発見・発明・創造的思考・問題解決:信仰と渇望のモニタリング〈3〉 | ジョン・コルトレーン John Coltrane

発見・発明・創造的思考・問題解決:信仰と渇望のモニタリング〈3〉


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コルトレーン、ヘロインを断つ 目次


コルトレーン、ヘロインを断つ その20


意志の行使を差し控えることの効用〈2〉


次は発見や発明の心理における無意志の効用についてみてみよう。「ジャイアントステップスの萌芽:コルトレーン、ヘロインを断つ その17」 で触れた、ドーパミンが関与する「アハ!体験」はその一段階であり、中核を成す現象だ。例として、最も目覚しいもののうちの一つは、数学者アンリ・ポアンカレによるフックス関数(それがなんであるかは考えないほうが身のためだ)の発見で、『科学と方法』(*)で詳細にレポート・考察されている。フックス関数(考えないほうがいいよ)の発見から証明に至るまでの過程で3度(**)、発見=啓示の瞬間がポアンカレに訪れた。そのどれにも共通する状況は、しかるべく思索を重ねたり、その結果行き詰まったりした後に、旅行に出たり徴兵に服したりして数学的な仕事から離れ、フックス関数(これを考えたら身の破滅じゃ!)のことなど全く考えていなかった時に突然優れた着想が湧き出た、ということで、つまり、発見の際には全く意志的・意識的な思索の努力がなされていないのだ。この経験からポアンカレは、数学上の発見に無意識的過程が確実に役割を果たしているという見解を抱くに至る。但し、それには意識的かつ徹底的な思索という先行する作業によって無意識が発動され、方向付けられる、という条件が必要であり、しかも、潜在的な自動作用によって思考された結果が、既得の数学的審美感のフィルターによって選別されなければならないのではないか、という仮説をポアンカレは呈し、そしてまた、無意識的な霊感によって得られた結果を検証し結論を出すのは当然、意識的・意志的な努力による他はない、とも付言している。


(*) 「第3章 数学上の発見」(岩波文庫p.50-69)
(**)実際には4度だが、そのうちの1つは意識的な思索の最中に訪れた。



精魂を傾けた思索が難局を迎え、そこからいったん離れて全く別のことをしている時にインスピレーションが突然訪れるという、発見に纏わる似たような経験は他にも数学・天文学・物理学者カール・フリードリヒ・ガウス(*)や生理学・物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(**)等の例があり、それらのエピソードを基に心理学者のグラハム・ワラス Graham Wallas は創造的過程の4段階説としてこれを定式化し(***)、認知心理学などでは創造的思考や問題解決の過程として一般化されている。


第1段階:準備期
――問題の設定。その解決のための情報収集、集中的思索。拡散的思考が主導。


第2段階:孵化期
――解決へ向けた思索が一時的に停滞するが、そこからいったん離れ、一見問題とは無関係なことをしながら、無意識的な過程に委ね、考えが熟して自ずと出てくるのを待つ。


第3段階:開明期・啓示
――強い確信を伴って、突然解決が閃く決定的瞬間(ドーパミンが出て気持ちいい)。「アハ!体験」。


第4段階:検証期
――閃いた考えを理論的に検証する、他者との共有の過程。収束的思考が主導。


数学に的を絞って発見の心理を考察した数学者ジャック・アダマールは、『数学における発明の心理』で、問題に取り組んで行き詰まったら、いったん放り出して何か別のことをする、というこの処し方を、研究活動を始めて間もない学生への有益な助言となるであろうと見なしている(****)。ひらめきをつかまえるためには、いったん意志の行使を差し控える必要があるわけだ。その理由には、習慣的思考(機能的固着)・抑圧・検閲等からの解放が関連していると言われている。


(*)ジャック・アダマール『数学における発明の心理』(みすず書房)p.25-26、からの孫引き。


(**)ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ『一科学者の回想』(郁文堂)p.44-50


(***)『認知心理学を語る3』北大路書房、三宮真智子「6 創造的思考」p.128-129/『創造性の概念と理論』 p.16-17、等からの孫引き。


(****)p.69



意志の行使を差し控え、意識的な思索から離れることが有効である理由には、上記のものにも関わりつつさらに、記憶のメカニズムが関与しているらしい。ここまで辿ってきたことから最早明白だが、創造的思考において閃きが得られる過程と、既に触れた、ど忘れした後に思い出す過程ってよく似ているでしょ。自分の意志によらない自動的な思考が意識的な努力に取って代わることで功を奏するケースとして、前出のアダマールはやはりど忘れのことを引合いに出しているし、数学・物理学者のロジャー・ペンローズも、数学的真理のプラトニックなイデア説というちょっと怪しげな観点も含むものの、ある人の名前が思い出せないことと、正しい数学的概念が見出せないこと、つまり想起と発見がよく似ていることを指摘している(**)。


(*)『数学における発明の真理』p.29


(**)『皇帝の新しい心』p.484



ペンローズの示唆を受けて、脳科学者の茂木健一郎は、最新の脳科学の知見によってその脳の機能における類似を裏付けている(*)。記憶=情報は最終的に脳の側頭葉に収納されるが、単純に定着されるだけでなく、蓄えられたそれぞれの情報はその結びつきや関係性が絶えず変化し、無意識的に編集されている。創造的思考でそれまでなかった新たな発見が生まれるのはそのためだ。そのことをポアンカレは既にエピクロスの鈎付き原子の比喩で仮説として語っていたが(**)、部分的には「大当たり~!」だったわけだ。ポアンカレの直観恐るべし、だな。孵化期の無意識的な選択的忘却というのも、恐らくポアンカレが言った審美的フィルターに比すべき類のものの働きによるに違いない。


(*)茂木健一郎『ひらめき脳』「Ⅲ ひらめきの正体」「Ⅵ 記憶の不思議」参照。


(**)ポアンカレ『科学と方法』p.66-67



想起と発見の類似はそのような無意識的に記憶を編集する側頭葉と、それを引き出したり気づいたりする意識的な前頭葉との間の関係だが、ど忘れってのも、側頭葉の編集作業の結果、記憶のインデックスが変更を蒙ったことと関係があるのかもしれない。閃きを得るために意志を解除する必要があるのは、脳ってのは意識が手前の目的のためにコントロールしようとしても、その働きの多くが意識の裁量からは離れたところで、無意識的に勝手に為されているから、つまり脳ってのはほとんど強制できない器官だからで、逆に、抑制を解いて、脳にほしいままに無意識的な活動をさせるのが重要なためだという(*)。やっぱど忘れとおなしで、ある段階からは意志の力でいきんだ意識的な思索が無意識的な編集作業を阻んだり、出来上がった編集結果に気付きにくくするということなんだろう。


(*)同上p.190



だから、当面の課題から一時離れ、例えば愛する者と一緒にいて別のことを考えると、最も良い考えが浮かぶ。その課題に必要な絶妙の着想が得られる(*)。


(*)ロラン・バルト『テクストの快楽』みすず書房、p.46



夢を契機に発明や発見、或は芸術的な創造がなされるといった事例も、恐らく意志の解除、脱抑制による無意識的過程の活性化で説明できるのだろう。化学者のケクレ・フォン・シュトラドニッツは夢で六匹の蛇が自分の尻尾を噛んで輪状になっているのを見てベンゼン環の化学構造式を思いついたし、ミシンの発明者シンガーは、夢で見た南洋の原住民たちが構える穂先に穴があいた槍から、針先に穴をあけるという仕組みを発明した。またバロックの作曲家・ヴァイオリニスト、ジュゼッペ・タルティーニは、夢で悪魔に魂を売ってそれと引き換えにヴァイオリンを演奏させ、目覚めてからそれを書き留めた。それもこれも睡眠中の夢見の状態で意識的・日常的な思考パターンの抑制が解かれ、それまで考え詰めていた事柄が思いもよらない結びつきをもたらした結果ってわけだ(*)。


(*)『驚異の小宇宙・人体Ⅱ/「脳と心」第六巻:果てしなき脳宇宙「無意識と創造性」』p.128-129.



脱抑制が効を奏すると、天才的な芸術家なんかの場合、アイディアが次から次へと湧いて来てもうとめどがなくなる。ドーパミンの役割は閃きの際に報酬として快楽をもたらすだけではない(らしい)。前頭葉に投射する報酬系のA10ドーパミン神経は、他の神経細胞から前頭葉に入力される情報量を調節しており、ドーパミンが多く放出されると、前頭葉の神経細胞への入力が増大し前頭葉は活性化される(んだってさ)。また前頭葉へ投射するドーパミン神経にはオート・レセプターというドーパミンが多量に放出された場合にそれを感知して抑制する受容体がない。それゆえドーパミンがある限度を超えて放出されると、即座に抑制が効かないので、ある程度の間、ドーパミンは放出され続け、前頭葉の活動はいや増しに高まり、日常的なレベルでは入力が阻まれるような深部に潜む情報、或は常識的には是認されないような情報が流入し、かくして大傑作が生まれたりすることも起こる(*)。逆に言うと芸術における大傑作、あるいはビジネスにおける優れた仕事の創造・産出は、いかに、かつどれだけ自分の無意識を動員できるか、ということにかかっている。しかしその前提にはインスピレーションの枯渇に呻吟する苦闘、停滞不毛の期間の努力があり、その上、その意識的・意志的努力は、しかるべき時を経た後には無意識的な過程の働きを妨げたり、潜在意識で熟成された成果に意識が気付くのを阻んだりするので、時には愛する者と一緒にいて、全く別の例えば不埒でけしからぬことなんぞを考えたりということもしなければならない。しかしそれは偉い芸術家やエリート・ビジネスマンに限った精神的事象で、おれのようなふつーの人には縁遠い話だな。


(*)同上、p.22-23.


というわけで、おれみたいな凡人レベルの場合に戻って言えば、いわばど忘れの場合だと未だ思い出せない自分、或は学習(一般人向けの小さな発見のケース)の場合だと未だ知らない自分が、既に思い出している自分、或は既に知っている自分への移行を阻んでしまうというわけだ。そう考えると、ある目的を達成する際に必要となる意志解除の効用も、何となく体験的に知っていたような気がしてくる。何かこれまでできなかったことができるようになった時なんかに、味わったことがあるような気がする。例えばさんざん練習した挙句に漸く自転車に乗れるようになった時とか、スポーツであるテクニックを会得した時、また楽器をスムーズに弾きこなせることができるようになった時とか。恐らく小脳かなんかでは既にシナプスの繋がりが強化されてて、もう自転車に補助輪なしで乗れるようになっているのに、未だ乗れない自分の状態がいきんで邪魔をするんだ。ところが劇的な瞬間は突然訪れる。その瞬間てのは、恐らく乗れない自分の意志がふと解除された瞬間なのかもしれない。ちょっと大袈裟だが、自分が確実に変わる瞬間、全く別の人間に移行・変容する瞬間だ。人間が変容する瞬間は他にもあって、自分が恋していることに気付く瞬間もそうだし、宗教的な回心もそうだ。そしてそのメカニズムはどうやらど忘れや発見のそれと似ているようだし、ジョン・コルトレーンとも関係がなくはないので(但し今現在の話の流れとは無関係)、次に触れることにしよう(もちろん恋した瞬間のほうじゃなくて回心のほうだよ)。 (つづく)




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