ブッダは女嫌いか | 《太陽水素文明への道》

《太陽水素文明への道》

このブログは、マスターのミクロ/マクロ問題に関する私見を述べたものです。

かの釈尊はいささか女嫌いであったと伝えられる。少なくとも仏典にはそうした記述が散見される。

『増一阿含経』「馬王品第四十五」には女性蔑視の説がある。それによれば、釈尊は「女には九つの悪い属性がある」とし、①汚らわしく臭く、②悪口をたたき、③浮気で、④嫉妬深く、⑤欲深く、⑥遊び好きで、⑦怒りっぽく、⑧おしゃべりで、⑨軽口だと言ったということである(夫為女人有九悪法。云何為九。一者女人臭穢不浄。二者女人悪口。三者女人無反復。四者女人嫉妬。五者女人慳嫉。六者女人多喜遊行。七者女人多瞋恚。八者女人多妄語。九者女人所言軽挙)。うわーフェミニスト憤激(苦笑)。

もちろん、たとえ釈尊の言葉と言えども、反論は容易である。こうした問題点が特に女性において目立つことは事実かも知れないが、すべての女性がそうかというと、やはり違うだろう。そもそも、男だってそんなヤツはいくらでもいる。たとえ《仏説》であろうと、ちょっと言い過ぎですぜ(笑)。

しかし、『増一阿含経』五十一巻は、パーリ語『増支部』と対応しない部分が多く、また、仏像作成物語など、明らかに後代に成立した逸話を多く含む。したがって、そのまま受け取るのは危険である。そもそも、一貫してあらゆる差別を嫌い、自ら被差別民チャンダーラと同じ繿縷の袈裟を纏って托鉢して歩いた釈尊ほどの人物が、こんな粗雑なワルグチを言うとは考えにくい。後世の加筆であろう。

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釈尊は身分差別だけでなく、それと不可分の職業的差別も嫌った。男女も差別しなかった。それがもっとも典型的に現われているのが、娼婦アームラパーリーの供養を受けた有名な逸話である。

彼女は富裕な娼婦であった。大変な美女で、一夜宴会に侍るだけで莫大な報酬が支払われたらしい。現代的に言えば、芸能コンパニオン兼高級娼婦、というところであろう。

アームラパーリーは、釈尊の説法を聞き、あまりの喜びにその翌日、釈尊と弟子たちを自宅に招いて食事の供養をさせていただきたいと申し出た。釈尊は黙諾をもって応えた。

同じ町に住む貴族たちが、次々に食事供養を申し出た。多くの人々は、娼婦の申し出など断って貴族の供養をお受けになった方がいいのにとか、何も娼婦の供養をお受けになることもないのにとか、口々に言った。ナザレのイエスが生きていたころの古代ユダヤと同じで、どんなに金持ちでも娼婦はやはり差別されていたのである。

しかし、釈尊は答えた。「私はアームラパーリーと約束した」と。

翌日、アームラパーリーの家に出向いた釈尊たちに、彼女は十分なもてなしを終え、自分の持っているマンゴー果樹園を寄附させていただきますと申し出た。この日からアームラパーリーは釈尊に帰依し、とうとう一人息子を釈尊のもとで出家させた。

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しかし、後世の上座部仏教において伝えられる《戒》の数が比丘(男性修行者)と比丘尼(女性修行者)ではまったく違うのも厳然たる事実である。仏教は男女出家者を厳重に区別し、女性に対して男性よりはるかに多くの《戒》を求めているのである。そして、それは、やはり釈尊そのひとの意図であったと思われる。

実際、長老上座に属する法蔵部に伝えられた「四分律」では250の比丘戒と348の比丘尼戒。化地部所伝の「五分律」では251の比丘戒と373の比丘尼戒。 上座部の中心部派である説一切有部所伝の「十誦律」では263の比丘戒、354の比丘尼戒。大衆部所伝の「摩訶僧祗律」では218の比丘戒、290の比丘尼戒。セイロン上座部所伝では227の比丘戒、311の比丘尼戒となる。

また、仏典によれば、釈尊は当初女性を弟子に取ることを忌避していた。以下は法蔵部の伝えである。

釈尊成道5年目、彼の父・浄飯王(スッドーダナ)の死去に伴い、釈迦族の女性たちは出家したいと望んだ。そこで、釈尊の叔母にして養母・摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい、梵:マハー・プラジャーパティー、巴:マハー・パジャーパティ)はその代表としてカピラ城郊外のニグローダ樹苑の仏所に赴き、釈尊に三度許しを乞うた。しかし許されず、大声で涙しながら城へ帰った。

その後、釈尊はカピラ城を離れて毘舎離(ヴァイシャリー)城郊外の大林精舎(重閣講堂)へ赴いた。摩訶波闍波提らは出家を諦めきれず、ついに500人の女性たちとともに剃髪して黄衣を着し、仏の後を追って精舎の門前まで来たった。その姿は裸足にして足を腫らし、涙と塵や埃が混じって顔が汚れ、大声で泣いていたという。

これを阿難陀が見て驚き、その理由を聞くと、摩訶波闍波提らは私たち女性の出家を一緒に頼んでほしいと言った。阿難陀は釈尊に三度乞うも悉く断わられた。しかし「もしも女人が仏の教えに遵い修行すれば、男子と同じく証果を得ることができますでしょうか」と問うと、釈尊は「それは可能である」と答えたので、彼は意を強くして、釈尊の幼少時に摩訶波闍波提が養母として尽力した功労を述べて再び懇願すると、ついに釈尊は女人の出家を許した。ただし比丘(男性の出家者)が250の戒律であるに対し、比丘尼には348の戒律を守ること、八重法の条件を保つことを条件に。これが比丘尼(女性の出家者)の初とされる。

摩訶波闍波提は既に年老いていたが、修行に励み、阿羅漢果を得て多くの比丘尼衆から信頼された。釈尊の入滅の三ヶ月前にヴァイシャリーで入寂したという。その時の年齢は100歳、あるいは120歳であったとも言われる。

こういう話があるくらいなので、釈尊が(女性を蔑視していたかどうかは別として)女性の出家に対して警戒的であったことは事実だと思われる。

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「四分律」によれば、八重法(八敬法)とは次の八ヶ条である。

①出家後百年経ていようと、比丘には誰であれ礼拝しなければならない。

②比丘を罵ったり謗ったりしてはならない。

③比丘の罪・過失を見ても、それを指摘したり告発したりしてはならない。

④式叉摩那(しきしゃまな:尼僧見習い)として二年間過ごせば、具足戒を受けても良い。

⑤僧残罪を犯した場合、比丘・比丘尼の両僧伽で懺悔しなければならない。

⑥半月毎に比丘のもとにて、教誡を受けなければならない。

⑦比丘のいない場所で、安居(あんご)してはならない。安居とは雨期を意味する梵語のvarsa、パーリ語のvassaの漢訳で、個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること、及びその期間をいう。インドでは夏が雨季であり、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ。特に夏安居(げあんご)、雨安居ともいう。

⑧安居が終われば、比丘のもとで自恣(じし)を行わなければならない。自恣とは夏安居の終わり(旧暦7月15日)に集会した僧が、互いに期間中の罪過を指摘または懺悔して、善に進む行事である。

僧残は比丘の守るべき具足戒の一部で、波羅夷に次ぐ。次の13項目がある(十三僧残)。違反すると一定期間、僧としての資格を奪われる。許されるためには20人以上の僧の前で罪を告白し、懺悔しなくてはならない。その内容は「べからず集」だが、大変あからさまなので、気合を入れて読んでください(笑)。

①故出精 - 手淫をする。
②触女人 - 女性に肉体的に接触する。
③麁悪語 - 女性に淫らな言葉を使う。
④歎身索供養 - 女性を誘惑する。
⑤媒嫁 - 男女関係を仲介する。
⑥無主房 - 広い家に住む。
⑦有主房 - 必要も無く転居する。
⑧無根謗 - 根拠も無く悪口を言う。
⑨仮根謗 - 問題をすり替えて悪口を言う。
⑩破僧遺諌 - 破戒の指摘に対抗する。ただし、三度までは許される。
⑪助破僧遺諌 - 破戒したことを誡めるのに対して他の者の邪魔をする。
⑫汚家擯謗違諌 - 比丘が集落で暴行したのをいましめるのに対して、かえって誹謗する。
⑬悪性拒僧違諌戒 - 悪比丘の自尊自負をいましめるのを拒否する。

波羅夷とは、比丘が必ず守るべき戒の4つを指す。もし還俗しないでこの戒を破った際には、すべての仏教教団から追放され、仏教徒ではなくなる。また、後に罪を悔い改めたとしても、仏教徒に戻ることは許されるが、再び出家者となることはできない。出家者は指導者だからであろう。

①淫:異性又は同性と性交する。

②盜:与えられていない物を取る。

③殺:故意と過失とに関わらず、人を殺す。

④妄:正しい覚りを得てもいないのに、自ら驕ることで「自身が仏陀である」とか「究極の覚りを得た」とか言い、仏教教団や、人心を惑わすような行為に及ぶ。

比丘尼には比丘より厳しい八波羅夷法が適用される。さらにあからさまな話になるが、我慢して読んでください(笑)。

①淫:相手の同性・異性、天人・獣を問わず、口・性器・肛門を通じて性交する。

②盗:故意に5 Maasaka(五銭)以上を盗む。

③殺:他人・天人を自ら殺害、あるいは殺害教唆、自殺奨励して実行させる。

④妄:故意に禅定あるいは賢者・聖者の位を得たと虚言する。

⑤摩触:欲情の心をもって、(出家・在家問わず)男性に脇(あるいは首)から下、膝から上の体の部分を触らせる。

⑥八事成犯:欲情の心をもって、欲情の男性に手・衣を捉られ、人目につかぬ場所に入り、共に立ち、共に語らい、共に人目につかぬ場所に行き、共に寄り添い、共に人目につかぬ場所にて会うことを約束する。

⑦覆蔵他罪:他の比丘尼が波羅夷罪を犯したことを知りながら、あえて僧伽にこれを告発せず、隠匿する。

⑧随被挙人:僧伽から何事か罪を告発されていながらもこれを認めず、従っていない比丘に随っていることを、他の比丘尼から、その罪・過失を指摘されるも、これに従わないこと三度に至って、なお無視する。

以上から明らかであろう。釈尊はそもそも風紀に対して厳格であったが、さらに、男女が混住することにより、教団内の風紀が紊瀾することを恐れたのである。

男女が近くにいれば、どうしても恋愛感情が起こるし、それは容易に肉体関係に発展しうる。しかし、それは修行の妨げになること甚だしいし、必ず秩序を乱す。だから釈尊は当初自分の教団に女性出家者を入れることを拒んだし、許容しても、彼が阿羅漢として認めた比丘(=人格的完成者)を指導者とすることにより、秩序を維持しようとしたに違いない。

女性に対して厳しいのは、女性の性的魅力が強大だからである。女性の側から誘惑されたら、正直なところ、たとえ阿羅漢であろうとイチコロであろう。だから守るべき《戒》の数を増やさざるを得なかったのだ。

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もちろん、それだけではなかった。釈尊の死後、仏教サンガには戒律を介してバラモン教的女性観が侵入した。それは仏教教団の保守化、権威主義化によって促進された。阿含経典といえども、こうしたプロセスでテキストに固定されていったものであるから、注意して理解する必要がある。

上座部成立の過程で釈尊は著しく神格化され、その《悟り》は遠大かつ無上、人間の身では到達不能なものとされた。それと並行して、女性は①梵天王②帝釈③魔王④転輪聖王⑤仏身──の五つのものになれないとする「五障」説などの差別思想が仏教にも導入された。

その結果、「女人は地獄の使なり。能く仏種子を断ず」「一度女人を見る者は、よく眼の功徳を失ふ。設ひ大蛇をば見るとも、女人を見るべからず」「一切の江河、必ず回曲有り。一切の女人、必ず諂曲有り」「あらゆる三千界の男子の諸の煩悩を合わせ集めて、一人の女人の業障となす」などの女性蔑視の言葉が経典に登場するようになる。ひでえもんだ(苦笑)。

その意味で、釈尊は女性差別をしなかったが、彼の弟子たちが伝えた《仏教》は差別してきたと言わざるを得ない。懺悔すべき仏教の黒歴史だと言えよう。

しかし、男女を区別することには重大な必然性があった。それをすべて《差別》と言い張るならば、フェミニズムの主張を擁護することはできない。何であれ、修行過程では男女を別にすべきなのだ。