仏説という虚構 | 《太陽水素文明への道》

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このブログは、マスターのミクロ/マクロ問題に関する私見を述べたものです。

過激な標題で申し訳ない(笑)。でも、本当にそうなのだ。真の仏説と言うべきものは、実はよく判らなくなっているのである。

仏典はしばしば「如是我聞」で始まり、すべて仏説とのタテマエを取っている。しかし、それは釈尊の死後、その教説をまとめるため摩訶迦葉(マハーカッサパ)や阿難陀(アナンダ)を始めとする弟子たちによって行われた第一回仏典結集に始まる仏教文学の伝統であるというだけで、必ずしも仏説の証拠にはならない。それどころか、今では、仏典とされるテキストのほとんどが後世の作で、釈尊の教説に仮託して著者の思想を語っているに過ぎないことが判っている。広く知られた法華経や般若心経でさえそうなのだ。

もちろん、だからみな偽経で無価値だとまでは言えない。後世の作であろうと、釈尊の思想を正確に理解し、きちんと敷衍して精密化し、さらには美しく歌い上げたものもある。しかし、飽くまで後世の作であることに注意しておかないと、とんでもないことになる。仏教における女性蔑視が釈尊そのひとの思想とは限らないのも、だからである。

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現在、あらゆる仏典の中で、釈尊の肉声にもっとも近いとされるのが『阿含経』(あごんきょう、あごんぎょう、梵・巴: agama)である。agama とは「伝承された教説、その集成」という意味である。

漢訳『阿含経』は長・中・雑・増一の四阿含(しあごん)で、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。「アーガマ」は、パーリ語仏典の経蔵(五部)を指す。両者はともに原始経典から派生したと考えられ、一定の対応関係がある。

①長部 (diigha-nikaaya) : 『長阿含経』(じょう-) - 長編の経典集。
②中部 (majjhima-nikaaya) : 『中阿含経』 - 中編の経典集。
③相応部 (saMyutta-nikaaya) : 『雑阿含経』(ぞう-)- 短編の経典集。
④増支部 (anGuttara-nikaaya) : 『増一阿含経』(ぞういつ-)- 法数ごとに集められた短篇の経典集。
⑤小部 (khuddaka-nikaaya) - 『法句経』(ほっくきょう)や『本生経』(ほんじょうきょう)など。漢訳では相当文が散在するが、主に大蔵経の本縁部に相当する。

初期仏教の経蔵はそれぞれ「阿含」(agama)又は「部」(nikaaya)の名で呼ばれた。現存するのは、スリランカ、ミャンマー(旧ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられているパーリ語聖典(南伝)と、それに相応する漢訳経典(北伝)などである。

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古来、日本では北伝漢訳阿含経が用いられてきたが、内容が卑俗だとしてあまり重要視されて来なかった。天台智ギの「五時経判」では、釈尊が最初に説法したのは『華厳経』であったが、それでは大衆が理解できなかったので『阿含経』の形で平明に説いた、とするぐらいである。実際は違います(笑)。

しかし、19世紀以降のヨーロッパ勢力、特に英仏のアジア進出=植民地展開に伴い、パーリ語南伝テキストがヨーロッパの研究者によって注目され、世界中に広がった。内容が科学的で合理的であったために、ヨーロッパ哲学へ与えた影響は、サンスクリット語で書かれた神話的な大乗経典より大きい。

日本でも近年になって注目され、漢文の素養に長けた日本の研究者がそのアドバンテージを生かして漢訳仏典との詳しい比較研究を進めている。彼らが総力を挙げてパーリ語仏典を日本語訳した『南伝大蔵経』(パーリ語大蔵経)は、欧州の研究を規模において凌ぐ。

阿含経とパーリ語仏典は最古の経典と考えられるが、いずれもさらに新古の層があることが判っている。このため、疑いなく釈迦の直説と認められるものを求めることは不可能に近い。しかし、もしもテキストの中にそれが含まれるとすれば、阿含と律だけにである。

だから釈迦の言葉と呼ばれているものは、阿含経に納められているものが多い。「毒矢の喩え」や「自灯明・法灯明」などがそうである。また、釈迦の最期を記した『大般涅槃経』はニカーヤの長部経典の一部である。

重要なことだが、漢訳『阿含経』はパーリ語仏典からの直接の翻訳とは考えられない。他の俗語やサンスクリット語で伝えられ、漢訳されたと考えられている。しかし、原典は発見されていない。

だから学者はパーリ語仏典を《原典》に近いものと見なして研究するが、「ニカーヤ」は、その名の通り部派仏教の各部派にそれぞれ独自に伝えられており、少なからず異同がある。逆に、その異同によってテキストを伝承した部派を特定することも可能だという。

比較研究によれば、漢訳は一般に意訳が多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合もある。このため、最近ではパーリ語文献に基づいて初期仏教を探る傾向が強い。しかし、パーリ語仏典が上座部異端派であった分別説部の伝えたものであることは、十分注意しておく必要がある。

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釈尊の死後100年を経たころ、第二回仏典結集の後、それまで1つであった仏教サンガは、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した(根本分裂)。原因については南・北両伝で大きな相違がある。

南伝の『島史』(ディーパワンサ、diipavaMsa)、『大史』(マハーワンサ、mahaavaMsa)によると、ヴァイシャリーのヴァッジ族の比丘が唱えた十事(戒律緩和に関する十の提案)が分裂の原因である。以前述べたことがあるが、社会慣習の変化により、戒律が現実に合わなくなっていたのである。特に、托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、これを認めるかどうかが大きな問題となった。認める現実派は多数であったので「大衆部」と呼ばれ、認めないグループは少数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられた。上座部ではこの十事を非法と定めた(十事非法)。説一切有部の記録によれば「問題になったが収まった」とされ、分裂の原因とされていないが、スリランカの大寺派の記録によると、分裂の原因だったという。

一方、北伝『異部宗輪論』では、大天(だいてん)の唱えた五事が原因であったという。五事とは、修行者の達する究極の境地である阿羅漢(アルハット arhat)の内容を低く見る5つの見解のことである。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。これを大天五事(だいてんのごじ)という。

仏教学者の中村元は、南方所伝の十事説が正しいが、十事によってすぐ分裂が起こったのではなく、次第に上座部と大衆部が対立するようになり、最終的に分裂したとする。また、北方所伝の五事説は、後に大衆部から分裂した制多山部の祖である同名の「大天」の言行が拡大投影されたものであろうという。従う。

根本分裂についてはさらに異論がある。大衆部によれば、根本分裂によって上座部、大衆部、分別説部の三部派に分かれたのである。

説一切有部の『阿毘達磨大毘婆沙論』は、分別説部が「異議を唱え、有害な教義を支持し、真のダルマを攻撃する」異端者とする。しかし、もちろん、分別説部は自身を正統派の上座部だとみなしている(笑)。分析的思考をすることに特徴があったが、釈尊の思想は総合に真骨頂があるので、その意味では確かに異端だろう。しかし、分析のない総合があるとするのは無意味だというのが分別説部の反論であろう。

紀元前246年、アショーカ大王の息子と信じられているマヒンダによって分別説部がスリランカに伝えられた(南伝仏教)。スリランカは、紀元前5世紀頃にウィジャヤ王と側近たちが北東インドからセイロン島に渡って始まったとされる。彼らの子孫がサンスクリット系言語を話すシンハラ人である。

南伝仏教は《南海の道》を経て東南アジアに展開した。その後、100年頃に、北伝所説では20の部派が成立する(枝末分裂)。それに対する批判としてやがて現われるのが大乗仏教である。

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既に述べたように、釈尊入滅後、バラモン教的女性観が仏教に浸透し、それがエスカレートして、女性不成仏思想が広まった。

どうやら仏教では「先達絶対」で、過去の経典や先輩・師匠の言説を批判してはならないという制約があり、一旦誰かがそう言い出してしまうと後世の人は訂正できないらしい。そこで、大乗仏教では、女性蔑視を否定しようとして奇妙な説を唱えた。それが変成男子(へんじょうなんし)の思想である。転女成仏(てんにょじょうぶつ)・女人変成(にょにんへんじょう)ともいい、「変成男子」と「転女成仏」は対句として用いられる。女子は成仏することか非常に難しいので、一旦男子に生まれ変わることで成仏できるようになるとした。

はっきり言うが、極めてゆがんだ思想である。こんな馬鹿げた話を信じてはいけない。仏教はこういう愚劣な虚構を積み上げることによって、奇怪な複雑さを呈した。それは精緻化でなく、単なる腐敗堕落である。現在の《仏教》は釈尊の思想に後代の愚者の宗教妄想と屁理屈の垢がべっとりついている。一旦すべて削ぎ落とさないと、実用品にならない。

腐敗の元凶たる「先達絶対」も根本的に改めるべきだ。禅宗が喝破するように、批判すべきものは大いに批判せよ。釈尊といえどもブッダの一人でしかないし、すべてのブッダの悟りがみな同じ形でなくとも一向に構わない。独覚大いに結構。釈尊の《悟り》だけが唯一無二、無上正等正覚だなどというのは贔屓の引き倒しで、彼にとっても大迷惑であろう。

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しかし、こんな馬鹿な説でも女性差別の緩和にとって画期的なものであったことは、素直に認めなければならない。変成男子説の由来は法華経提婆達多品で8歳の竜女が成仏する場面である。日蓮は「法華経より外の一切経を見候には、女人とはなりたくも候はず」と嘆いている。そのくらい仏教における女性蔑視はひどかったのだ。

その原因は、1つには《血の穢れ》である。具体的には出産・生理に伴う流血が穢れと結びつき、『増一阿含経』の「汚らわしく臭い」などという罵言になったのであろう。なんてこと言うんだよ、馬鹿じゃないのと言いたくなるのはわたしだけではあるまい。

日本仏教の歴史を見た場合、やはり血の穢れが最大の問題だったようで、既に神道でも女人禁制を見ていた。その結果、神仏習合の過程で、女人五障説・女人垢穢説・転女成仏説が受容されていったと考えられている。9世紀後半の880年(元慶4)に、称徳天皇ゆかりの西隆尼寺が西大寺の支配下に入った際、尼たちが仏事に関わることが禁じられ、西大寺の男僧の洗濯を行うように命じられているのは、その象徴的な事件である(『日本三代実録』元慶4年5月19日条)。

もちろん、こうした流れに批判的な人も多く、最澄は『法華秀句』において女性が成仏できないとする考えを否認した。鎌倉時代には法然・親鸞・道元・日蓮・叡尊らがそれぞれの立場で批判している。一方、「女人の罪業」を男より重いとする説は絶えなかった。女性の罪業の深さを説く《血盆経和讃》信仰が民衆の間で高まったのは江戸時代のことで、その冒頭は次のようなものである。

 帰命頂礼血ぼん経 女人の悪業深きゆへ
 御説玉ひし慈悲の海 渡る苦界の有様は
 月に七日の月水と 産する時の大あく血
 神や仏を汚すゆへ 自づと罸を受くるなり

──ひどいもんだ(苦笑)。母性に対する侮辱、これに勝るはなし。

江戸時代に普及した、儒教の名を借りた神学である朱子学が男尊女卑に拍車をかけた。さらに、明治維新後、朱子学的家父長制が旧武士階層のみならず一般の農商家にも拡大され、それに伴って男尊女卑思想が拡散した。明治維新は「日本人総武士化」の面を持っていたのである。

すると変成男子説は「女人は成仏できない」という女性蔑視の正当性を証明する根拠として、法華系諸宗派を初めとする日本仏教全体で扱われるようになった。日蓮正宗のように、尼僧を廃止した例もある。

1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦後、男女平等を謳う日本国憲法が発布され、進駐軍の意向で朱子学的な男尊女卑の考えが否定されると、変成男子説は「男子に成ることで成仏できるのではなく、成仏したことを男子の姿で表わした」というふうに解釈が変更された。御都合主義これに勝るは無しと言えば、怒られるかな(笑)。