小林麻央さんの「死」の報道に接するたび、じーじの「死」の感触がよみがえる。
私の腕の中で、一つ大きく息を吐き、そのまま息絶えたじーじ。
冷たくなったじーじの身体に触れた途端、泣き叫んだばーば。
「じーじが冷たくなっちゃった。」
「じーじ、逝っていかん。逝っていかん。」
と叫び続けたばーば。
その映像が蘇る。
90歳の大往生であっても、肉親の「死」はこれほどまでに辛い。
母親を亡くした幼子は、今どれほど辛いのか?
うちの息子たちが初めて「死」と接したのは、主人の父、つまり「おじいちゃんの死」。
次が「じーじの死」。
世の中の順番どおり。
年老いて、シワシワになって痩せ衰えた先にあるのが「死」だと思っているはず。
人間が生き物である以上、いつか必ず「死」は訪れる。
わかってはいるけれども、辛い。
でも、遺された者たちは生きていかなくてはならない。
生きることも、又辛いことだ。