世の中あらゆるものは、
全て一体であり、一体として存在している。
その一体であることを喜び、
逆にそれが分かれている悲しみ、
それを一体であろう、一体にしようという、
そんな思いが陽明は一番尊いものだという。
それを万物一体の仁という。
なるほど、確かに尊いと思う、
が、である、
これは難しい。
私自身の心を覗いて見ればわかる、
そうは思えない自分がいる。
たとえば、
遠い異国で起こった災害のニュース、
他人事に感じる自分がいる。
難波征男先生は、
万物一体の仁の理解の一助として、
日本の神道、
「いただきますの心」を参照される。
私たちは食事を食べる前に、
手を合わせ、「いただきます」という。
この習慣、神道の考えから来ている。
「いただきます」とは、
「命をいただきます」という意味だ。
私たちは、植物、動物の命を頂いて、
生きている。
その命に感謝を表明する習慣が、
「いただきます」だという。
肉食動物は、草食動物の命を頂いて、
自らの命を作っている。
草食動物は、植物の命を頂いて。
植物は、水、土の中の養分、
そして、太陽の光を頂いて。
続けて言えば、「ご馳走さま」とは、
この食事になるまで、
米を育てた人、料理を作った人に対して、
感謝の意を表明する言葉だという。
皇室の文化に詳しい所功教授に、
ある人がこんなことを尋ねられた、
「皇室の人々は、
どうして、あのような優しい心を、
持たれているのですか?」
すると所功教授はこう言われたのだそうだ、
皇室の方々は、三度の食事のたび、
お膳に並んだ食事をみて、手を合わせ、
この命がどのようにして、
ここへ運ばれてきたのかに思いをめぐらせ、
そして、「いただきます」というのだそうだ。
毎日、そのようにしていると、
あのようなお人柄になっていかれるのだという。
なるほど、
他の命を頂いて、自分の命がある、
それは頭で考えれば理解できることだ。
しかし、人間はそのことを忘れてしまう、
その感謝の気持ちをすぐに忘れてしまう。
それを忘れないように、
日々、思い起こすようにするための習慣、
それが「いただきます」だという。
万物が一体であること、
それを頭で理解することはできるが、
心でそのように思えない、
だから、
そのように思おうとすることが、
大切なのだ、
陽明はそう言いたかったのかもしれない。
陽明は、
聖人は、民の痛みを自分の痛みとして、
感じるという。
また、聖人は、
はじめから聖人なのではなく、
勤めて聖人になるものだという。
皇室の神事を多くは、
この「いただきます」と、
同じ主旨のものが多いそうだ。
日本国民が、
万物への感謝を忘れないように、
するためのものだという。
そのような習慣を幼き頃より、
日々行ってきた皇室が、
どこかで災害が起こるたび、
胸を痛められる。
陽明学が日本で普及した理由の一つは、
神道との相性が非常に良かったことだ。
そして、絶妙の融合を遂げ、
日本陽明学と呼ばれていく。
(神儒一致と呼ばれる)