先日私の身の回りでショックなことがありました。
私の知り合いと新聞のことについてちょっと語る機会があったんですが、そこで知り合いは
「新聞は(思想的に)偏っているから見ない」
と発言したんですよね。
これには、私も大変ショックを受けました。
「新聞は偏っているから読まない」という人には、今からいう三つの要素が欠けていると思います。
ひとつめは、
「新聞が偏っているんじゃなくて、偏っているのは自分の頭のなかじゃないか?」
と、まず自分の思想を疑ってかかる「慎重さ」に欠けると思います。
「新聞が偏っている」というのは、あくまで主体を自分に置いた天動説の考え方です。そこで一歩引いてみて「自分の考えが中心から外れているのではないか?」と地動説の考え方に至る慎重さに欠けると思います。
そしてふたつめ、新聞・テレビをはじめとするマスコミは、私が学生の頃から就職するのが大変に困難で、大学に在学中から特殊な勉強をして、時事問題をはじめとするいろんな知識に精通する必要がありました。もちろん、出身大学も厳しく吟味されて、一流大学の人しか入社できなくなっていました。
そこで皆さんの学歴や知識と比べてみて、一流大学を出て特別な勉強をした新聞の記者と比べて、自分の方が常により公明正大で偏りのない判断が下せる、と本気で思っているのなら、それはその人に「謙虚さ」が欠けていると言えるでしょう。
そして、その新聞に書いてある事柄が自分の考えと合わない場合に、
「こういう意見もあるのか」
と思って見過ごせないということは、その人には「寛容さ」も欠けていると思います。
つまり「新聞が偏っている」だの「マスコミが偏向している」だのという人には、
「慎重さ」「謙虚さ」「寛容さ」
が欠けていると言えます。
そしてなぜこれらの要素が欠けてしまうのかと言えば、それは全てインターネットの影響です。
インターネットの世界では、ディスプレイの前に座る自分が全て王様で、自分の気に入る意見だけを取りいれ、自分の好きな人とだけ仲良くして、自分と考えの違う人を近づけません。
こんなことを続けていると、インターネットの前にいるときの自分は自我というものがビロビロに肥大してしまいます。
自我が肥大するとどうなるかと言えば、「慎重さ」「謙虚さ」「寛容さ」を失うということです。
そして世の中のことを、そういう自我がビロビロに肥大した目で見ることになりますし、その自我がビロビロに拡大した目で見た、自分の気に入るニュースだけを取り入れて、自分の偏見をより強いものにしていきます。インターネットは偏見の増幅装置の一種なんです。
最近の政治的な問題にせよ、この「自我がビロビロに肥大した人」が、同じく「自我がビロビロに肥大した政治家」を選ぶことに問題の根本があるんじゃないかと思いますね。
そうならないためにも、新聞を読むということは大変重要なことなのではないかと思います。