コールド・ターキーのカレンダーへの位置付けを再考する | ジョン・コルトレーン John Coltrane

コールド・ターキーのカレンダーへの位置付けを再考する



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コルトレーン、ヘロインを断つ 目次



「コルトレーン、ヘロインを断つ」早分かり ♪→ 「これまでのあらすじ」


コルトレーン、ヘロインを断つ: 補遺1


コルトレーン、ヘロインを断つ その4 「ヘロインの禁断症状」 という記事のおまけで、1957年春の具体的にいつ頃、コルトレーンがコールド・ターキー(*)によってヘロインを断ったかを推測しましたが、"The John Coltrane Reference" というミュージカル・クロノロジー+ディスコグラフィーの決定版で明らかになった新事実によって再考する必要が出てきました。

(*)代用薬なしに、また漸減投薬せず、一挙にヘロインを断つこと。ただし、禁断症状(退薬症状)の極期を含む最初の数日間、コルトレーンはアルコールを飲み続けていました。


これは「考証」ではなく、ちょっとおかしんちゃうか~いうファンの「穿鑿」なので、まっとうなコルトレーン・ファンの方や、一般のジャズ・ファンの方々にはつきあいきれない代物なのかな~と一応自覚してはいるのですが、この「穿鑿」を正当化するこじつけがないではありません。

仮に、7日から10日間かかると言われるコールド・ターキーを1957年5月のカレンダー上に確定できるとすると、ヘロインを断つ前と断った後のコルトレーンの演奏の違いを比較することによって、ヘロインの効果と、そしてまたヘロインを断ったことの効果の有無を確認できるわけです。

わたくしの推測では57年5月の第2週から3週にかけてですから、それ以前の

トミー・フラナガン『ザ・キャッツ』(4月18日)
マル・ウォルドロン『マル2』(4月19日、含5月17日。ヘロインを断つ前後の演奏が両方聴けます)同上『ザ・ディーラーズ』(4月19日)

と、

以後の

マル・ウォルドロン『マル2』(5月17日、含4月19日)
『キャッティン・ウィズ・コルトレーン・アンド・クィニシェット』(5月17日)
ジョン・コルトレーン『コルトレーン』(5月31日)

これらを聴きっくらすると、ヘロイン使用や断薬よって直ちに演奏が良くも悪くもならない、ということを、つまり短期的なヘロインの神秘的な薬効みたいなものや、断薬による即座の効果は、演奏に関する限り客観的には存在しない(ひかえめに「コルトレーンの場合は」としときまひょか)ということが実感できるのです(*)。まあ、推測が正しければ、ですけど。(>_<)

(*)4月のセッションに比べると、5月の特にクィニシェットと演ったやつと、初リーダー・アルバム『コルトレーン』はずっと安定してるやんけ、という声が聞こえてきそうですが、その「安定」にはヘロインを断ったこととはそれぞれ別の理由があるとわたくしは考えております。でも今は内緒。リスニング・レポートの記事(ほんとに再開でけるやろか。いつになるやら。汗。)を書く時に、その理由を明らかにします。お楽しみに♪

そんなわけで、今回はちょっと気弱なコルトレーン・ファン、そういう立派な理由があるんや、と自分に言い聞かせつつ(涙)、穿鑿さして頂きたいと存じます。m(_ _)m


フィラデルフィアにおけるコルトレーンのコールド・ターキーが、5月の第2週から第3週にかけてのことだという推測は、マイルス・デイヴィス・クインテットが当初の予定通り4月5日から4月28日(*)までのカフェ・ボヘミア出演を終えた後、コルトレーンがフィリー・ジョー・ジョーンズと共にリーダーのマイルスによって馘にされた、という情報を元にカレンダーとにらめっこして導き出しました。

(*)『ダウン・ビート』及び新聞広告にこの予定が記載されていた。"The John Coltrane Reference" (p.132)参照。実際の確かな開始日と最終日は不明であるとされている。


しかし "The John Coltrane Reference" の著者達は、当時の『ダウン・ビート』及び『ニューヨーカー』の記載を元に、マイルス・デイヴィス・クインテットのカフェ・ボヘミア出演が、1週間あるいはそれ以下しか続かなかった可能性があることを明らかにしたのです(p.132-133)。

ステージでのコルトレーンとフィリー・ジョーの行状の悪さ、演奏コンディションの悪さをコントロールできず、マイルスが出演を放棄してしまったため、バンド・リーダー自身がクラブ・オーナーに解雇されてしまったらしい。

約3週間にわたる長期出演が1週間ももたず、中断と同時にコルトレーンが馘になったとすると、コルトレーンがニューヨークを出てフィラデルフィアに帰郷する時期がより早まっていた可能性があり、したがってコールド・ターキーが行われた期間も繰り上げなければならないのではないか、ということです。

と同時に、マイルス・デイヴィス・クインテットのカフェ・ボヘミア出演が早期に中断されたとすると、残されたエピソードやコルトレーンのレコーディングの軌跡がなんとはなしにつじつまが合ってくるということもあります。1957年4月のタイムラインを書き出してみましょう。


4月5日~28日頃
・マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとしてカフェ・ボヘミア出演。正確な開始日と最終日は実のところ不明。

4月6日
・ジョニー・グリフィン『ア・ブローイン・セッション』のレコーディングに参加。

4月9日
・ジョン・コルトレーン、プレスティッジと専属契約。

4月13日
カフェ・ボヘミアでのライヴが Bandstand, U.S.A. というラジオ番組で生中継され、プライベート・テープが残っている。この日あるいは数日のうちに恐らくは「マイルス、コルトレーンをパンチ! その1」 で触れた出来事が起こってマイルスは契約を放棄、カフェ・ボヘミアのオーナーに解雇され、バンドは解散。残る予定の一部はアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが穴埋め(4月21日、日曜まで)。

4月14日
・セロニアス・モンク、ソニー・ロリンズ『ソニー・ロリンズ Vol.2』のレコーディングに参加。

4月16日
・セロニアス・モンク、『セロニアス・ヒムセルフ』2回目のセッション。Monk's Mood のみコルトレーン(及びウィルバー・ウェア)参加。仮にマイルスがコルトレーンを殴るところをモンクが目撃した事件が4月13日以降だったとすると、入念なリハーサルは無理か。まあ、そういう感じの音ですかね。一応リハーサルはしたけれど、充分ではない、といった具合です。

4月18日
・トミー・フラナガン『ザ・キャッツ』のレコーディングに参加。

4月19日
・マル・ウォルドロン『マル2』、『ザ・ディーラーズ』のレコーディングに参加。

4月20日
・プレスティッジ・オール・スターズ『ダカール』のレコーディングに参加。

4月×日(?一応「春」とされている)
・ホレス・シルバー・クインテットの一員としてカフェ・ボヘミアに出演。病気のハンク・モブレーの代役。一週間のギグのうち、前半をクリフォード・ジョーダンが、後半をコルトレーンが務めた。

1957年


4月

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30



5月



1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31



4月13日、もしくは翌日14日、翌々日15日ぐらいに、マイルスがコルトレーンを殴っているのをモンクが目撃した、あるいはそれに類する事件が起こり、折りしもキャバレー・カード再交付のめどが付き、クラブ出演の再開を予定していたモンクが自身のグループにマイルス・バンドを馘になったコルトレーンを誘い、まずは4月16日のレコーディングに招いた(あるいはわざわざレコーディングの機会を作った)。

ソロ作品の統一性を損う異例・破格の抜擢と、思わず擁護・庇護してやりたくなるようなちょっとショッキングな事件というのは、食い合わせがいい感じなような気がするでしょ?


次に、4月18日、19日、20日、3日連続のやや異例なレコーディング。例えば、1956年10月26日、2度目のマラソン・セッションだってカフェ・ボヘミア出演中のことですから、不可能ということはないでしょうが、もしクラブ出演の拘束がなければ、より無理なくこなせたことでしょう。

トミー・フラナガンの『ザ・キャッツ』以外、特に『ダカール』なんかは急遽後からコルトレーンを付け足したようなパーソネルですよね。

それに、バンドを馘になって収入源が断たれたということと、この連日のレコーディングもまたなんとなく符合しているような気がします。仕事ないっすかね、ってボブ・ワインストックに、あるいは、仕事やらせておくれよ、ってマル・ウォルドロンに頼んだのかなあ。


そして最後に、ハンク・モブリー[ママ](笑)のトラ(*)です。正確な日付は不明ですが、1957年春頃、コルトレーンがホレス・シルバー・クインテットの一員としてカフェ・ボヘミアに出演したことが、ホレス・シルバーとアート・ファーマーの証言によって明らかになっています。病欠のハンク・モブリーの代役で、一週間のギグの前半をクリフォード・ジョーダンが、後半をコルトレーンが務めたといいます。

(*)エキストラ。代役。

他方で、『ニューヨーカー』には4月21日の日曜日まで、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのカフェ・ボヘミア出演の記載があるらしい。恐らく、マイルス・デイヴィス・クインテットの穴埋めでしょう。

とすると、ホレス・シルバー・クインテットは、ジャズ・メッセンジャーズの後を受け、22日からマイルス・デイヴィス・クインテットが本来なら務めるはずだった28日の最終日まで、穴埋めをしたということなのではないでしょうか。

"The John Coltrane Reference" にこのギグの新聞雑誌への記載の引証がないということは、急遽決まったために、告知が間に合わず、そのような資料が残されなかった、と説明できるように思います。

元々はコルトレーンのせいで空いた穴をホレス・シルバー・クインテットが埋め、さらにそのメンバーのハンク・モブリーの穴をコルトレーンが埋める。結局自分で自分のトラをしているようなものですね(笑)。まさに「トラ・トラ・トラ!」です。(-_-;) バンドを馘になって、お金が欲しかったということもあるでしょうが、生真面目なコルトレーン、何か責任感から「是非ともやらせてくさい!」と申し出たような気もしますが、どうなんでしょうか。


という訳で、マイルス・デイヴィス・クインテットのカフェ・ボヘミア出演はかなり早い段階で中断し、コルトレーンも早々に馘になったが、結局のところ、予定されていた最終日の28日まで、コルトレーンはニューヨークに留まっていた可能性があります。

したがって、コールド・ターキーの期間を繰り上げる必要はなく、5月の第2週から第3週にかけてという以前の推測通りでいいわけですね。な~んだ、答えは一緒じゃん。でも過程が全く違う。大きく動いた1957年4月、コルトレーンの辿った軌跡が新たな事実によってよりはっきりしたように思います。

しかしこの記事、たれが興味を持って読むんじゃろか。(>_<;)





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