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現在地の確認 広州です。グーグルマップ -+で縮小と拡大、矢印で地図を動かせます。深圳市の下側が香港です。



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---- 大家~、開始了!------


1986.晩秋 12月初旬  広東省広州 → 深圳経由香港へ


いよいよ中国を離れるため朝一で広州駅へ移動、奮発したタクシーが駅に着き止まるやいなや、わらわらと辺りにいる人たちが寄ってきます、降りようとすると外からドアを開けようとする誰かの手に、ふと目が釘付けに....それは... 


指のない手 で 誰かがドアを開けてくれよう としています、中国のタクシーは自動ドアでなく、客が自分でドアの開閉してたのです。あまりのことにただそこにじっと固まってると、ドライバーが何かを大声で言ったので、その手のない人は去って行きました。

物乞いです。ちなみに中国語では花子/化子(hua1 zi)、乞丐(qi gai)とも言いますね、広州駅前にはすごく多かったです、それまで上海でも北京でもほとんど見かけなかったです、広州は一番繁栄していましたが、その豊かさに引きつけられて多くの貧しい人々が集まりやすかったのかもしれませんね。

その物乞いはハンセン氏病なんだろうか、手の指5本が、それも両手とも、ピカピカと蝋のように皮膚が光り、まるで溶けたようでした。アレはすさまじかったです。その後も各国で色々身体に傷害がある人を多く見かけましたが、最初の目撃談なので記憶が鮮烈なのです。

幸いつきまとわれることもなく、「えらいもん見た~」と青ざめながらも、わたしは駅構内に入り、切符を購入し、深圳行きの火車に無事乗車しました。中国には又来たいし、友人 家族に見せたり、お土産にしようと思い、兌換券は再両替せずに持ったままの出国です。

火車は広州を離れ、無事に午後には到着。列車を降り出境手続きを終え、徒歩で国境超えです。そこは山の中のように木が生えていて、高いところに細く長い通路がこしらえてあり、その通路は柵で囲われており、まるで犬のケージに入ってるようでした、下を見ると川や谷が見え、うーんワイルド、その厳重さにさすが国境は違う!と、妙なところで感心。

当時はまだ香港返還のへの字も出ていない頃で、中国人が中国大陸から深圳へも許可がないと自由には行けない時代でした。そろそろ開発が始まっていた頃、深圳はずいぶんな田舎だったのです。通路を延々と通り抜け、香港側の入国手続きを済ませると、標識などがやたらキレイで、英語と広東語の表記などがあり、やっぱり中国じゃない外国なんですよね。

香港へはそこから列車が出ており、中心部の九龍半島まで一本で行けるのです、駅名は羅湖でした。途中から地下鉄になるんです。目的地は佐敦(ジョーダン)駅の安宿、上海ストリートのその名もラッキーゲストハウス。地球の歩き方にも掲載されていたし、それまで出会った人から情報を仕入れていたのでそこにしました。

もし満室でダメなら、映画「恋する惑星」でお馴染みの尖沙咀の重慶大厦(チョンキンマンション)に行こうと思ってました。デモそれはあくまでも第二候補、なぜなら重慶大厦は高層ビルで、安宿以外にも一般住居や商店レストランがひしめいており、EVが常に混んでいるのです。

また建物も複雑な構造で、EVによって各階に止まらないというややこしさで中で迷子になりやすい、そして何よりも恐ろしいのは、万が一火事になった場合、逃げられないということで、できるだけパスしたかったのです。

時刻はそろそろ夕方、暗くなる前に宿にチェックインしたい、切符を買おうと駅に近づくと...おお、自動券売機がある!文化の香りだ!と大感激したものの、よく考えると港幣(ガンピー:香港ドル)を持っていないので銀行を探したんです、しかしどこにも両替する場所がないんですよね、途方に暮れたわたしは、ここは本当に国境かっ!と怒りがムラムラ。

一人うろうろしてると、駅員サンらしき人が現れたので、窮状を訴えたら両替してあげるから米ドル持ってるか?と言うのですわ、この際背に腹は変えられない、レートがどうとか言ってられない、財布の中にキャッシュの10米ドルを数枚忍ばせていたのが役立ちました。

損を覚悟で10ドル渡すと、今日のレートはいくらいくらとササッと計算して、香港ドルをくれました。よかった、これでとりあえずは切符も買えるし、宿に行きさえすればなんとかなるだろう!と思い、列車に乗り込んだのです。いつもながら行き当たりばったりです(^▽^;)  つづく




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