山口瞳『新東京百景』(山口瞳氏と浅草ロック座) | 60歳を超えて

60歳を超えて

なんだかんだといっても人間60歳の還暦を迎えてしまい、今までの経験したことなど反省の意味を込めて残して行こうと思っています

かつて、国立のことを取り上げた時→最近思うこと・その1(国立)、山口瞳氏に触れたことがあったが、今回は氏の『新東京百景』を取り上げてみたい。
上の写真は単行本ですが、私は新潮文庫版を入手したのでそれから(下の写真)
  ※どちらもAmazonより

新潮文庫

新潮社より1988年2月出版

単行本

文庫は1993年4月出版


文庫本のカバーの裏に紹介がある:昔日の面影を失いつつある東京の新スポットを絵筆片手に珍行脚―。あるときは服装チェックで入場拒否するヤングスポットに悲憤慷慨し、またあるときは勇んで乗り込んだ浅草のストリップ劇場で昏倒したり。個性的な同行編集者に乗せられ、いざ出発したはいいけれど、古き良き街並みが破壊され変貌を続ける新東京に、思わず怒りがふつふつ煮えたぎる。怒りと憂いと爆笑の漫遊記。

山口瞳氏は1926年(大正15年)11月3日~1985年(平成7年)8月30日(肺癌で急死・68歳)
 直木賞(『江分利満氏の優雅な生活』で) ※受賞履歴などは→直木賞受賞作家の群像に詳しい
 菊池寛賞(『血族』で)、
 「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ
 1958年から1963年までは開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。
 ※なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。(おなじみの「アンクルトリス」→「SUNTORY」の公式Blog参照)

なにしろ経歴などは膨大なのでWikipediaを参照下さい。

氏は「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社当時、息子の山口正介が東京郊外の国立市の中学校(桐朋中学・高校)に通っていたことから、国立に居を移し、気に入って終生の棲家とした。その家を永井荷風氏から「変奇館」と称した(永井荷風氏の家は「偏奇館」、麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した。山口氏は麻布出身)。国立の行きつけの店などは「くにたちインデックス」にある。

『男性自身』でも度々地元・国立のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。なお、谷保天満宮では、ある朝突然たずねてきた伊丹十三と宮本信子に依頼されて、山口が立会人をつとめて、その日のうちに彼等の結婚式が行われた。気さくな人柄で谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品である。
※谷保天満宮についても先の記事で触れています。→最近思うこと・その1(国立)


さて、新潮文庫の解説から(『東京人』編集人の粕谷一希氏)
書き出しに"文士は健在である。"と始めている。粕谷氏によると「文士」とは"・・・自らの感受性を研ぎ澄まし、その感受性と表現に自らの存在を賭ける人"で"文筆で生活を立てている人といった意味合いを含めてもよい"と定義付けられている。なるほど山口瞳氏は「文士」である。粕谷氏の言われるように"時代や社会の感受性の代弁者"で、1986年から87年(昭和61年から62年=バブルの時代)の東京、変わりつつある東京をスケッチ・ブックに描きつつ歩いた記録である。

このエッセイは1景から19景まで、それぞれの地点でホテルの泊まりつつスケッチしていくという構成である。私が興味を持ったのは、第3景の「浅草ビューホテルからの眺め」、第9景「深川ロフト、浅草ROX」の2景である。
私は今まで浅草の戦後史で戦後直後の昭和20年代から永井荷風氏、坂口安吾氏、高見順氏、獅子文六氏、小沢昭一氏、「の・ようなもの」、「異人たちとの夏」など取り上げてきたが、山口瞳氏も加えよう。氏は浅草ロック座に乗り込んで、昏倒するという事態になったが、その時ロック座では雅麗華さんが出演していた時であった。(その下りは次回に譲ります)

「文士」山口瞳氏の視点は最初は古い東京を懐かしむというものではなく、変わった東京を自分の目で確かめようという好奇心から出発した。ところがだんだんと古い東京に回帰していく。それも好きな浅草、永井荷風氏のような・・・

今回は入り口で止めておきます。次回はロック座、雅麗華さんのお話へ続く