沖縄1968。 -2ページ目

東京 1968 その37

5時半をちょっとまわった頃にギルビーに行くと、もう既に控え室にはケニーの姿が。

隅っこの椅子に坐り一心不乱にスティックを振っている姿は「ザ・デイズ」の時のままだった。 


「おっ、早いねえ」 
「オッス、いや何か家にいても落ち着かなくってさ。コタニ楽器とかも見てきたんだ。バンマスとかはまだ来ねえんだろ?」 
「うん、いつもは時間ギリギリに来るんだけど今日はケニーが来るっていうんで早目に出てくんじゃないかな。ところで飯は?」 
「え、ああ昼飯食っただけだけど...」 
「だったらちょっと行かない?おごるよ、オムライスだけどさ」 

ギルビーの入っているビルの隣に小さなカレースタンド風の店があり、そこのオムライスは僕のちょっとしたお気に入りだったのさ。 
オムライスを頬張りながら二人はしばし沖縄以後の話に花を咲かせた。 
「しかし信也も変わり身が早いなあ。あの頃はジャズやりたいなんて一言も言ってなかっただろう?」 
「うん。偶然だよ、偶然。たまたまピットインでかかったレコード聴いたらさ、何かやれそうっていうか、やってみたくなっちゃったんだよ。ゲーリー・バートンのダスターってレコードなんだけどさ、ギターがもろロックなのよ。ベースもウッドなんだけど何ていうかとっつきやすいっていうかさ、ハルと二人でビックリだよ。思わず顔見合わせちゃってさ。瞬間、やろうって思ったんだよ。これがジャズなら俺達にも出来るって、そう直感したんだよ」 
「それでウッド買ったのか?」 
「ああ、すぐにね。善は急げってなもんさ。どこで買えば良いのかもわかんなくってさ、結局『緑屋』で買っちゃった」 
「それで、すぐに仕事したんだろ?」 
「ああ、コージから電話あってさ、それでね。家で一人で練習してるよりも全然良いだろうって思ってさ。結構なギャラも出たしな。練習しながら金もらえるなんて、こんな良い話ねえだろさ」 
「コージはどうだったんだい、相変わらずか?」 
「そうだなあ、あいつもそれなりに上手いんだけどさあ...でもね、一生これで食っていこうっていう気はないんだよね。深刻じゃねえんだよな、俺達と違ってぼんぼんだしな」 
「信也が抜けて結局解散ってことかい?」 
「そうだよ。誰かベース入れて続けりゃ良いのにな。条件もすごく良かったし、社長も物すごい良い人でさ、何か勿体ないよ。コージも社長にすごい気に入られてたんだけどな...」 

控え室に戻ると、既に三人が揃っていた。 
「あ、内山さん、彼がドラムのケニーです」 
「ドラムのケニーです。よろしくお願いします」 
内山さんは満面笑みってな感じで 
「はい内山です、ご苦労様。急な話で悪かったねぇ。信也君の仲間っていうことで、すぐに決めちゃっても良かったんですけどね、いちおう一度顔合わせってことでね、ホホホ。こちらがピアノの石橋さん。そしてドラムの東君ね」 
東さんの顔を見たケニーは一瞬呼吸がとまった。 
「よろしく、東です。あのね大丈夫、日本人ですから。外人じゃないから...僕も来月の頭っからっていう仕事が急に入ってきちゃったんでね。何かドタバタしちゃって申し訳ないんだけど、そういうことなんで」 
その仕事の話は僕も初耳だったので 
「え、どんな仕事なんすか?」 
「うん、バンドっていうよりもね、安藤哲子ダンススタジオっていうところでレコードに合わせてドラムを叩くのさ。リズムを強調するっていうことでね。結構面白そうなんだよ」 
「へえ、ダンスの伴奏ってことですか?」 
「ま、そんなとこかな。安藤哲子さんってのは昔から知り合いなんだけど、結構すごいダンサーなんだよ。モダン・ダンスっていうのかなあ。ダンモ(モダンジャズ)をバックに踊るんだよね。日本じゃあれだけの人はなかなかいねえと思うよ」 
「はあ...」 

その夜のファースト・ステージは、ケニーのテストということもあり4ビート、2ビート、ラテン、スロー、それに8ビートと、バラエティ豊かな選曲で進行していった。 
良いところを見せようと張り切ってるケニーに 
「もっと押さえて。もっとバックに徹して」 
なんて耳元で怒鳴りながら、やれやれ僕も友人の為にゃ必死ってなもんさ。 

 

 

東京 1968 その36

翌日、内山さんより電話が 
「いやあ、実は東君のことなんだけどさ、今月いっぱいであがらせてくれって言われちゃってね。ちょっと日にちに余裕がなくって僕も困っちゃってるんだけど、菊地君、誰か若いタイコ(ドラム)知らないかなあ。以前に一緒にやってた人なんかどうだろ?ロックバンドやってたんでしょう?僕としても若くってやる気のある人が良いんだけどねえ。すぐにジャズはできなくても良いからさ」 
「え、はい、前にやってた奴なら連絡はとれますが...」 
「あ、そう、じゃあ悪いけど連絡してみてくれないかなあ。できたら一度ギルビーに叩きに来てもらえると良いんだけど」 
「はい、わかりました。今からすぐに電話してみます。内山さんはご自宅ですか?」 
「いやいや、今日も朝からスタジオのはしご。今は青山のラジオセンターだよ。じゃね、30分ぐらいしたらもう一度電話入れるわ。よろしくね、ホホホ...そうだ、ネカ(ギャラ)はエフ万(4万円)ね。あんたも来月からエフ万ね。じゃ、お願いしま~す」 

そうさ、僕の頭の中にあったのはつい半年前まで「ザ・デイズ」で一緒にやっていたケニーのことだったのさ。 
そもそもジャズ志向だったケニーをストーンズ・バンドに誘ったのも僕だったわけで、おそらくデイズを解散してからもまだ音楽の仕事はしていないような気がしたんだ。 

さっそく電話をしてみると、うまい具合にケニーは在宅だった。 
「お~、信也かぁ。久しぶりだなあ、どうしてんだい?」 
僕は手短かに、解散の後ジャズに転向するべくウッドベースを購入した事、すぐにコージと一緒に五反田「いかるが」で仕事にありついた事、そこで石橋さんと出会い、誘われて今は内山さんのバンドで新宿で仕事をしている事を話して聞かせた。 
「すげえじゃんよ。何だよ、信也はとんとん拍子にいってんじゃん。俺なんか今だにブラブラしてるよ。ま、自分の家だしな、沖縄のギャラがまだ残ってるしよ。勿論、毎日練習はしてるよ。レコードもずい分買ったしな...」 
「あのね、実はさ、ウチのバンドでさ、急なんだけど来月からドラム探してんだよね。六本木の新しくオープンする店なんだけどさ。それでケニーどうかなって思ってさ。バンマスに聞いてみるように頼まれたんだよ。それで電話したわけさ」 

受話器の向こうでケニーがゴクッと生唾を飲む音が 
「え、俺が?だってジャズ・バンドだろ?俺でも良いの?」 
「勿論、一度新宿の店に来てもらってワンステージだけ叩いてもらうと思うよ。バンマスもそう言ってたしな」 
「大丈夫かな、俺で...それに譜面でやってんだろう?」 
「大丈夫だって。そんなにガンガンやってるわけじゃないしさ。シアリング・スタイルっていって、どっちかってぇとムード・ミュージックみたいな演奏が多いしさ。譜面っていったって、そんな難しいもんなんてないって。それにバンマスはね若くってエイトビート叩けるドラムが良いって言ってたしね」 

なかなかウンと言わないケニーを、おだてたり、なだめたり、やっとの思いで説得すると(最後に提示したギャラにだいぶ心が動かされた様子だった)、気の変わらないうちが良策とばかりに今夜6時前に店に来るように固く約束をして電話を切り、僕は今度は内山さんからの電話を待つ事にした。

 

 

東京 1968 その35

青山三丁目のヴァン・ジャケットで、ガンさんの言うがままに12月からのユニフォームを濃いグレーに細いピンクのストライプが入ったダブルの三つ揃いスーツに決めた僕たちは、試着を済ますと 
「さて、軽く食事でもしましょうかね」 
というガンさんの提案には異論のある筈もなく 
「こんな時間か。この辺りで飯食えるとこ誰かご存知ですかね?」 
というガンさんに、僕は待ってましたとばかりに 
「あ、僕の知ってる店がありますが。軽食だけですけど」 
「あ、そう。じゃそこ行きましょ。歩いて行けるの?」 
「はい、一丁目ですから」 

そんなわけで「オリオン」へと皆ぞろぞろ大移動さ。 

「ママ、お客さん連れてきたよ~」 
いつもの僕からは考えられないような顔ぶれのおじさんたちを連れて行くと、さすがのママもびっくりってなもんで、おまけに大男のアル・カポネが最後に入ってきたわけで... 

「あのね、僕が今お世話になってるバンドの人たちなんだよ。こちらは来月から入る店の社長さんさ」 
「あらあら、そうだったの。皆さんようこそです。私の大事なかわいい信也のこと、どうぞよろしく面倒みてやってくださいませね、オホホ」 
目を見張るような美人のママにこんな事を言わせて僕はもう鼻高々ってなもんさ。 

「おいおい、すごい美人だなあ、あのママ。何だよユウは若いつばめちゃんってことかい?」 
とりわけ女性には目のない内山さんは、すっかりママに一目惚れってな様子で、何とかママの気を引こうと一生懸命さ。 

「ママさんね、こちらの社長さんはね昔はナベプロのマネージャーやってらしてね、それから初めて来日した時のアラン・ドロンのボディガードなんかもやってたんですよ。今度は六本木に日本一の店をオープンするんでね、そこで私達が演奏するんですわ。ホホホ」
「あらあら、どんなお店なんですか?」 
ガンさんは、ここぞとばかりに身を乗り出すと 
「おそらく日本には今までなかったスタイルの店でね。マンションのワンフロア全部使いましてね、広いですよ~。店中全部真っ赤な絨毯を敷き詰めましてね、勿論壁も全部ね。お客さんは靴を脱いで入るんですわ。リラックスしますよ~。ワンフロアっていってもね中はいろいろと仕切られてましてね、個室風な雰囲気もあったりね、ま、いろんなアイデアが盛り沢山なんですわ。料理はすべて中華ね、これって日本じゃおそらくウチが初めてでしょう。美味いですよぉ、優秀なスタッフ集めましたからね。そして音楽はジャズね。それで内山さんにお願いしたってわけでね」 
「あら、面白そうなお店だわ~」 
「はい、絶対に飽きない店を作るっていうのが私のモットーでしてね。といってもオーナーがいるんですよ。まだ若い人でね、もともと証券会社のサラリーマンだった方なんですが、つい最近渋谷に『深海魚』っていう店を出したばっかりでね、ここが大盛況!やっぱり絨毯敷きの店でしてね。第二弾を全面的に私が任されまして。ま、私は雇われ社長ってとこですわ」 

これには僕たちもびっくりさ。内山さんも初めて聞かされたようで 
「あれ、ガンさんがオーナーじゃないんだ。てっきりしこたまゼニ貯めて、それで始めたのかなって思ってましたよ」 
「いやいや、さすがに私もあれだけ大がかりな店は自力じゃ無理ですわ。菅野さんっていう人なんですわ、オーナーは。昭和10年生まれのね若い人ですよ。大した才覚のある人ですわ。今度紹介しますが質素な人でね、見た目も地味で、もろサラリーマンって感じがまだ抜けてませんわ」 
「どうしてまたガンさんが?」 
「そりゃ、内山さん、私の人脈ですわ。だてにナベプロでマネージャーやってたわけじゃないんでね。私は今ね『チーム・サムライ』っていうプロジェクト・チームを自分で作りましてね。店の立上げやらなにやら全部一手に引き受けようって、そんなまあ一種の企画立案、設計製作、営業までやっちまおうっていう、そんな仕事ですわ。そして今回オーナーとすっかり意気投合しましてね、一切合財任されたわけですわ。オーナーは金だけ出して口は出さないっていう約束でね」 
「最後の20セントっていう名前は?」 
「私のイメージはね、1920~30年頃のメリケンなんですわ。禁酒法時代のね、カポネのね(やっぱり!)、アンタッチャブルですわ。 
賭博で大負けしてスッテンテンになった男が握りしめた最後の20セント硬貨ってことですよ。何かワクワクするでしょ? 
洋風酒場で中華料理を出すっていうのもね誰も思いつかなかった事でしてね、これも私としちゃチャイナタウンっていうか、戦時中の上海租界っていうかね、そんなイメージでね、このミスキャストが面白いんですわ。話題性充分ですよ。オープン時はナベプロのタレント連中を総動員で呼びますからね華やかさも申し分ないですわ。こりゃ大変なイベントなんですわ」 

得意気に語るガンさんの話を聞いてるだけで僕はもうすっかりドキドキワクワクってなもんで、こりゃどうやら来月はとんでもなく刺激的で面白い事になりそうだなって、そんな思いが全身をかけめぐるのを感じていた青山一丁目の午後のひとときだったわけさ。

 

 

東京 1968 その34

内山さんはニコニコ顔で 
「仕事のことなんですがね。実はガンさん、ま、本名は村上元一さんっていうんですが、来月六本木にオープンする店を全部任されてるそうでね、内装工事とかそういったものは全部済んでるらしいんですが、まだ専属のバンドが決まってないらしくって、それでウチのバンドはどうだろうかって話なんですよ。どうしてもヴァイブを入れたいらしいんです。ちょっと話としては急なんですがね、条件も良いし、ガンさんのやる店なんで何か面白そうだしね」 
「いやぁそれは内山さんのお決めになる事ですから、全部お任せですよ。それにしてもずい分と急な話ですねぇ」 
また一口ウィスキーを含み石橋さんはすっかりゴキゲンだった。 
「何かね、ガンさんの話じゃ有能な若い連中を集めてチームを作ってるらしいんですよ。野球じゃなくって、店の立上げ専門のね。面白いでしょう、そういうのって。今回が旗揚げの仕事らしいんですがね、何か日本じゃ最初の試みだそうですよ。とにかくガンさんっていうのは昔っからアイデアマンでしてね。ま、今回は僕もそれに乗ってみようかと。2,3日中には結論出しますからね、そん時にはよろしくです。菊地君にも良い話だと思うよ、ホホホ」 
「ところで、何ていう店なんですか?」 
「ん~とね、何てったかな...何か変ちくりんな名前でしたね。あ、そうそう『最後の20セント』です」 

僕にとって、というかこの時代の六本木なんて殆どの人にとってはただ通り過ぎるだけの場所であり、ま、防衛庁があり、俳優座があるってなぐらいのもんで、昼間でさえ歩いてる人なんてあんまり見かけないし、まして夜なんて... 
よほど特別な人たちが集まる秘密めいた場所。それが六本木に対する一般的な印象だったのさ。 

この頃、僕もデートコースとしては六本木は通ったりはしてたんだ。勿論、通るだけね。
銀座あたりで待ち合わせて、日比谷公園を抜け、虎ノ門あたり、アメリカ大使館の警備員に胡散臭げな顔をされながら溜池へ。

ダラダラと坂を上り、六本木交差点の誠志堂書店で音楽雑誌をパラパラ立ち読みしてから防衛庁方面へ。

その先、竜土町の「ジョージ」っていう何とも興味をそそられる酒場を横目に通り過ぎ(この店はとにかくいつも黒人がいっぱいで、何か沖縄キャンプを思いだす雰囲気だったのさ。いつも入ってみたくって店の前をウロウロしてたんだけど、どうにも18,9歳の僕たちには入りにくかったんだなぁ。どうせ黒人オンリーなんだよ、なんて僕たちは勝手に決めこんで結局は入らず終いだったんだ...) 
目的地の青山一丁目に。

そして「オリオン」に落ち着く、とまあこんな感じだったのさ。


どうやら話は本決まりになったらしく、翌々日に内山さんは僕たちを前に話し始めた。 
「いちおう決めましたよ。ギルビーの社長にはずい分とイヤミ言われましたがね、ホホホ。ま、はるかに条件が良いんでね。 
それでね明日の夕方5時にユニフォームを選ぶんで青山3丁目に集まってもらいたいんですよ。交差点の角にあるヴァン・ジャケットのビルの入り口あたりね。ガンさんが全部用意してくれるらしいんでね、ありがたいもんですわ。僕もね、ちょうど良い機会なんで新しいヴァイブを買っちゃいました。ディーガンのピカピカの新品ですよ。物すごく豪華。今週末には楽器屋がここに届けてくれます」 
石橋さんが心配そうに 
「終わりの時間はどうなってますかね?僕は今月いっぱいで五反田(ご存知『いかるが』さ。石橋さんは相変わらず深夜だけソロピアノの仕事で行ってたんだ)はやめて、来月は新宿西口の『ボンゴ』って店でやる予定なんですが」 
「ああ、大丈夫でしょ。いちおう12時までっていう約束でしてね、日比谷線と山手線で...ん~とね、もし何でしたら僕の車で送りますよ。東君も京王線だしね。菊地君は池袋から東上線か。終電時間調べておいてね。ま、どうせ僕は西新井まで帰るんだから、回ってあげても良いしね、ホホホ」 

そんなわけで、どうやら12月からの僕の職場は六本木に決定ってことさ。

 

 

東京 1968 その33

新宿「ギルビー」は所謂コンパ・スタイル。 
最近じゃ殆ど見かけなくなったけれど、まだ「養老の瀧」「駒忠」といった大衆居酒屋が普及する前の時代、洋風酒場としちゃ一番ポピュラーなスタイルで、仕事帰りのサラリーマンで連日大賑わいだったんだ。 

週末土曜の夜ともなりゃ今度は映画を見終わったアベック(まだカップルなんて言葉は使われちゃいない頃さ)のデート・スポットに早変わりってなもんで、それはそれで大繁盛だった。 
入り口から奥まで続く長いカウンターの後ろは壁一面が酒棚になっており、そこには夥しい数の酒瓶が並べられ照明を浴びて色とりどりに輝いているんだ。 
僕たちの演奏する耳ざわりの良いジャズを背に聞きながら、ちょっと小粋なワケあり風なバーテンの作ってくれたカクテルを口に運び、酒と音楽に酔った彼女が彼氏の肩にもたれかかりゃ、もうそれだけで今夜これからそのアベックの辿るべき道はただ一つってなもんさ。 

そんな土曜の夜、ただならぬ雰囲気の客が一人、店に入ってきたんだ。 
まるでプロレスラーのようにガッシリとした体躯を黒のダブルのスーツに包み、黒いシャツ、光沢のある銀色のネクタイとくりゃ、こりゃもうまるでフランク・ニティかアル・カポネだ。 
短い髪に、良く日焼けした浅黒い肌に精悍な顔つき。

おまけに夜だっていうのにレイバンのサングラスときたもんだ。 

そのカポネはわき目もふらずにズカズカと真っ直ぐ奥へと進んでくると、そのままステージに一番近いカウンター椅子にどっかと腰をおろした。 
手に持っていた大きな黒いアタッシュケースを隣の椅子に乗せると、ひとつ大きなため息をつき、おもむろにバーテンを手招きし何やら注文をしている。 
僕とすりゃ興味津々てなもんさ。

一体何者なんだろう、どこから見たってギャング以外の何者でもないわけで。 
どうやら東さんも思いは同じとみえ、しきりとカポネの方をチラチラと見ているのがわかった。 

「何か、すごくないですか、あの人...」 
曲の合間に僕はそっと東さんに耳打ちを 
「シッ、目合わせないようにした方が良いよ。さりげなく、さりげなく...」 

やがて僕たちのステージが終わると、驚いた事にカポネは意外なほど身軽に椅子から立ち上がると、おもむろに僕たちの方に歩み寄ってきたんだ。 
思わず身構えた僕と東さんを他所にカポネは内山さんの前に立ち止まると、左手でレイバンを外し、何とペコリとお辞儀を... 

「お~、ガンさ~ん。そんな格好してるから気がつかなかったよ。いやいや久しぶりだなぁ」 
「はい、ご無沙汰です。内山さんも相変わらずのようで」 

何てこったい。どうやらカポネは内山さんの知り合いらしいや。

先ずは僕としてもホッと一安心ってとこさ。 

「内山さん、実は折り入ってお話がありまして...ちょっとよろしいですか?」 
「はいはい、何だろなガンさんの話って。恐い話じゃないだろね。まあ、そこに坐りましょうや」 
内山さんはカウンターのガンさんの隣にピョコンと坐ると、バーテンを呼び 
「僕にね、アイスミルクちょうだいな...」 

控え室での僕たちは専らカポネの話題で盛り上がっていた。 
「いやあ、最初はさ、絶対ヤクザ者だって思ってたよ俺は」 
「あれじゃ100メーター先からだってヤクザにしか見えませんよね。本物だってもっとマトモな格好してんじゃないすかね」 
「僕は客席に背中向けてますからねぇ、気がつきませんでしたよ。でも、ひょっとしたら本物の可能性だってなきにしもあらずですよ。何せ内山さんの顔の広さっていったら半端じゃないですからね」 

やがて20分もたった頃、満面に笑みをたたえた内山さんが控え室に戻ってきた。 
「誰ですか、あの方は?」 
思わず僕と東さんは口を揃えて訊ねたもんさ。 
「びっくりしただろう?ありゃあ結構あせるよな、アハハ。あの人はねガンさんっていって以前ナベプロのジャーマネ(マネージャー)やってたんだよ。確か裕也(内田)の担当だったかな。ナベプロ時代は結構僕も何やかんや彼の面倒みてたんだよ。ところがいつのまにやら辞めちゃってね、どうしてんのかなぁなんて思ってたら、ついさっきって事さ」 

石橋さんはスーツの内ポケットからウィスキーのポケット瓶をおもむろに取り出すと、クイッと一口旨そうに口に含み 
「何か、良い話でも?」 

 

 

東京 1968 その32

バンマスの内山さんは昭和ヒトケタ、栃木県の生まれ。

芝工大卒業後に建築家を目指すも病気でダウン。

宇都宮に戻り地元の新聞社に勤務。

その傍らヴァイブを独学ってことらしい。

何よりの自慢は、その時に当時高校生だったナベサダさんと一緒にバンド活動をしたこと。

そしてナベサダさんの後を追って上京したんだそうな。 

その後昭和29年頃からシックス・ジョーズに在籍し、まさにナベプロ隆盛の現場を内側から直ぐ傍で実体験してきたわけで、その頃の思い出話はとにかくミーハーな僕としては興味津々、面白いなんてもんじゃなかったのさ。 
控え室では、内山さんのその話が始まると僕たちだけじゃなく店のスタッフまでもがいそいそと集まり、皆、目を輝かせて話に聞き入り驚いたり笑い転げたり、ちょっとした戦後芸能界暴露話講座ってな趣きだったのさ。 

(ちなみに僕は70年10月10日の自分の結婚式の際には内山さんに新郎側主賓をお願いしたんだ。 
その後76年にはスイング・ジャーナル社から内山さんの著作「日本のジャズ史」が創刊30周年記念として発売され、そりゃ得意満面ってもんさ。 
79年頃からは月一回発行の「ジャズ・ワールド」っていう新聞を自ら発行。

現在もまだ続いてるっていうんだから、ホント大したもんだよね...) 


毎晩続けられる石橋さんの実践的理論講座と、非常にわかりやすいデルボ社のジャズ理論書のおかげで、僕は自分でも驚くほどメキメキと腕があがっていくのが実感できた。
ウッドベース自体を楽器としてマスターするっていう事は、こりゃあ時間がかかるのは最初からわかっていたわけで、とにかく汗を流して毎日毎晩ひたすら弾くっきゃないって事なのさ。 

そんなある日、東さんの強い要望で僕は仕事の後で彼の家に泊りがけで遊びに行ったんだ。 
京王線の東府中駅で降りて新宿方向にちょっと戻った住宅街の中の二階建ての一軒家。

そこが東さんの自宅だった。 
「あれ、一人暮らしなんですか?」 
「うん、両親は早くに亡くなっちゃってね。でも家だけ残してくれたから助かってるよ。ここなら結婚してガキの2,3人出来たって全然平気だもんね。夜中もガンガン音出せるしね」 

前の晩から仕込んでおいたという、しょうが醤油に漬けた山盛りの豚肉を焼きながら、僕たちは大いに飲み食い語った。 
マイルスの「フォア・アンド・モア」を夜中だっていうのに大音量でかけ、酔いも回って東さんはすっかりゴキゲンだった。 

「菊地君、聞いてるかな?」 
「え、マイルス?」 
「違うよ~、俺の事さ。一昨日バンマスに言われたんだけど、どうやら今年いっぱいで俺はお払い箱らしいや」 
「え、どうしてですか?」 
「そんなこたぁ俺にはわからないよ。でも俺、下手だからなぁ...いっつも石橋さんに怒られっ放しだしさ。おそらくバンマスにも見限られちまったんだろな」 
「そんな事はないでしょうよ」 
「いやいや自分の事は自分が一番わかってるって。多分ね俺にはドラムのセンスがないんだと思うよ。ズージャは死ぬほど好きなんだけどさ。聞くとやるとは大違いって事なんだよね、きっとさ。でも菊地君が入ってきてすっごく刺激にはなったんだよ。まだ19歳だっていうのに大人だし、一生懸命だし、素直だしなあ。俺なんてひねくれ者だからさ、やっぱり嫌われちゃうんだよ。よっぽど上手けりゃ話は別なんだろけどさ」 
「.....」 
「ま、そんなわけで今夜は俺主催の俺自身の送別会ってわけよ。来てくれてホント嬉しかったよ。さ、飲んで飲んで」 
「わかりました。それで次のお仕事は?」 
「ま、何かしらあるだろさ。選り好みさえしなきゃね」 

夜も更けるにつれ、酒の勢いもあり、ますます二人のヴォルテージは上がっていくばっかりさ。 

酔うにつれ口が滑らかになった東さんの話では、どうやら彼の父親というのは戦後新宿を縄張りにしていた最大のテキ屋「尾津組」の兄貴分だったそうで、その縄張り争いの抗争の中で4,5人を相手に単身日本刀で大立ち回り、結果全身をメッタ刺しにされ壮絶な死を遂げたそうだ。 
その何人かいた情婦の一人が東さんの母親で(思った通り金髪外人だったらしい。だって、どう見たって東さんは外人にしか見えないんだ)やはり失意の中、胸を患い幼い東さんを一人残し亡くなったのだそうだ。 

「俺は、親父の事って殆ど憶えちゃいないんだけどさ。 おふくろが言ってたんだ、おやじはホントは極道なんかじゃなくって若い頃からジャズマンに憧れていたんだって。それもドラマーになりたかったんだって...」 

いつのまにやらマイルスにとって代わってコルトレーンの絶叫しているようなテナー・サックスの咆哮が家中に鳴り響き、これじゃまるで新宿のジャズ喫茶も真っ青ってな感じの東府中の夜だったわけで...

 

 

東京 1968 その31

「ギルビー」のバンド控え室は、さながら石橋さんのジャズ教室ってな様相を呈していた...

「信也君ね、うちのレパートリーの殆どはシアリング・スタイルでやってるわけ。ほんとはヴァイブとピアノの他にギターも入るんですけどね。最近はシアリング風でやってるバンドが多いですから今のうちにモノにしておくと良いですよ」 
そうなんだ、内田バンドの譜面の殆どには「シアリング・スタイルで」って注釈がついているのさ。

勿論シアリング・スタイルなんていわれたって僕には一体何の事やら皆目わかるわけもなく、そのへんはもう聞くっきゃないわけで 
「あの、それってベースはどうすれば良いんですか?」 
「ああ、そうか、信也君はまだ知らなかったか。教えてなかったかもね。ジョージ・シアリングも知りませんか?盲目のピアニストなんですがね、そうそう『バードランドの子守唄』って彼の作曲なんですよ。ヴァイブとギター、ピアノがユニゾンでメロを弾くんですよ、ちょっとゆったりっていうかモタレ気味でね。ですからドラムとベースはそれにつられないようにしっかりリズムをキープしなきゃならないわけですね。ベースはひたすら4ビートを刻んでください。トゥントゥントゥントゥンってね。トゥトゥーンやトゥトゥトゥーンは必要ありません。経過音でフラット5も使わないようにね。きわめてシンプルにノーマルにって事ですね。ドラムとベースが一体になってリズムを刻んで、それに乗っかってメロ隊がユニゾンでって事です。簡単に言っちゃえば、それがシアリング・スタイルです。ピアノはブロックコードで弾くんですがね」 

すると内山さんも横から 
「そうそう、そういう事。これが実に良いんだなあ。ま、ダンモじゃないけどロマンチックでお洒落で都会的でね。ホテルのラウンジなんかにはピッタリなんだよ。しかし、すごい事考えたもんさ、メロ隊が全員でユニゾンなんて誰にも思いつく事じゃないやね。簡単な事だけど誰も考えつかなかった事なんだよ。大したもんだよシアリングっていうのは...菊地君も東君も今のうちにモノにしておくと先々どこにいってもバッチリって事だよ」 

石橋さんが今度はドラムの東さんに注文さ。 
「ユウはね、変な手クセがあるんだ。僕はすごく気になるんだな。おかずの入れ方が何ていうかワンパターンっていうか、面白くも何ともないんだね。ソロ弾いててもユウのおかずで何かズッコケちゃうんですよ。おそらく単なる手クセでやってるとしか思えないんですよ。ずい分レコードを聴いてるみたいだけど一体何を聴いてるのかなあ、もっとジャズのエッセンスを感じとらなきゃダメだよ。誰かを徹底的にコピーするとかした方が良いと思うなあ。技術だけじゃなくってね、アンサンブルの中でのドラムの本来の役割りっていうか何を自分が求められているのかって事を瞬時に判断できないとなあ。まだ若いんだから少しガムシャラになって勉強した方が良いよ」 
内山さんも 
「確かに東君には若さが欠けてるな。せっかく菊地君みたいなヤル気のあるベースが入ったんだから少し自分にハッパかけないとな。今頑張っておかないと、これからは菊地君みたいなロック出身の若者がドッと増えてくるんだから大変だぞ」 

いやはや気の毒に、東さんは二人から集中攻撃だ。 
でもそれもその通りで僕だって初日が終わった段階で、プロのドラマーってこんなものなの?って感じはしてたのさ。

一言で言っちゃえば何かリズムが甘いのさ。

不思議なもので一緒に演奏をすると直ぐに相手の技量っていうのがわかっちゃうんだ。

出てくる音は嘘をつけないって事なのさ。 
まだジャズもウッドベースも超初心者の僕でさえ感じるって事は、ベテランの二人はその何倍も感じてるって事なのさ。 

デイズ時代のケニーはロックとはいえ確かにもっと上手かった。

オカズ一つとってもセンスがあったし、もっと決めるところは決めていた筈さ。 
「いかるが」の時の小西は所詮アマチュアだったし、僕も彼に多くはのぞんじゃいなかったわけで、でも今はそうじゃない、もうプロの世界に入ったわけで、僕だって必死だし、東さんにももっと必死になってもらいたかった、ただそれだけの事だったわけで...

 

 

東京 1968 その30

1968年11月。

新宿「ギルビー」 
僕の事実上のプロとしてのスタートってわけさ。 

僕は張り切って2時間も前にウッドベースを運び込み入念に指慣らしをした。 
控え室に置いてあった分厚いベース用の譜面ノートを譜面台に乗せ、最初のページから目を通してみた。 
知らない曲ばかりが100曲以上も、中にはベース音の指定されているものも数多くあり、僕はいちおうそれらをひと通りなぞってみる事にしたんだ。

まだ指板をまったく見ないで弾く事が出来なかった僕としては、初見でいきなりっていうのはあまりにも無謀ってなもんだったのさ。 

ロックバンド時代に、あまりにもEとかAとかいったキーに馴染んでしまっていた僕にはDフラットとかAフラットっていうのはそれ自体がまったく未知の世界でもあったわけで、ましていきなりその音を指板上で押さえるのは結構な至難な技でもあり、こりゃとにかく弾いて弾いて弾きまくるっきゃないなって改めて痛感する僕だったのさ。 

音響的にはまず問題はなかった。

小気味良く重低音が響き、それは僕自身の身体にも充分伝わるほどだった。

これは超初心者の僕にとってはせめてもの救いだったのさ。 

「やあ、お早う!早いねぇ。今日からよろしくで~す」 
6時も過ぎた頃、モロに外人のドラマー東(あずま)さんが入って来た。 
「お早うございます。よろしくお願いします」 
「はいは~い。楽しくやろうね~。菊地君だったっけ。僕は東で~す。今いくつ?」 
「え、19です。こういうバンドって経験ないんで、気がついた事あったら何でも言ってください」 
「は~い、大丈夫大丈夫。慣れ、慣れ!19歳か。僕も老けてみられるけどふたっつ上なだけ。それと僕ね外人じゃないんで、そこんとこよろしくね。これでも日本人、ハハハ」
そうはいっても、どこからどこまでも外人の東さんはとっても快活で明るい感じの、とても2歳上とは思えないぐらい大人の雰囲気の人だった。 
「僕はね、ホントはベースやりたかったのさ。今でもちょっと諦めきれてなくってね。あ、そうだ、僕はねレイ・ブラウンのソロだったら殆ど全部口でいえるからね。何でもリクエストしてね」 
「はあ...?」 

これはちっともウソでもなんでもなく東さんはオスカー・ピーターソン・トリオ限定でレイ・ブラウンのベース・ソロを完璧に口ずさむ事が出来たんだ。 
おかげで僕はレコード・コピーをする手間入らずで、東さんの口コピーでレイ・ブラウンのフレーズを手に入れる事が出来たのさ。

おまけに弦のビビる音や運指のさいの擦れる音までも正確にコピーしてくれているおかげで、かなり正確にポジショニングや指使いっていうのもわかっちゃうのさ。 
絶対音感でもあるのか「5小節目の3拍目の音、もう一回お願いします」なんて無理な注文にも

「あいよ~、いいかい、いくよ~」ってな感じでヒョイヒョイやってくれるんだ。

そういう意味じゃ東さんにはずい分とお世話になったもんさ。 
ま、世の中いろんな人がいるっていう事でもあるわけで。 

やがてバンマスの内山さんと石橋さんも現れて、さ、いよいよ始まりだ。 
「菊地君ね、うちのバンドテーマね、セプテンバー・イン・ザ・レインっていう曲。これはカウントなしでいきなりベースからですからね。キーはE♭。石橋さん、教えといてください」 
「え?ベースから...ノー・カウントですか...」 

おっと最初っからいきなりの不意打ちってもんだぜ。

 

 

東京 1968 その29

日曜日に久しぶりにハルから電話があり、夕方新宿「ピットイン」で会う約束をした。 

待ち合わせよりもずい分と早く新宿に着いた僕は三丁目までぶらぶらと足を伸ばし、来月の職場になる「ギルビー」をちょっとのぞき(勿論、日曜日は休みで閉まってたわけで)冷やかし半分で世界堂に立ち寄り、ついでにコタニ楽器ものぞいてみた。 

そこで僕はとんでもなく良いものをみつけたのさ。 
それは、デルボ社という出版社から発行されたジャズの理論書なんだ。

前に来た時には置いちゃいなかったA4判サイズの上質な装丁のその本はグリーンの表紙の入門編とブルーの表紙の実践編の2冊。

勿論迷うことなくそれを購入さ。 

階段を二段おきにかけあがりピットインの扉を開けさっと店内を見渡すと、ハルはいつものように窓際の指定席で煙草をくゆらしていた。 
「お、久しぶり」 
「ああ、今さ、コタニで良いものめっけちゃったよ。これこれ」 
「へえ、ジャズ理論ねえ...すげえな。でもデルボ社なんて聞いた事ねえな」 
「ざっと流し読みしたんだけどさ、これ良いよ。物すごくわかりやすいよ。ハルも絶対買うと良いぜ」 

「ご注文は?」 
おや、いつものとんがりバストの娘じゃないや。 
「コーヒー。あれ?君、初めて見る顔だね」 
「今週から働いてんの。前にいた人がね、突然北海道に帰っちゃったのよ。だからさ」 
「へえー、何も聞いてなかったなあ...」 
「あんたたちさ、バンドやってる人でしょ?彼女がよろしくって言ってたわよ。じゃ、ごゆっくり。リクエストあったら言ってねぇ。あ、そうそう彼女に言われてたレコードあるんだ。あんたたち来たらかけるようにって...次にかけるね」 

「あれだろな?」 
「ああ、多分あれだろ...そうか田舎帰ったのかあ。どっか誘ってやりゃ良かったな」
「そうだよ。信也、満更でもなかったんだろ?」 
「まあな。でも、ここんとこ何かと忙しくってさ。自分のことで精一杯って感じでさ、何か悪い事しちゃったな...」 
「まあ、しょうがねえよ。しょうがねえさ」 

案の定、ゲーリー・バートンの「ダスター」が店内いっぱいに響き渡った。

相変わらずヴァイブの音は爽やかで、ましてこの音量で聴くってえと何ともいえずにグッときちゃうってもんさ。 
カウンターの裏で彼女が「ダスター」のジャケットを指差しながら意味ありげな笑みを... 

「考えてみりゃ、ここでこれ聴いたおかげだもんな。あれから急展開したわけだよな俺達って...」 
しばらくの間というもの僕達はレコードに聴き入っていた。

いろいろな思いが胸の中をよぎる... 

「俺ね、今月いっぱいでコージとやってる仕事やめんだよ」 
「え、それでどうすんだい?」 
「うん、前に言ってた石橋さんってピアノの人に誘われてさ、来月からここのちょっと先の『ギルビー』って店でやるんだよ」 
「へえ、そりゃ良い話だなあ。コージはがっくりだな」 
「コージも今月でやめるってさ。小西もちょうど良かったなんて言ってたよ。あいつらは別に音楽で食っていこうなんて考えちゃいないしな。俺はそういうわけにゃいかないからさ。願ってもないチャンス到来ってとこだよ。ところでハルはどうしてんだよ?」 

「俺はね、とりあえず今オリオンでバーテンやってんだよ。ま、少し自分一人で練習してさ、何か俺でも出来そうな仕事でもあればってとこかな。俺もギターで食っていかなきゃなんないしさ。ま、今度仕事の前にでもオリオンに遊びに来いよ。ママも信也に会いたがってたぜ」 

それから2時間ほどとりとめのない話をして僕達はピットインを出た。 
「俺、コタニに寄ってデルボ社買って帰るよ」 
「ああ、それが良いよ。ハル頑張れよな」 
「うん、信也もな。じゃ、またな...」 

急ぎ足で去って行くハルの後姿が新宿の夕方の雑踏の中にかき消えて見えなくなるまで、僕はじっと見つめていた。 

 

 

東京 1968 その28

「こういう練習方法もあるんだよ。例えば家でレコードを聴いてる時だったら、勿論ジャズじゃなくっても良いんだよ、ただしロックじゃなくってな。そんな時にユウも頭の中でベースを弾くわけだ。そしたら曲の途中でヴォリュームをゼロにするんだよ。でも勿論レコードはかけたままで、ユウもずっとベースを弾き続けるんだ。そしてしばらくたったらまたヴォリュームを上げるのさ。さあどうだい、テンポはズレてねえかい?これが結構難しかったりするんだよ。ほんとは頭の中じゃなくって実際にベースを弾いた方がもっと良いんだけどね。誰か、女房でも彼女でも良いからさ、他のやつにボリューム下げてもらうと良いんだよな。俺なんかイントロだけ聴いて、それで直ぐにチャンカー(女房)に音消してもらってな、それでもエンディングではピッタシあう事ができるぜ」 
「へえ、そりゃすごいですねぇ。僕もさっそくやってみます。それって面白い練習法ですねぇ」 

そこで石橋さんが口を出す。 
「須田ちゃんはフルバンの人だからなあ、それも一理あるけどさ、コンボじゃどうかなあ?リズムは生き物だしねぇ」 
「寛ちゃん、リズムにはフルもコンボも関係ないやね。とにかく確実なリズム感が身につかなきゃ何も始まらねえよ。ゆれるリズムなんてえのはそのもっともっと後の話って事だよ」 
「ま、それもそうだ。信也君ね、須田ちゃんは面白いんだよ。歩く時でもね、今日はアレグロで行くぞとか酔っ払ってるからアダージョにしようとかね、いつも頭の中はリズム、テンポなんですよ。変わってるでしょう?」 
「いえ、見習いたいと思います。僕なんて今まで楽器を弾くだけが練習だって思ってましたから。すごく良いお話伺いました」 

それは勿論僕の本音だったのさ。 
物は考えようで、街中を歩いている時だって電車に揺られている時だって、食事をしている時だって夜布団の中に入っている時だって、いつでもどこでも何をしている時でも、そこで自分がリズムを感じてテンポを感じてりゃ良いって事なのさ。

生活のすべてが音楽一色になるっていうのは、まさしくそういう事なんだって、この時にはっきりわかったんだ。 

須田さんの話はまだまだ続く。 
「俺がどうにもわかんねえのはビートルズの曲なんだよ。イエスタデイってのがあるだろ?あのリフが七小節ってえのがどうにも俺にはついていけねえんだよ。何か気持が悪くってね、どうしようもねえよ。寛ちゃんはどうなんだい?」 
「ああ、あれね。確かに最近レパートリーにしてる歌手が増えてるね。僕は全然違和感なんてないけどなあ。あれでしっかり曲になってるわけだし。一小節足してる譜面もあったなあ、何度か見た事あるよ。でも邪道だよ、あれは。信也君なんて全然おかしいって思わないでしょう?」 

ええ?イエスタデイがそんなに問題だなんて、そりゃ僕だって初耳ってもんさ。

言われてみりゃ確かに七小節だけど、でもそんな風に意識した事なんて今の今までまったくなかったし。

既成の感覚とはそんなに違うもんなんだろうか?

第一あれに一小節付け足したら、そ、そんな...絶対おかしいや。 

「僕はね、ビートルズにはすごく興味があってね、ずっと以前から何曲かレパートリーには入れてるんですよ。『ノルウェーの森』とか『フール・オン・ザ・ヒル』それから『ヒア・ゼア・エンド・エブリウェア』とかね。『イン・マイ・ライフ』っていうのも良い曲ですね。須田ちゃんは勿論知らないやね?」 
「俺は全然知らねえや。でもあれだよ『キャント・バイ・ミー・ラブ』とかっていうのをズージャ(ジャズ)風にアレンジしたのは演奏した事あったな、確か。ありゃ良い曲だよ。問題はイエスタデイだよ。何で普通に八小節の曲にしなかったんかねぇ?」 
「それがビートルズの面白いところなんだよ、ねえ信也君?」 

須田さんと石橋さんの話を聞いているだけで、それ自体がもう僕にとっては勉強だったのさ...