まるでしょうか。 答は、概ね、「否」です。 相手の行動が改まるのは、怒りながらも、なぜ怒っているのか、きちんと説明して、相手に理解され、相手がなるほど納得して、行動を改めようと決意した場合です。怒ったからわかってくれたのではなく、説明したからわかってくれたのです。 ただ、怒ったり、拗ねたり、無視したり、絶交したりするだけでは、相手も怒り出して、関係は悪化するばかりです。 怒らずに説明すれば、快く行動を改善してくれることがあるということを、日本で「カイジンさん」と何らかの交流をしたことがある人は、知っています。ガイジンさんには、常識が通じなくても当たり前と思い、「非常識」な行動を取るガイジンさんに優しく日本の作法を教えてあげる日本人が沢山居ます。そういう日本人とガイジンさんの間には、暖かい友情が育まれるのに、同じ日本人とその人の日本人の家族親族の間では、常識の欠如に関する喧嘩や絶交が絶えなかったりするのは、その人達の性格が悪いからではなく、常識は家族や親族に通じるはずだという期待が高すぎるからです。 というわけで、常識があなたの元気を奪うのは、常識が通じるはずだという期待が高い時ですから、その期待値を思い切って下げましょう。 社会の常識、家族の常識、自分の常識など、通じると思っているから、通じない時に腹が立つのです。腹を立てる前に、説明しましょう。自分の中で常識となっていることを、言語で表現する能力を開発しましょう。(相手を責める、怒鳴る、泣く、黙り込む、拗ねる、無視する、くよくよする、などは、説明ではありません。怒っていることは伝わりますが、なぜ怒っているのかという肝心な情報が相手に伝わっていません。)自分の常識を説明する能力と、説明中は腹を立てない忍耐力を身につけましょう。そうすると、怒らない話し合いが可能になり、人間関係が円滑になり、人間関係の悪化と修復に費やしているエネルギーを、より生産的で楽しい活動に振り向けられます。 但し、これだけ説明したら相手もわかるだろう、と期待するのも、また一つの「常識は通じる」信仰です。どんなに説明してもわかろうとしない相手も居ますし、わかっていても行動を改善しない相手も居ます。相手が10代の子どもの場合、我が子でも、怒っても、言って聞かせても、何をしても、行動を改めない時期もあるでしょう。「通じない前提で、説明する努力だけは一応してみる」くらいまで、期待値を下げておくと、通じなかった時のダメージがゼロで、通じた時の喜びが100倍になります。 それでは、冒頭のクイズの答です。 世界のどこに行っても必ず通じる唯一絶対に正しい「常識」とは何でしょうか?それは、 自分の常識が通じるとは限らないという常識です。 今日から、この常識一つで理論武装して、自分の常識が通じないすべての他者に寛容に忍耐強く接することができるといいですね。きっと、自分の周囲の人間関係が、飛躍的に、楽になるでしょう。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 08 May
    • 元気を奪う宇宙観(8)権威主義または人間の序列

      前回から大分間が空きましたが、引き続き、元気を奪う宇宙観シリーズです。今日のテーマは権威主義。実は、お題を読者の一人からいただきました。 その人は、丁寧に「権威」という言葉の定義を調べてくださいましたので、まず、引用します。ここで注意して読んでいただきたいのは、「権力」でも「権限」でもなく「権威」であるのはなぜなのか、という点です。 <コトバンク> けんいしゅぎ【権威主義 authoritarianism】 権力が,時に強制力の行使をも予定することによって、自己の優越性を人々に承認させるのに対し、権威はみずから有する価値を社会の大部分の人に自発的に承認されることによって成り立つ。人々は権威者に自発的に信従するだけでなく、自己を対象に積極的に同一化することによって、自己に欠如していると思われる威信を獲得し、補うことができると錯覚することがある。そこでは、権威者の価値体系に疑惑をもったり、不同意であることは反逆とみなされ、大部分の人から冒瀆(ぼうとく)であり罪悪であるとされる。 <はてなキーワード> 権威(人を服従、強制させる力)に価値をおき、それに対して自己卑下や盲目的服従をする態度のこと。また逆に人にそれを要求する態度のこと。心理学的には、権威や伝統、社会的に価値のあるとされているものを無批判に承認し、これに服従、依存し、融通が利かないパーソナリティを指す。 権威主義的性格の強い人間は金、地位、名誉を求め、それらに弱い傾向にある。 そして、関連語が実に沢山あり、太鼓持ち、長いものには巻かれろ、朱に交われば赤くなる、トラの衣を借る狐、コバンザメ、寄らば大樹の陰、時の将軍に従え、笠に着る、日和見主義、などなどだそうです。 前回の記事に、20代だったころ、駅員さんと郵便局員さんに、それぞれ、改札を間違えた、切手を間違えた、という理由で怒鳴られたことがあると書きましたが、実は、不動産屋さんにも怒鳴られたことがあります。怒鳴られた理由は、女性を対象にしていないことが明らかな不動産について問い合わせたからでした。不動産の広告には女性一人が部屋でくつろいでいる写真が載り、「頭金さえあればどなたでも」と書いてありました。「どなたでも」と書いてあっても、頭金を持っていても、女性は対象でないことくらい、常識で知っているべきだった、ということでした。そして、常識を疑われた私は、すっかり赤面してお詫びして帰ってきたのでした。 私を怒鳴りつけた駅員さん、郵便局員さん、不動産屋さんは、年輩の男性に対しては、普通に敬語で対応していましたので、彼らの行動に現れたのは、自分が男で年上であり、相手が自分より若い女である場合は、自分の方が上に立って自分の強さ正しさを主張してよい、という信念でした。彼らは軍隊や警察力を持っていたわけではありませんが、自分自身の力が認められることを信じていたので、これは「権威」の信念です。(しかも、年長の男性は年下の女性に敬意をもって接する必要はないという考えが社会的に承認されていた時代のことですから、彼らは自分の行動に疑問を持ったことがなかったでしょう。) そして、怒鳴られて素直に引き下がり、自分が悪かったらしいと反省した私も、別の意味で、権威主義者でした。武器や警察権力を振りかざされたわけでもないのに、年齢差・性別差を根拠に、彼らの方が上なのだと言われて、あ、そうですね、と思ったわけですから、当時の私は、権威には素直に服従するものだという価値観を持っていたわけです。 このように考えると、「権威」というものは、一人が「自分の方が強い・偉い・地位が高い・命令権がある」と思い込み、もう一人が「そうかもしれない」と応じれば、どこでも、どのような理由でも、振りかざせるものです。 権威に依拠する人間関係は、家庭内にも、職場にも、隣近所にも、子ども同士の人間関係にも、地域社会にも、そして企業と企業の間の取引関係にも、どこにでもあります。 権威主義的な関係に参加すると、権威に服従する側は当然、服従以外の選択肢がなく、自分の信条に反することや、時には人道に反することを、沢山やらなければならなくなり、自分らしく生きることなどできません。 そして意外にも、権威者側も、自分らしく生きていられるわけではありません。なぜなら、権威というものは、何らかの屁理屈をこねて勝ち取ったものであって、維持するためには死守しなければならないからです。つまり、権威を維持することが仕事になります。常に怒っている、叱っている、罰している、説教垂らしている、怒鳴っている、威張っている、威嚇している人にならなければ、往々にして、権威は維持できません。 常に人を脅したり叱ったりすることによって権威を維持することが自分らしい生き方だと思い込んでいる人もいるのかもしれませんが、そういう人には、「権威を振りかざさなくても自分の好きなことができるとしたら、権威を死守することにエネルギーの大半を使いたいですか?」と聞いてみたいものです。きっと、「はい」とは言わないでしょう。恐らく、子どもの頃や若い頃に、権威に服従させられて散々不本意なことをやらされたからこそ、権威者にならなければ自分の好きなことができないという思い込みが身に付いてしまったのです。この思い込みを外すことができれば、威張り散らしたり怒鳴り散らしたりする必要のない自分が、ある日突然、現れるかもしれません。 現在、権威者であって自分の権威に大満足している人にとっても、権威主義は墓穴です。なぜなら、権威主義は、人間に何らかの序列を付けることによって成り立っているからです。例えば、年長者の方が上、お金持ちは貧乏人より上、高給取りは安月給取りより上(職業に貴賤あり)、有職者は失業者より上、男が女より上、あるいは女の方が上、健常者が病者より上、親は子より上、教師は生徒より上、医者は患者より上、警察官は市民より上、政治家は国民より上・・・などなど、様々な序列で人を見て、自分の方が上なら威張る権利が発生すると考えて安心するのが、権威主義です。 このため、ある日、自分の序列が下がる日が来たら、権威者から一気に服従者に役割転換しなければならない危険があります。高い地位に就いて威張っていた人ほど、失業や降格、退職、病気療養、そして老いによる体力能力財力の全般的減退に順応することが難しいのは、自分よりも上に位置付けられる人に威張られたら、服従しなければならないという強い恐怖があるからです。若くて健康で高い地位にあった間は、自分に都合の良かった序列が、やがて自分を苦しめる日が来ます。 権威を維持する苦労も、権威に服従する苦労も、どちらも、実は自分が頭の中で勝手に決めた序列ルールに従っているからこその苦労だということに気づくことが、大切です。自分が勝手に設けたルールですから、勝手に今日から守らないことに決めれば、もう、権威を守るために日々威張る必要もなく、地位や職業や健康や財力を失った時に、他の人に服従しなければならないと怖れる必要もありません。 高い地位にあってお金が沢山あり人々が寄って来る時も、低い地位にあってお金がなく人が寄り付いてくれない時も、気ままに好きなことをすればいいのです。そして、周囲の人にも好きなことをさせておけばいいのです。一旦、このことがわかったら、その開放感は何ものにも替えがたいでしょう。 例外は、幼い子に好きなことばかりさせていては、事故につながる時です。子が事故を起こさないように、危ないことをやめさせる必要がありますが、それは、権威主義で服従させているのではなく、愛によって守ろうとしているのです。よね。それならば、「お母さん(お父さん)の言うことは黙ってきけ!」と怒鳴るのではなく、「お母さん(お父さん)はあなたが怪我をしない方法を教えてあげたい。」と伝えればいいのです。あるいは子が小さいうちは、まず抱き上げて危険物から引き離してから言い聞かすこともできます。子が大きくなってきて忠告を聞かない年齢になったら、子が怪我をするのを見守ることしかできない時もあります。これが親業の最も辛いところですが、親の権威で子を服従させていると、子は自分らしく生きることを学べず、幸福が遠のいていきます。子の幸福を願う親なら、可愛い子には旅をさせなければならない局面が必ず来るでしょう。 家族関係の中で、権威を振りかざして、他の(成人している)家族成員の行動を支配したがる人が居ますが、そういう人に服従するのは、その人のためにはなりません。人間の序列を根拠とする権威にしがみついて威張っている間、その人は、真の意味でなりたい自分になってはいないのです。そういう人が怒ったり怒鳴ったりするのが面倒だから、服従する振りをしておくというのは、その人の自分発見への道のりを遠回りさせているだけで、その人にとっても、服従する振りをしている自分にとっても、何の足しにもなりません。 人の上に立つことがすべて悪いことなのではありません。人生経験、実績、人格に基づいて、尊敬している人の言うことを素直に聞く場合、これは権威への服従ではありません。でも、同じ尊敬している相手が、関係のないことについて指図して来た時に、不承不承従うなら、それは、良好な上下関係・主従関係を、不健全な権威関係に、自らすり変えてしまったことになります。例えば、仕事で尊敬している大先輩に、今付き合っている子とは別れてもっと金持ちな(美人な)子を探せ、と言われたら、服従しますか?カノジョのことでは指図を断るが、仕事の指図は喜んで受けるという自己主張ができるように、思考力と分析力を鍛えておかないと、知らないうちに、相手と一緒になって権威関係を築き上げてしまう場合があります。 また、ある人に対しては服従者なのに、別の人に対しては権威者になる、ということも実によくあります。こういう場合、服従している相手より、権威を振るっている相手の方が、実は大切な人である場合が多いものです。例えば、職場で上司に服従している腹いせに、妻子に権威を振るって威張る、などです。自分の幸福にとってそれほど大切でない人のご機嫌を伺うために、大切な人達をないがしろにしてしまうという、かなりよくあるパターンで、家庭の危機につながりますから、要注意です。 家庭の中にも、家の一歩外に出ても、権威を振りかざす人は沢山居ます。多くの場合、そういう人は、本当は自分に価値がないと思っているのかもしれません。人を服従させることによってしか、自分の存在意義を確かめる手段がないと思っているのかもしれません。そして、服従者の多くは、こんなに地位の低い自分の場合、服従することによってしか、存在を許されないと感じています。 従って、どちらの場合も、権威の猛威から解放されるには、何かと人間に序列を付ける癖をやめることです。これには自分自身も含まれます。というよりも、自分自身を序列のどこかに位置づける癖をまず真っ先にやめるべきなのです。他者との上下関係で自分の価値を確認する観点から、他者とは関係なく、自分の在りたい在り方を確認する観点へ、発想を転換することです。とても極端な喩えですが、最低限の食事と居場所は提供されるけれども他者との交流を許されない独房に入れられたら、その時、自分の価値をどう規定するか、と考えてみるとよいかもしれません。(推薦参考図書は、「獄中記」(佐藤優)か、「ショーシャンクの空に」(スティーブン・キング原作の映画化)でしょうか。) 権威主義的な人間関係に巻き込まれている、と感じたら、自分が権威者の場合も、服従者の場合も、まず、権威の根拠になっている人間の序列は何なのか、ということを、一度、分析してみると良いかもしれません。自分の中に気づかないうちに取り込んで来た様々な序列制度に気づくきっかけになるでしょう。 権威関係をやめたい時は、自分から一方的にやめてみることです。どんな人間関係でも、5割は自分がエネルギー貢献しています。今まで不承不承に服従してきた大嫌いな相手との関係を改善したい場合、まず、服従することをとにかくやめることです。その人との権威関係に日々注入される権威信仰エネルギーが一気に5割減ります。相手が変わってくれなければ、この関係を変えるのは無理、と思われる場合でも、まず、一度、その関係に於ける自分の行動を180度転換してみましょう。相手が暴力を振るう場合を除き、関係は必ず変わります。(暴力を振るう相手の場合は、身の安全確保が第一ですが、権威主義のテーマで扱うべき範囲を越えていますから、これ以上、言及しません。) 私自身、振り返ってみると、様々な権威主義的人間関係に色々と振り回されてきました。今も、振り回されている関係が一つか二つくらいあり、権威に踊らされないように、四苦八苦しています。権威関係を振り切れるかどうか、権威を振りかざす人と共に居て自分で規定した自分らしさを生きることができているか、成功率は100%とは言えません。まだまだ修行が足りませんね。 皆様の身の回りには、どのくらいの数の、どの程度の権威関係がありますか? その関係が、権威関係になってしまったのは、自分の中のどのような序列制度が、相手のどのような序列制度と共鳴したからですか? 美しい愛情/友情/師弟関係だったはずなのに、いつしか権威関係にすりかわっていた場合、修復可能ですか?修復してみたいですか?どうやったら修復できますか?修復したら相手も自分ももっとずっと幸福になれませんか? そんなことを考える参考にしていただければ、幸いです。 それでは、皆様、本日も、人間の序列を考えず、周り中にある権威による上下構造に振り回されず、自分の信条を自分らしく生きられたら、いいですね。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 27 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(7)迷惑

      元気を奪う宇宙観第7回目のテーマは「迷惑」です。 80年代の話ですが、アメリカ留学中に銃犯罪で脊椎損傷の重傷を負い、日本では学業も就職も不可能だったため、アメリカの友人や恩師達に相談し、単身アメリカに渡って、大学卒業・就職した人が居ました。この人が日本で学業を続けられなかった理由は、障がい者が学校に行こうとしたり、就職しようとしたりすると、「周りに迷惑がかかる」と考える時代だったからでした。(今はもう、そんなことはない、と思いたいですが、どうでしょうか。) 英語が母国語でない人が、車椅子に乗ってアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業し、アメリカで就職することを、アメリカの人達は「迷惑」とは考えなかったわけでした。この違いは何だったのでしょう。 という例を挙げるのは、アメリカ礼賛したいからではなく、30年ほど前の日本では、「迷惑」という概念が、あらゆる街角に立ちはだかり、大変生きにくい国だったということを思い出したからです。 その頃の日本で、私は、駅員さん、郵便局員さんに怒鳴りつけられたことがあります。理由は、それぞれ、改札を間違えて道を聞いたこと、切手を間違えて貼っていたこと、でした。同じ駅員さんや郵便局員さんが、年長者や男性には丁寧に対応しているのを見て、20歳そこそこの若い女が頓珍漢な質問をしたり、小さなミスをして手間を増やすことは、「迷惑」なのだな、と思い知らされました。 「迷惑」という考えの裏には、様々な思い込みがあり、それに伴い様々な弊害が出ます。その幾つかを列挙してみます。 ① まず、親切は本質的に「余計な手間」であるという思い込み。自分の益にならないことをすることは例外中の例外であるという考え。 この思い込みの弊害は、益にならない親切をしてあげることになった相手を見下したり恨んだりする癖と、親切を受ける立場になった時に、自分が数ランク下の人間になったと信じ、激しく自己卑下する癖です。 ② 何かをしてもらったら同じ量のお返しをするまで借りになるという「恩返し」の考え。 この思い込みの弊害は、余程のことがない限り、人に頼みごとをせず、一旦、頼んだら何年でも恩義を感じて肩身の狭い思いをすることです。また、お返しをできない規模の頼み事をするのは悪いことだという考えから、事が重大になればなるほど助けを求めず、時には死に至ることもあります。(現代の日本で、なぜか、若年や壮年の餓死者が時々出ますよね。) ③ 「私のような者」という考え。何らかの理由で、生きている資格がない、あるいは、二級市民の資格しかないという扱いを受け続け、その考えを自分のうちに取り込んでいる人の場合、「価値のない自分のために何かしてもらうことはあってはならない」と思い続ける傾向があります。 この弊害は、何を為すにも人の手を借りずにやろうとして、すべてを困難で乗り越えられない課題にしてしまうことです。 また、この種の人達の中に、稀に、病的な環境保全に走る人が居ます。存在する資格がない自分が地球という惑星に迷惑をかけてはいけないと考えて、寒くても暖房を点けなかったり、充分に食事を摂らなかったり、不用品を再利用できるまで取っておこうとして、自宅をゴミ屋敷にしたりします。 このように様々な弊害を出し、生きることを難しくする「迷惑」の世界観から抜け出すために、どのように発想を転換したらいいでしょうか。思いつく範囲で、列挙してみましょう。 ① 自と他の区別を取り払う。 自分の益のためにすることは価値があり、他人の益のためにすることは手間であるという考え方の裏には、自と他の意識的な区別があり、感謝の欠如(自分のものは自分のものだという勘違い)があります。 金を払って買った「自分のもの」でも、金を払った以外にそのものの製造に貢献したことがありますか?貨幣経済の中に住む私達は、金を出して所有者になることに、何の疑問も感じませんが、1000円持っていたら1000円の服を買えるのは、あなた一人の手柄ではありません。億単位の金をかけて繊維工場や洋服工場を建てようと思った人が居て、その工場で働いた人達が居て、その工場の製品を運搬したり販売した人達が居たから可能になったことです。その人達が居なかったら、1000円札はただの紙です。定価1000円出したから、「自分のものだ、誰の恩恵も受けていない」と思うのは、貨幣経済の幻惑です。1000円のものを買ったことにより、何万人もの他人の恩恵を受け、同時に、その何万人もの他人の雇用維持に自分が貢献したのです。貨幣経済の中で物を購入するという一つの行為は、何万人もの他人と自分を、恩恵のやり取りで結びつける行為です。このことに気づくと、自他の間に実はあまりはっきりした境界がないことがわかるでしょう。 すべてを数字に換算する貨幣経済の世界でさえ、自分のためにやることは、巡り巡って他者を助け、他者のためにやることは、巡り巡って自分に必ず返ってくるのです。このように考えると、買い物をするのと同じくらいの軽い感覚で、親切をしたり受け取ったりできませんか。 ② 恩返しの裾野を広げる。 自分に親切にしてくれた人との「一対一の関係」で返すと考えず、自分の次に困った人に親切を回すと考えたらどうでしょう。この種の「恩返し」の発想は、別に私が思いついたわけでなく、多くの人が既にやっていることです。母校に恩返しをするとか、若い頃にお世話になった国や街などに恩返しをする人は、よく居ます。こういう人達は、自分に親切をしてくれた個人に返すのではなく、その人と所縁のある国や地域に返すと言って、何十年も後に返しますが、その何十年間、ずっと肩身の狭い思いをしていたわけではありません。いつか、あの学校・国・街に返すということが生き甲斐になり、生き生きと生きて、やがて恩を返せる日が来るのです。 金は天下の回りもの、という表現があるのですから、親切も天下の回りもの、と考えることができて当然のように思います。今たまたま困っている人を助けたら、自分が困った時には、全く別の人が助けてくれる、と考え、今自分が誰かに助けられたら、自分が次に出会う困った人を助けてあげればいい、と考えるのです。 そうすると、親切や援助のやり取りに関する神経症的な緊張や不安が解け、楽な気持ちで親切をあげたり受け取ったりできませんか。そして、親切をまだ返せない数年~数十年間、肩身の狭い思いをするのではなく、生き生きと生きられませんか。 日本語に、とても素晴らしい表現がありますよね。「持ちつ持たれつ」です。 ③ 存在の価値は今すぐ役に立つかどうかで決まると考えるのをやめる。 存在の価値は、今すぐ役に立つかどうかで決まると考える場合、今すぐ役に立たない障がい者や若者や若い女が人に助けてもらうことは、迷惑であることになり、援助を請うことを禁止されてしまいます。また、現在大役を果たしている年輩者や重役でも、退職・失職した瞬間に、役に立つ人から迷惑をかける人に再分類され、この突然の地位転落に耐えられなくて、自殺に追いやられたりします。 役に立つことによって存在する権利が生じるという考え方は、日本の旧弊です。(と私は個人的に思いますが、役に立たなくても存在してよいというメッセージを、日本で受け取り続けた人も、もしかしたら居るかもしれません。) 冒頭の、銃犯罪で重傷を負った後、結局アメリカに移住して就職した日本人は、正に、当時の日本で一般的だったこの思い込みを乗り越えることができた人でした。そして、この人を助けたアメリカ人達は、この思い込みを一足お先に乗り越えていた人達だったわけです。こうして、日本に居る限り、役に立たないと決め付けられ、助けてもらえなかったこの人は、ちゃんと就職して税金も払いアメリカ経済に貢献する人になりました。日本は惜しい人材を取り逃がしましたね。 というわけで、今日は、「迷惑」という考え方による生きにくさと、そこから抜け出すための発想の転換法を考えてみましたが、皆様の人生に、何か当てはまる部分がありましたか? それでは、皆様、本日も、人の迷惑にならないように生きるのではなく、人に迷惑をかけられないように生きるのでもなく、困ったら助けてもらおう、困っている人がいたら助けてあげよう、そして何もしなくても持ちつ持たれつで常に助け合っている、と思って、力を抜いて、楽に、生き生きと生きてください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 26 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(6)無駄不安

      人生の元気を奪う宇宙観の6回目は、「無駄なことはしたくない」という考え方を扱います。 最初にお断りしておきますが、無駄な~というものは、この世にあると私も思います。その最大の例は、軍事費。某超大国は国家経済の15%が軍需産業のため、軍需景気を人工的に作り上げないと国内の労働者人口の15%を失業させる事になりますから、定期的に購入済みの武器を消費しなければならず、紛争の火種のある地域に働きかけて、小規模な地域紛争を起こさせています。だから、世界のどこかで常に地域紛争が起きています。因みに、紛争の火種は、大抵、資源(特に水資源と食糧)の枯渇による生存の危機ですから、軍事費に回すお金を水や食糧の運搬に回せば、恐らく、世界は紛争なく、飢饉なく、現在の人口を支えることができます。それなのに、紛争を起こして武器を消費する場(戦場)を作り、大量の武器を投下して武器庫を空にし、軍需景気で国内経済を潤し、失業者を出さないようにするという・・・まっすぐ歩けば1メートルの距離を、ぐるぐる回って10メートル掛けてたどり着くようなことをしています。これは、無駄な努力、無駄な支出、無駄な時間、無駄な戦争です。このように国家レベルで考える時、無駄な~は沢山例があるのですが・・・ 今日の話は、個人が合意の上でやった活動に関する、時間・努力・金を「無駄にした」という考え方です。 例えば、 3歳からピアノを習わされて9歳でやめたから、時間や努力や稽古代を無駄にした。 年頃のお相手をデートに誘い、お洒落をして出かけてデート費用も負担して、挙句の果てに相手は興味がないことがわかったから、デートを無駄にした。 大学を出たのに、田舎で農業をしているから、学歴や学費を無駄にした。 リターンを期待して投資したのに、損失が出たから、投資を無駄にした。 結婚したのに離婚したから、人生の~年間を無駄にした。 窮地に居る人に金を工面して助けてあげたのに、その金で賭博をしたらしいから、善意を無駄にされた・・・ などなど、人が「無駄にした」ことについて嘆くネタは、枚挙に暇がありません。 これまでに無駄にしたと思うことを挙げてください、と言ったら、「一つもありません」と言いきる人の方が少数派ではないでしょうか。 私達は、人生には「無駄にした」時間がある、という考え方に慣れ親しんでいます。 でも、本当に人生には「無駄にした」時間があるのでしょうか。次のリストを読んでみてください。 3歳からピアノを習わされて9歳でやめたから、楽譜が読めるので、15歳でバンドを組んで遊んだ。 年頃のお相手をデートに誘い、お洒落をして出かけてデート費用も負担して、挙句の果てに相手は興味がないことがわかったが、おいしいレストランを開拓したから、次のデートに使おう。 大学を出たのに、田舎で農業をしているから、経済学や科学的なこともある程度わかり、遺伝子組み換え食品や農薬漬け産品を生産しないで利益を出す方法を考えてみよう。 リターンを期待して投資したのに、損失が出たから、次回はどのような投資商品に投資したらよいか、もっと勉強しよう。 結婚したのに離婚した。人生の~年間は伴侶が居る生活を楽しんだ。最後の1年はきつかったけど、次の出遭いの時に気を付けるべきこともわかった。 窮地に居る人に金を工面して助けてあげたのに、その金で賭博をしたらしい。しかし、相手は相当に後ろめたい気持ちで居るらしいし、こういう状態の人に金を貸すことは援助にならないことを学んだ。 このように、「無駄にした」という結論を避けようと頭をひねれば、同じ書き出しでも結論をひっくり返し、無駄ではなかったことにすることも可能です。 なぜ、このひっくり返しが重要なのかと言うと、過去に「無駄にした」感がある活動が多いと、必然的に、「無駄になりそうな」活動に対する不安が生じ、無駄にならないという保証がある道筋のみを選びたくなってしまうからです。 過去と現在と未来のうち、私達が創造力を発揮して自分で創造できるのは、現在です。 なぜなら、過去は既に終わったことで、未来はまだ始まっていないことで、自分の創造力で質を変えられるのは現在だけだからです。 ここで、過去とは、単なる出来事ではなく、出来事に自分の解釈をつけて記憶したものであることに注意してください。これが、未来の行動の指針となるので、過去の出来事に自分が付けている解釈を編集すれば、未来を選択する指針を編集することができるのです。 人間というものは、生命の存続、つまり危険回避を第一目標とする生命体であり、過去の経験から認識した危険は、未来において回避しなければならないと、脳が決めてしまいます。危険回避は、生命体の維持のために設計された脳の都合上、第一目標とならざるを得ません。従って、 過去に無駄にしたことが多く損をしたという解釈をつけて記憶する場合、 未来における無駄を回避しなければならない、という指針になってしまうのです。 しかし、まだ始まっていない未来は、予知能力のない一般人には不明なので、無駄を回避するという指針に沿って活動を選択しようとしても、「本当にそれでいいのか、実は無駄なのでは無いか、どっちなんだ?!」という迷い生じます。これが「無駄不安」というものです。そして、無駄不安は、まだ起きていない未来について、延々と心配するネタとなり、過去の解釈に基づき未来を心配し、現在に注意を払うことができず、今を生きられないという、これこそ究極の「今という時間の無駄」につながるのです。 人生に無駄になることは一つもない、と言いきる人も居ますが、私はそこまで言い切ることはできません。なぜなら、どう考えても人命も戦費も無駄になったとしか思えない戦争があるからです。 戦争まで視野に入れてしまうと、わからなくなってくるので、少し視野を狭めて、平時において、自分が自分の意思でやってみることについて、無駄になることは一つもない、と言ってみたら、言い切れるでしょうか。 言い切れるように思います。 (唯一の例外は、先に書いた、未来の心配に囚われることによる「今という時間の無駄」です。) 過去に無駄にしたことは一つもないという解釈をつけて過去の出来事を記憶し直したら、 未来における無駄というものは一つもないので、無駄かどうかという基準で活動を回避する必要はない、という指針ができます。 無駄かどうかを判断材料としなくていいなら、やりたいかどうか、体力や資金や時間的にできるかどうか、それだけ考えればいいのです。やりたくてできることなら、やればいいのです。このように、全く不安のない状態で、未来の活動を選択することができたら、その活動に一心不乱に取り組むことができませんか。一心不乱の取り組みは、前回書いたマルチタスクの真逆の「マインドフルネス」の状態であり、今という瞬間を自分の創造力で創造することです。 「無駄不安」は、一心不乱に生きれば楽しい今という時間の質を蝕む、世界最大級で最も一般的な自己妨害のシステムです。「無駄不安」は、恒常的マルチタスク現象で、多くの人の心を蝕んでいます。なぜなら、今目の前にあることをやりながら、未来にならなければわからない今の行動の結果について心配するという、二つのことを同時にやり続ける行為だからです。「無駄不安」を抱える人は、注意力散漫で、やる気がなく、情熱が湧かず、今という時間を常に無駄にします。強い「無駄不安」によって、今を無駄にすることが確実となるという、これほど皮肉なことはありません。 それでは、演習です。 過去に「無駄にした」ことを最低5例挙げ、上記に倣って結論をひっくり返してみてください。 ひっくり返せましたか?全部できなくても、一つか二つはできましたか?ちょっと無理と思うものでも、頭をひねってひっくり返してみてください。 遊び感覚で、「無駄にした」感を感じるたびに、ひっくり返す演習をやってみてください。何度もやっているうちに、脳内にそういう思考回路がつながります。無駄にしたと決め付けないで、こう考えればいい、というアイデアがすぐに浮かぶ人になり、それに従い、未来に対する「無駄不安」が緩和され、今を楽しく創造できる人になります。 騙されたと思ってやってみてください。 それでは、皆様、本日も今という時間を存分に楽しんでお過ごしください。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 19 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(5)マルチタスク

      古い言葉では「ながら族」と言いました。 複数の仕事を同時に片付けられる能力のことで、英語では「multitasking」、英語圏の求人情報では、できて当たり前と言わんばかりに、採用条件の一つとして、ほぼ必ず出てきます。 私も、若い頃から歳で身体が付いて行かなくなるまで(笑)、マルチタスク能力を自負する人でした。それが偉いことだと思っていたので、同時に一つのことしかやらないなんて、時間の使い方が下手だと、本気で思っていました。おしゃべりをする間、手が止まってしまう人を見ると、イライラするくらい、筋金入りのマルチタスク人でした。 子どもが育ち盛りの頃は、マルチタスク能力は、確かに重宝しましたから、マイナス面ばかりではありません。料理しながら、台所の掃除もしながら、洗濯機も回して、子どもの宿題も片目片手で手伝う、なんてのは、どこの家の親もやらざるを得ず、知らないうちにやっているのではないでしょうか。 現代人がなぜここまで忙しいのか、社会学的に分析研究したわけではありませんが、個人的には、諦めが悪いからだと思います。昔ならば、高校生が夜8時に習い事から帰宅した後、15分離れた友達の家に宿題を一緒にやりに行き、11時に再び帰宅するなどという発想は、ありませんでした。でも、どの家にも車がある社会になったので、親にせがんで8時過ぎから友達の家に運転して行ってもらい、11時過ぎにはまた、友達の家に迎えに来てもらいます。 そんなことは親が許さなければいいのですが、うちが許さなければ、友達の方が親にせがんでうちまで来てしまい、友達の親が運転をすることになるので、それなら次回はうちがやりましょう、と言って、結局、交互に、夜の8時すぎと11時前に子どもの送迎をすることになったりします。これは車社会の弊害で、日本ではそんなことはないかもしれませんね。子どもが自分で自転車に乗って、友達の家に行くでしょうか。あるいは、自転車でも公共交通機関でも行けない距離なら、素直に諦めるでしょうか。 車社会の現代人は、とにかく諦めが悪いです。夜8時過ぎだからやめておこうとか、朝も昼もでかけたからやめようとか、何らかの理由をつけて予定を減らすことをせず、予定をぎちぎちに詰めて行動します。 更に、電化製品がありますから、仕事を際限なく増やします。洗濯機の他に乾燥機もあるとなると、どうしても今夜着たいのに汚れている服を一枚だけ、午後から洗濯乾燥して、夜までに着れるようにする、などという発想もあり得ます。他の服を着るしかないか、と諦めることができないのです。 このように以前はあり得なかった予定の立て方をしますから、同時に多数の仕事をこなすことは必須となり、コーヒーを飲みながら朝食と弁当を用意し、朝食を食べながら仕事し、昼食もコンピュータの前で摂り、仕事中も私信メールやテキストを時々交換し、仕事中に何杯も飲むコーヒーは会議や作業をしながら飲み、カップに半分残してあちこちに置き忘れ・・・一日の仕事を終わってみると、確かに一定の量の仕事をこなし、合間に友達とも連絡を取りましたが、その間に何をやったか正確には思い出せなかったりします。もちろん、何杯のコーヒーを飲んだかも、思い出せません。 技術が進歩し、何でも自動化したからこそ、マルチタスクな生き方が可能になりましたが、結局、便利になった分、仕事を増やすので、一向に楽にはならず、限りなく注意力散漫な生活をしているのです。 そして、マルチタスクばかりしていると、人生は、そのうち、「ただ、こなしているだけ」になります。 一つのことに心を込めて優雅にやるということをしないと、毎分毎秒が、目の前にある複数の仕事に追いまわされ、ベルトコンベヤーのスピードに振り回される工場労働者のようになっていくことは、間違いありません。 いつしか、やることはすべて、今やらなければならない義務になります。 料理が好きだからするのではなく、今、料理しなければ大変なことになるからやらなければならない、 掃除が気持ちよいからするのではなく、今、掃除しなければしっちゃかめっちゃかになるからやらなければならない、 子どもとの会話ですら、おしゃべりが楽しいからではなく、今、会話しなければ親失格かもしれないからやらなければならない、 買い物を楽しむのではなく、必要なものを今買っておかなければ足りなくなって大変だからやらなければならない、 仕事をしてお金を稼がなければ路頭に迷うからやらなければならない、 今食べておかなければ後がないから、今食べなければならない、 今飲んでおかなければ眠くなるから、コーヒーかお茶を、今飲まなければならない・・・ という具合に、すべてが今やらなければならない「仕事」になり、そのすべてを同時にやろうとして、ぜいぜいはあはあ、息も絶え絶えになってしまいます。 そして、自分の人生が、もやは、自分の人生ではなくなるのです。 複数の仕事を同時にこなした5分間の後には、自分の人生の5分間を喪失したように感じます。なぜなら、その5分間に何を感じて何を味わっていたか、よく思い出せないからです。あるいは、思い出せるのは、忙しくて大変だったという焦燥感や疲労感だけです。複数の仕事をこなした5分間は、最高に能率の良い5分間だったのですが、コーヒーをじっくり味わって飲んだ5分間と比べると、どちらの方が自分の人生を自分のために自分らしく生きた5分間だったと言えるでしょうか。 マルチタスク志向は、あなたの人生をあなたから奪う落とし穴です。 こういう状況になってしまった場合、まず、現実的に減らせる仕事や予定があるかどうか、考えてみることが必要です。一日の行動時間を記録に取り、減らせる仕事と予定を減らしたり、家族や同僚の協力を頼んで自分の作業負担を減らすということができるかどうか、分析してみましょう。 しかし、言うは易しで、減らせる仕事なんて一つもない場合もあります。子育て中、介護中、病人看護中などのご家庭では、マルチタスクの状況が何年も続いている場合もあり、ブラック企業にお勤めの場合も、仕事を減らす方法はどう考えてもない、ということがあり得ます。 そういう場合でも、対処法はあります。 マルチタスクの真逆をする時間を意識的に取ることです。 マルチタスクの真逆とは、一つのことに意識を集中して、それだけを味わってすることです。「マインドフルネス」という横文字から無理矢理カタカナ訳の単語が日本に輸入されていますが、その意味は目の前にある物事に意識を集中し注意深く味わうことです。 忙しい一日の中にも、コーヒーやお茶を味わって飲む時間を取り、その時間だけは、他の作業を一切せず、また心配事や作戦などを頭の中で練るのも、一切やめましょう。コーヒー(お茶)を飲んでいる自分の今を、精一杯生きるのです。そのためには、身体のどこかに変な力が入っていないかチェックすることから始め、姿勢を正し、深呼吸を何度かして心身の落ち着きを取り戻し、皮膚感覚を研ぎ澄ましてカップ(湯のみ)の手に当たる感触を味わい、味覚を研ぎ澄ましてコーヒー(茶)の味を感じ、液体が口から咽を通って流れて行く感覚をしっかり感じながら飲みます。 コーヒーやお茶を味わって飲む暇すら無い方、それなら、洗顔をする時に、一心不乱に心を込めて、ご自分のお顔を大切に思いやって洗ってみてください。洗顔をする数分の間、心配事や今日一日の作戦を練る頭の声をちょっと黙らせて、呼吸を整え、皮膚に当たる水の感触を味わってください。 一日の活動のどれか一つ、心を込めて優雅にやると決めておくと、その動作をする瞬間に、マルチタスクに奪われてしまった人生が、自分の手中に戻ってきます。自分の人生が自分の手中に戻ってきた感覚を掴むと、自分の人生を奪うほどの忙しさというのが、不健全で不可能な忙しさであることもわかるようになります。そうなる前に、予定を入れるのを控えよう、頼まれごとを断ろう、という判断が、自然にできるようになっていきますから、まずは、一日一つ、数分でできることを、心を込めて優雅にやることから、始めてみてください。 自分の人生が誰のものだったか、もうよくわからない、というほど忙しい方、一度お試しください。 それでは皆様、本日も、ご自分の人生をご自分のものとして、豊かに生きられますように。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 16 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(4)完ぺき主義

      本日は、これを抜きにしては、元気を奪う宇宙観を語ったことにならないというくらい有名どころの「完ぺき主義」を扱います。 「完ぺき主義は自己破壊への第一歩」ということを、ご存知の方々が多い世の中になってきたのではないかと思いますが、知らずに一生懸命、完ぺき主義を貫いている人もいまだに居られるらしいです。 あるいは、「完ぺき主義はやめた」と言い切っているのに、あちこちで、完ぺき主義が顔を出して自分を苦しめていることに気づかない人も居られるみたいです。 私の完ぺき主義との出会いは幼少の頃で、教育熱心だった親が、試験は100点を取るために受けるものだと教え込み、95点でも98点でも横っ面を張られたことがありました。そして、最初に就職した企業(社名は出しませんが、日本人なら誰でも知っている有名企業)では、「どんなに上手く仕事をやっても、一つでも失敗があったら、社会人として失格だ」と新入社員研修で教わりました。恐らく、この企業も、今はこんな教え方はしていないと思います。日本全国的に、完ぺき主義、満点主義を貫いても、抜きん出た人材は育たないことに気が付いたのが、今からもう20年くらいも前ではないでしょうか。 完ぺき主義からは人材が育たないのには、以下のようなメカニズムがあります。 完ぺき主義者は失敗を嫌います。失敗を嫌う人は結果の見えない挑戦や実験をしません。従って、新しい発想や発案を出そうとせず、新しいことに取り組もうとせず、たとえ新しい発想があってもその実現可能性を検討する前に、破棄します。その結果、伝統主義・保守主義に陥り、現状、何らかの弊害があっても、改善するよりは、現状維持することを好むようになります。 つまり、完ぺきを目指すという名目で、様々な弊害のある現状に甘んじること、これを称して完ぺき主義というのです。 「いやいや、私の完ぺき主義は違う、私は完ぺきになるまで何度でもやり直し、新しいやり方を試すのだ」という方も居られるかもしれません。そういう方は、厳密に言うと、完ぺき主義者ではなく、改革主義者や発明家なのです。その違いは何かというと、物事が完ぺきになる以前の不完全な状態に心理的に耐えられるということです。改革主義者や発明家は、完ぺきでない作品を、心を乱さずに観察分析し、その改善点を冷静に指摘することができます。 完ぺき主義者は、完ぺきでない作品や成果を見ると、パニックを起こして思考停止になるのです。完ぺきでない物事が存在することに耐えられない、自分が完ぺきでない成果を挙げたことに耐えられない、というのが、完ぺき主義者の特徴で、その本質は、完ぺきでない物事を一律「失敗」とみなし、失敗に関して強度な心理的恐怖を感じるという現象です。 ここまで、このシリーズをお読みいただいて、元気を奪う宇宙観の裏には、大抵、何らかの恐怖が潜んでいる、ということにお気づきでしょうか。「世間体」は「(社会からの)孤立恐怖・拒絶恐怖」、「採算」は「貧困恐怖」、「家事なんか」は「劣等恐怖」が裏にあり、そして「完ぺき主義」の裏には「失敗恐怖」があります。 なぜ失敗を恐れるようになったのか、個人的に色々な経緯があったのだろうと思いますが、とにもかくにも、失敗を恐れることからは、現状維持をする以外の選択肢は生まれません。そして、失敗恐怖を乗り越えることができればやってみたいことが沢山あるのに、やらないで済ませておいて、人生に全般的に退屈し不満を感じ続ける、という状態になって行きます。 更に、何かに成功しても、成功することによって、失敗という恐ろしい現象を逃れたという安堵感しかなく、何かを達成したという満足感は得られません。例えば、受験に成功して大学に入れたとしても、「ああ、やっと進学先が決まった、これで浪人しないで済む」と安堵し、就職活動に成功して入社日が決まっても、「ああ、やっと就職先が決まった、これで失業しないで済む」と安堵し、職場で出された課題を完ぺきにこなしても、「ああ、やっと提出期限までに終わらせることができた、これで上司に叱られないで済む」と安堵するのです。 このように、達成できなかった場合に起こり得る不都合や不快状況を想定し、それを回避するためだけに必死に目標を達成する人は、それを達成しても安堵感以上の快感を得ることはありません。 そして、少しでも完ぺきでない成果が出てしまった時は、それをネタにどんな批判を浴びるか、どんな叱責を受けるかと恐怖して、戦々恐々となるのです。 失敗恐怖型の完ぺき主義からは、失敗を回避する無難な策しか出てきませんから、突拍子もない新発想をする抜きん出た人材は育たないのです。 成果が完ぺきであることは、別に悪いことではありません。完ぺきであることは大変良いことです。でも、成果が不完全であることも、実は大変良いことなのです。何かが完ぺきな状態に至るまでには、必ず不完全な状態を経過します。あるいは、何かが新たな完ぺきを達成する前には、古い完ぺきを経過するのです。 例えば、電気釜というものが出来る前には、直火で炊くお釜というものがありました。お釜というものがそもそも存在しなかったところに、突然、電気釜というものが出現することはなかったでしょう。直火で炊くお釜は古い完ぺき、電気釜は新しい完ぺきで、どちらも完ぺきなのです。改善の余地があるから不完全だ、すなわち失敗だ、という完ぺき主義者の発想しかなかったら、私達は、初代電気釜に出会えなかったでしょうし、初代が無かったら、その後何度も進化した現在の電気釜にも出会えなかったでしょう。 と、お釜の話にすりかえれば、恐らく、異論のある方は一人もいないでしょう。それなのに、数学の試験の話になると、100点は完ぺきだが80点はだめだ、いや、80点はまあまあだが60点は完全に失敗だ、ということになってしまうのは、なぜなのでしょう。60点を採るところまで今回勉強したから、次回は70点を採れる可能性が広がったのだとは、なぜ考えられないのでしょう。俺の子が60点を採るはずがないからでしょうか。俺様の遺伝子が入っているのに、失敗するはずがないからでしょうか。子が60点を採ることは、自分の遺伝子が失敗だと責められているような気がするのでしょうか。試験にまつわる完ぺき主義には、きっとどこかに、親子二世代以上に亘る失敗恐怖が潜んでいますよ。 失敗恐怖から派生した完ぺき主義は、人生の元気を奪うどころか、人生そのものを奪うと言ってもよいくらい、強力な自己妨害、エネルギー消耗の原因です。完ぺき以外の成果は失敗だと自分で思い込んだ瞬間から、人生は確実に失敗の連続になります。なぜなら、100でないものは失敗だという定義なら、10から20に進んでも、20から30に進んでも、30から奇跡的に98に進んでも、更に98から99に進んでも、それはすべて失敗の連続と自分で決め付けるからです。これは、「失敗の定義」が間違っているからなのですが、ご本人は「自分は進歩がなくて失敗の連続だ」と確信します。 自分は完ぺき主義者だと自負しておられる方々、一度、再考してみてください。 自分の人生は失敗の連続だと確信しておられる方々、一度、再考してみてください。 それでは皆様、本日も、失敗を恐れず、何か一つ新しいことに挑戦されますように。昨日と少し違う一日を過ごしたら、今日という一日は一つの新たな完ぺきです。というのは、昨日という一日が完ぺきではなかったからではありません。昨日も一つの完ぺき、今日も一つの完ぺき、明日も一つの完ぺきであり得るのです。完ぺきには色々な表現形があり、どれも完ぺきなのです。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 09 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(3)家事なんか

      本日は、私自身が個人的にずっとずっと元気を奪われてきた考え方について、考察してみたいと思います。 私以外の世の中一般の方々に関係があるテーマなのか、わかりませんが、わからないまま書いてみましょう。 前回の「採算志向」とも関係があるのですが、一般的に、家事は採算度外視の活動です。家事には、出費(食費とか)しかなく、一定の時間がかかり、給金をもらえるものではなく、収入や売上はないので、数値化できる要素だけを見れば、必ず赤字です。 という理由で、世帯内でも社会でも、家事担当者が企業の赤字部門(あるいは赤字しか出せない営業マン)のような扱いを受け、仕事をして現金収入を得て来る人が、企業の黒字部門(あるいは好成績の営業マン)の扱いを受けているような気がしませんか。 この点については、もちろん世帯や地域社会により差があるわけですが、一般論として、「家事は女がやり男は外で仕事してこい」というと、「男尊女卑」であると言われますね。この考え方は「女尊男卑」であるとは、誰も言いません。なぜでしょう。もし、社会全体に、家事が仕事よりも偉い、という合意があり、一番偉い仕事を女がやれ、と言っているのだという合意があったら、「家事は女がやれ」という発想は、「女尊男卑」であることになりませんか。これが「男尊女卑」であるという合意があるなら、「家事より仕事の方が偉い」という合意がある、ということになりませんか。いつからこの合意ができたのでしょう? 狩猟採集民だった頃、人類は、男も女もどちらも家事しかやっていませんでした。(狩猟採集という方法で食品調達し、他のすべての動物種と同じく、食品調達と食事に、活動時間の大半を費やしていたはずです。)狩猟採集民が農耕を始めた後も、農業は食品調達活動ですから、やはり、活動時間の大半を、食品調達と食事に費やしていました。 食品を調達し、それをそのまま、あるいは何らかの調理・加工を加えて食事し消化することは、それ自体が人間存在の意義であると言ってもよいくらい、偉いことだったのです。よね? 一体、いつ頃から、食品調達・調理・食事は、現金収入を得る「仕事」より下位になってしまったのでしょう。 食に関わる家事だけでなく、洗濯、掃除も、感染症や食中毒などを防止するために、言い換えれば生命維持のために、絶対に必要な活動ですが、やはり現金収入には結びつきません。 生命維持のために必須の、食品調達、炊事、洗濯、掃除は、電化製品のおかげで、かなり短時間でできるようになりましたが、それでも、生命維持のために必須の活動であることには変わりがありません。 それなのに、なぜ、私たちは、仕事が家事より偉いように思うのでしょうか。 確かに、物々交換から貨幣経済に移行して久しい現代社会では、現金収入を得ることも生命維持のために絶対必要な活動ではあるのですが、現金を得ていても、食の管理ができていなかったり、不潔な環境に住み続けていたりしたら、病死する可能性が大いにあります。 実は、若者の中に、そういう生活に陥っている人が結構いませんか?仕事を始めて数年で、身体を壊してしまう人が居ませんか? 今から10年ほど前、うちの子供達が高校生だった頃、高校生の部屋は足の踏み場が無い程ぐしゃぐしゃなのが、当たり前になっていました。(日本の場合は違うかもしれません。)このことが私にとっては最大の文化摩擦だったと言っても過言ではありません。何故、この子達は、自分の身の回りを片付けることができないのか、何故、クラスメートほぼ全員、男子も女子もそうなのか、何故、私の世代はそんなことはなかったのか、理解できませんでした。実は未だに理解できません。 とにかく、欧米圏では、10代のうちは身の回りを清潔に保つことができなくても仕方ないので、見て見ぬ振りをする、というのが、「10代の子の親時代を生き延びる」作戦となっており、うちもこの作戦に従うしか方法がありませんでした。 10年後、2人の息子のうち一人はほどほどに片付けられるようになり、一人は未だに(30歳を目前にして)片付けられません。このことが彼の人生の大きな障壁となっているのは一目瞭然で、出かけようにも、着たい服が汚れていて着られない、靴下が見つからない、ひげ剃りが見つからない、朝食のネタを買っていなかった・・・などなどしているうちに、約束の時間に遅刻して、友達を失う、カノジョを失う、職を失う・・・等々、延々と弊害が出ているのです。 食の内容に関しても、栄養バランス良く規則正しい食生活を送ることができないため、風邪を引きやすかったり、口内炎に頻繁に罹ったりし、就職して下宿してからも、感染症で実家に2週間ほど身を寄せるということが、年に2度以上はあるのです。 そして、日常生活があまりにも雑然としているため、結局、自分には何もまともに出来ないような気がする、という全般的な自信喪失にもつながっています。 何がどうしてこうなったのか、10年越しで、ずっと考えています。 例えば、高校生だった息子達は、家事を良く手伝う少数派の男の子のことを「女々しい奴ら」と軽蔑していました。(類は友を呼ぶので、うちの子達がつるむ友達は全員、この考え方をする子達で、いかに家事の手伝いをしないで逃げたか、という話を自慢し合っているようなところがありました。) 学校を取り巻く社会は、成績業績重視で、学業成績が良い子のほか、高校生ながら起業してお金を稼ぎ始めた子、親から借りた頭金で不動産転がしを始めた子、化学や物理で大学レベルの研究をした子、スポーツ大会で優勝した子、音楽の能力が優れている子、ダンスが上手な子、などなど、社会的に大々的に評価されるような、経済的成功に結びつきそうな業績を挙げた子がもてはやされ、学校からまっすぐ帰って家事を毎日手伝った子が表彰されるようなことは、ありません。学校内に、一人や二人は、両親のどちらかが大病をしたり亡くなったりして、高校生ながら弟妹の親業を兼業している子が居たはずだと思うのですが、そういう子が大々的に表彰されたことはありませんでした。 私自身が中学生・高校生だった頃、東京辺りでは、女子も外に出て働く時代になったという風潮だったので、学校の先生がこぞって、「これからの女子は、家にこもって家事だけやるのではなく、手に職を持ちなさい」と言っていました。私は、この考えに完全に染まっていたので、結婚して家にこもることよりも、手に職を持つことが、偉いことだと信じていました。 今住んでいる国にはもう、女子を家にひきこもらせようという発想はなく、日本とは違って、配偶者扶養控除の制度もありません。夫も妻も単体で見て、収入に応じて課税です。(子や老親の扶養制度はありますが、健康な働ける成人が配偶者の控除に入るという発想はありません。)これは、男女差別を失くすための方策であり、女性の経済的自立を認めたという文脈では良いことだと思います。私自身、本当に手に職を持つことができたし、(多少のブランクはありましたが)20歳からほぼ継続的に働いているため、女子なのに生涯賃金が男子並みだとは思います。 しかし、男子であるか女子であるかを問わず、家事能力、特に食事管理能力がないということは、致命的な自己妨害であることを忘れてはなりません。 40歳を過ぎてから食育に目覚めた私は、振り返ると、幼児期から40代まで、頻繁に感染症と闘っていました。ほとんど風邪を引かなくなってからわかったことですが、私の場合は、親の代から、既に、食事管理能力が欠如していたらしいのです。 20歳の頃に、今の健康状態を手に入れていたら、人生は全く違ったものになっただろうと、生涯賃金だって倍くらい稼いだかもしれないと、本気で思います。 現代人は、食事管理・衛生管理を、仕事よりも下の「雑事」と位置づけることにより、仕事での成功を自分で阻んでいます。 そして、家事を誰がするのかという争いが夫婦の間で絶えず、結婚を破綻させる例も沢山あります。これはもはや男女差別の問題ではなく、男も女もどちらも「家事なんか」やりたくない、親がやりたくない「家事なんか」子どもだってやりたくない、という問題になってきています。 家事が「家事なんか」になった時に、仕事も結婚も子育ても破綻に向かい始めると言っても過言ではないように思います。そして、この法則は、男女ともに当てはまります。 「家事なんか」と思っている人は、失業や落第などにも弱いです。失業や落第をした途端に、自分の存在意義が無くなったと思い込み、心配になり、落ち込みます。こういう人に、「それならとりあえず家事をきちんとしてみたら?」と言っても、聞き入れられることはほとんどなく、社会にも家庭にも貢献できない「無能者」「役立たず」になってしまったと嘆きます。家族や自分の健康に貢献できる身近な方法がごまんとあるのに、「家事なんか」と一蹴してやらず、やらないことにより益々自信喪失に陥り、自分自身の健康を損ね、再就職や学業を益々困難にしたりします。 食事時間や入浴や身繕いも含めて考えると、採算の合わない家事という活動に、一日2~3時間くらいは最低でもかけているはずです。仕事をしない日はあっても、食事や排泄をしない日はなく、コンピュータを使わない日はあっても、冷蔵庫や食器やトイレや洗面所を使わない日はありません。 それならば、一日2~3時間は必ずやることになる活動や毎日必ず使うものの方を大切にし、慈しみ、心を込めて丁寧に取り組み、丁寧に手入れした方がよくないでしょうか。 食事管理・衛生管理を人生の要/人間存在の根本的意義と位置づけて、そういう業務を上手にこなす人を、男であれ女であれ、敬い表彰する、という考え方を、家庭でも学校でも職場でも、推奨した方がいいのではないかと私は思います。 でもこれは、私の経験に基づく私見でした。皆様は、どう思われますか? それでは、ブログはこの辺にして、家事業務に行ってきます。 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

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  • 06 Apr
    • 元気を奪う宇宙観(2)採算 ー画像追加

      元気を奪う宇宙観の二つ目は「採算を考えて行動しろ」という、採算志向です。 採算志向には、色々なバリエーションがあり、一番わかりやすいのは、「投資が回収できるのか、一定の利益率を挙げられるのか、考えて事業投資すること」ですが、 起業家でない一般人にわかりやすい身近な例としては、 進学・職業選択の採算を考えろ です。親御さんに言われたことがありませんか? ○○学部なんて、就職を心配しなくてよい金持ちの子が行くところだ。お前は就職しなければならないのだから、やめておけ。 (男子の場合)そんな仕事に就いたら、給料安くて嫁さんもらえないぞ。 (女子の場合)そんな学部に進んだら、男に怖がられて婚期が遅れるから、もっと女の子らしい学部にしなさい。 そんな遊びみたいなことばっかり考えてないで、収入の安定したきちんとした仕事に就きなさい。 これらは皆、採算志向のバリエーションです。 何らかの努力をするなら、努力の見返りとして、経済的報酬が付いて来なければならない。そうでないと、生活苦や婚期が遅れるなどの苦難を味わうことになるから気をつけろ、という宇宙観です。 お断りしておきますが、採算を考える能力があることは、決して悪いことではありません。 例えば、毎晩クラブに通って夜遊びしたいので、ついては、渋谷か六本木辺りに住みたい場合、その辺りの家賃とクラブの入場料と、自分の給料(あるいは資産)を引き比べて、飢え死にせずに生きて行けるのかどうか、考えなければなりません。生きて行ける人は、渋谷・六本木辺りに住むでしょうし、生きていけなそうだ、と思った人は、もう少し離れたところに住むことにするかもしれません。しかし、離れたところに住むにあたり、タクシー代が毎夜発生するなら、実は、渋谷・六本木に住んだ方が、採算が良いかもしれないのです。 この例が示すように、たとえ、常識的な親が聞いたら絶対反対するような非常識なプラン(毎夜クラブに通って夜遊びする)であっても、親の思い込みとは裏腹に、本人はちゃんと採算を計算して行動しています。採算を計算する算数力を持っているということは、大変ありがたいことなのです。(この機会に、小学校の算数の先生に感謝しましょう。) ですが、採算ばかりを考えて、採算一辺倒になっていたら、人生の大切な部分を見落とすことになってしまいます。 採算は、数値化できる要素を数値化して、足し算引き算する行為です。数値化できる要素の他に、 クラブで音楽に身を任せて踊っている時に感じる高揚感や、そこで出会う人達との間に生まれる友情や恋などの数値化できない要素があり、もしかしたら、クラブで出会った人脈から芸能界で仕事をすることになる可能性もあるかもしれないのです。これらの要素は採算の計算には全く含まれません。 それでいいのでしょうか。 採算が合わなそうだったら、 大好きなクラブ通いをすっぱり断念するべきですか? 好きでもない学部に進学するべきですか? 面白くなさそうな仕事でも、安定した高い給料をくれる大企業に就職するべきですか? 金にならない趣味や習い事はすっぱりやめるべきですか? 金にならない人助けや金蔓ではない知人と過ごす時間は、すっぱり切り捨てるべきですか? 恐らく、上記5つの質問全部に、瞬時に「はい」と答える人は、少ないと思います。 「そういう聞き方をされると悩むなあ」と思われるのが、普通ではないでしょうか。ですが、自分の子や夫や妻のことになると、好きでもない学部に進学させようとしたり、金になっていない活動をやめさせようとしたり、金蔓でない親類縁者と疎遠にさせようとしたり、大企業に就職させようとしたりして、言うことを聞かない子どもや家族にイライラしたりしませんか。 これは、私達の中に、 好きなことや善い事をしている時の喜びは何事にも変えがたいものである、という経験的理解と、 貧困は強烈な苦労であって絶対に避けなければならないが、自分も家族も近日中に貧困に見舞われそうで怖い、という本能的恐怖が 共存しているからです。 貧困に対する恐れは、その他多種多様な恐れの大元締めのようなもので、「地獄の沙汰も金次第」という言い回しがあるように、 重度疾病になっても金があれば良い治療が受けられる、 離婚しても金があれば苦労はしない、 重度障害を負っても金があればなんとでもなる、 しかし、金が無ければどうなることか・・・ と、すべてを金に還元して「貧困恐怖」を感じている人が少なからず居ます。「貧困恐怖」が、自分の人生の選択を決める唯一の指針となる時、私達は、採算に拘り、数値化できない喜びや興奮や出会いや友情や恋や愛を無視して物事を決めてしまいます。その結果、喜びや興奮や出会いや友情や恋や愛の生まれる可能性が低い方へ低い方へと、自分や子どもや配偶者の人生を導いてしまうのです。これは、元を正せば、自分や子や配偶者を苦難から守りたいという保護愛だったかもしれませんが、行き過ぎた保護愛の結果、愛の対象に味気ない人生を強いている、という例です。 それでは、どうしたらいいのでしょうか。 時には、採算を度外視して、喜び、興奮、出会い、友情、恋や愛のありそうなところに向かって行くことが必要なのです。 採算度外視の成功例は、実は枚挙に暇が無いほど、あります。そういう例をもっと知りたいと思い、気をつけて探さないと見過ごすかもしれませんが、世の中には採算を度外視した結果、愛と幸せと採算を全部手に入れた人が結構居るのです。 私が知っている例では、 The Happiest Refugee (「最も幸せな難民」和訳は残念ながらありません。) の著者のベトナム人アン・ドーさん。(安藤ではありません^ ^ ) 幼少時に命からがらオーストラリアに逃れたベトナム難民ですが、法学部を卒業し、法律事務所への就職と漫才師の道を引き比べて、漫才師になり、芸能界で大活躍しています。法学部時代の同級生と結婚し、現在は恐らく、法律事務所の給料よりも遥かに良い収入を得ていると思いますが、彼が大学を卒業したばかりの頃は、誰もそんなことは予想できませんでした。彼はただ、漫才をやっている時の自分の幸福感だけを羅針盤として、採算度外視の決断を下したのでした。 こういう話を聞いて、どうしますか? これまで、お子さんや家族に、採算を考えて行動しろと教えてきた場合、その教えを少し修正しますか?どの程度修正しますか?自分と家族を貧困に陥れない責任を感じて、自分自身に、「採算を考えて行動しろ」と言い聞かせてきた責任感の強い親御さんの場合、これまで自分を律してきたこの方針を少し緩めてみますか?どの程度緩めてみますか? あるいは、それは危険すぎる、やはり、私は採算を重視して生きて行く、と思われますか? 本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。 皆様、元気よく楽しい一日を過ごされますように。 後で思いつきましたが、この記事のテーマソングみたいな歌がありまして・・・ Dire StraitsのMoney for Nothing. Money for nothing and the chicks for free というサビの部分は有名ですが、「何もしなくても金が入り、金を払わなくても女の子が寄って来る」という意味です。 この歌を作曲したきっかけは、バンドのメンバーが電気屋さんで買い物をしていたら、自分達のバンドの演奏ビデオを店頭のテレビで放映中で、電気屋さんの配達係のお兄さん達が、「俺達ぁ、電化製品を一生懸命運んでも大した金もらえないのに、こいつらは、好きな歌だけ歌っていりゃ、金はばかばか入ってくるし、女は寄って来るし、不公平だ」とぼやいていたのを聞いて、あ、こりゃ歌になるなと思い、歌にしたところ、3週連続全米ナンバーワンを記録する大ヒットとなって、ますますぼろ儲けしてしまったという、なんとも皮肉な逸話付きの歌です。 しかし、バンドメンバーの経歴を読んでみると、確かに、中学生くらいで楽器を嗜み始め、高校生くらいでバンドを組み、一応大学にも行って、学校の先生になったりしているところを見ると、中産階級以上の出身のようですが、20代の頃は、昼間の普通の仕事と夜のバンドの練習を掛け持ちし、ヒットするまで、ジリ貧に近い生活を10年くらい送っています。その間に、「採算が合わないからやめておけ」と思っていたら、好きなことをやって採算が合う生活は手に入らなかったでしょう。因みにバンド名「Dire Straits」は「ジリ貧」という意味です。但し、全員、昼間の仕事を持っていたから、本当のジリ貧だったわけではない、と後に語ったそうですが、昼間の仕事の稼ぎを音楽に注ぎ込んで音楽をやっても飢え死にしない生活を保っていたのですから、音楽活動の採算は合っていなかったわけですよ。 という下積み生活を10年した人達が、好きなことをやって採算の合う人生を手に入れたことを羨んで、「俺達は真面目に働いているのに、こいつらは・・・」とぼやくのは、ちょっと外れているな、と思います。音楽も、昼間の仕事も、両方真面目に働いたから、成功したのですよ。 ぼやく派よりも、下積み10年の後に芽を出す派に所属したいと思いませんか? それでは、お楽しみください。 Money for Nothing

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プロフィール

ほぼベジのぬけの幸せ道場

血液型:
自由型
自己紹介:
<<自己紹介>> 20世紀の日本に生まれました。幼少期から多少困難なことがあったため幸せ道の修...

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