追伸 4jhから愛をこめて
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世の中あらゆるものは、

全て一体であり、一体として存在している。

その一体であることを喜び、

逆にそれが分かれている悲しみ、

それを一体であろう、一体にしようという、

そんな思いが陽明は一番尊いものだという。

それを万物一体の仁という。

 

なるほど、確かに尊いと思う、

が、である、

 

これは難しい。

私自身の心を覗いて見ればわかる、

そうは思えない自分がいる。

 

たとえば、

遠い異国で起こった災害のニュース、

他人事に感じる自分がいる。

難波征男先生は、

万物一体の仁の理解の一助として、

日本の神道、

「いただきますの心」を参照される。

 

私たちは食事を食べる前に、

手を合わせ、「いただきます」という。

 

この習慣、神道の考えから来ている。

 

「いただきます」とは、

「命をいただきます」という意味だ。

 

私たちは、植物、動物の命を頂いて、

生きている。

 

その命に感謝を表明する習慣が、

「いただきます」だという。

 

肉食動物は、草食動物の命を頂いて、

自らの命を作っている。

草食動物は、植物の命を頂いて。

植物は、水、土の中の養分、

そして、太陽の光を頂いて。

 

続けて言えば、「ご馳走さま」とは、

この食事になるまで、

米を育てた人、料理を作った人に対して、

感謝の意を表明する言葉だという。

 

皇室の文化に詳しい所功教授に、

ある人がこんなことを尋ねられた、

「皇室の人々は、

 どうして、あのような優しい心を、

 持たれているのですか?」

 

すると所功教授はこう言われたのだそうだ、

皇室の方々は、三度の食事のたび、

お膳に並んだ食事をみて、手を合わせ、

この命がどのようにして、

ここへ運ばれてきたのかに思いをめぐらせ、

そして、「いただきます」というのだそうだ。

 

毎日、そのようにしていると、

あのようなお人柄になっていかれるのだという。

 

なるほど、

他の命を頂いて、自分の命がある、

それは頭で考えれば理解できることだ。

 

しかし、人間はそのことを忘れてしまう、

その感謝の気持ちをすぐに忘れてしまう。

 

それを忘れないように、

日々、思い起こすようにするための習慣、

それが「いただきます」だという。

 

万物が一体であること、

それを頭で理解することはできるが、

心でそのように思えない、

だから、

そのように思おうとすることが、

大切なのだ、

陽明はそう言いたかったのかもしれない。

 

陽明は、

聖人は、民の痛みを自分の痛みとして、

感じるという。

 

また、聖人は、

はじめから聖人なのではなく、

勤めて聖人になるものだという。

 

皇室の神事を多くは、

この「いただきます」と、

同じ主旨のものが多いそうだ。

日本国民が、

万物への感謝を忘れないように、

するためのものだという。

そのような習慣を幼き頃より、

日々行ってきた皇室が、

どこかで災害が起こるたび、

胸を痛められる。

 

陽明学が日本で普及した理由の一つは、

神道との相性が非常に良かったことだ。

 

そして、絶妙の融合を遂げ、

日本陽明学と呼ばれていく。

 

(神儒一致と呼ばれる)