昭和の記憶・その15...昭和34年(1959年) 第一部 | 沖縄1968。

昭和の記憶・その15...昭和34年(1959年) 第一部

僕は10歳
小学5年生なり。

この年は、実にいろいろなことが僕の身にふりかかってくるわけで
いってみれば僕の人生の中では、おそらく最悪、災厄の一年ではなかったかと...
その話は、後からネ


1月 1日 - メートル法実施される。
1月 1日 - 愛知県・挙母〔ころも〕市がトヨタ自動車にちなみ豊田市に改称。
1月 3日 - アラスカがアメリカ49番目の州となる。
1月10日 - NHK教育テレビの放送が始まる。
2月 1日 - 日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)放送開始
2月11日 - 「ザ・ピーナッツ」がこの日デビューする。
3月 1日 - フジテレビジョン放送開始
3月 9日 - バービー人形発売
3月17日 - 週刊少年マガジン、週刊少年サンデーの同時創刊。
3月19日 - 昭和天皇の五女・清宮貴子(20)と島津久永(24)との婚約が発表された。毎日新聞朝刊が宮内庁の発表よりも早く、スクープとしてこれを報道した。
3月28日 - 千鳥ケ淵戦没者墓苑が竣工。 
4月 - 週刊文春創刊。
4月10日 - 皇太子ご成婚
4月20日 - 東海道新幹線の起工式が行われる。
4月20日 - 国鉄の修学旅行専用列車「ひので」・「きぼう」運行開始。
5月26日 - IOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地が東京に決まる。
6月25日 - 昭和天皇・皇后がプロ野球セリーグ巨人vsタイガース戦を観戦(天覧試合)。
7月14日 - 朝日新聞が熊本大学医学部の調査チームによる水俣病の有機水銀中毒原因説をスクープ。
7月22日 -熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表した。
7月24日 - ミス・ユニバースに日本人として初めて児島明子が選ばれる。
8月 1日 - 日産自動車がダットサン・ブルーバードを発売。
8月10日 - 松川事件、最高裁が原判決(有罪)を破棄差し戻し。
8月21日 - ハワイがアメリカ50番目の州となる。
9月24日 - 神奈川県藤沢飛行場で、黒塗りのU2型偵察機「黒いジェット機」が不時着したのが撮影された。政府は国会で「米国の気象観測機」と答えたが、翌年ソ連に同型機が狙撃されてCIAのスパイ機と判明した。
9月26日 - 伊勢湾台風、明治以後最大の台風被害をもたらす。
9月30日 - ソ連のフルシチョフ首相が中国の北京を訪問。毛沢東と会談するが共同声明は出されず、中ソの対立が表面化する。
11月 3日 - 甲子園阪神パークにレオポンが2頭が誕生した。兄は「レオ吉」、妹は「ポン子」と名づけられた。
11月 6日 - 国防会議、航空自衛隊の次期主力戦闘機をロッキードF104に決定。
11月19日 - 緑のおばさん登場。日給は350円。
12月 3日 - 個人タクシーが許可される。173人に初免許。 
12月14日 - 北朝鮮への帰還事業が始まる。
12月15日 - 第1回日本レコード大賞に水原弘歌唱の「黒い花びら


皇太子結婚
皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子の結婚式が行われた。
夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には53万人が詰めかけた。
皇太子が民間人と結婚したのは初めてである。
披露宴は13日から3日間、5会に分けて開かれ、約3000人が招待された。


伊勢湾台風
台風が紀伊半島に上陸して北上、東海各地に深いツメ跡を残して翌27日、日本海へ駆け抜けた。
全国の被害は、死者・行方不明者5098人、負傷者3万8921人、被害家屋83万3965戸。


キューバ革命
1月1日、バチスタ大統領一家とその側近がドミニカ共和国へ脱出。
2日、バチスタ軍が無条件降伏。カストロがサンディアゴで勝利演説。
2月16日、カストロが首相に就任。
具体的な政策綱領はなく「社会正義と平等社会の達成」という指針のみがあった。


【新商品・ヒット商品】
(乗用車)
ブルーバード  [日産自動車、685,000](8月1日発売)

(玩具)
スカイピンポン [トミー]
  突起を手で圧し、押し出された空気でボールが浮く。

(日用品)
品川あんか  [品川燃料]
バンドエイド  100円
ベビーパウダー
カッターナイフ [日本転写紙、250円]
ライポンF  [ライオン油脂、100円]

(食品・嗜好品)
種なしスイカ
カゴメトマトジュース  [愛知トマト(現=カゴメ)]
缶ビール  [日本麦酒(現=サッポロビール)]
即席麺  マルタイの即席ラーメン[マルタイ](11月発売)
 棒状の乾燥麺にとんこつ味の粉末スープが付いていた。
 麺とスープを一緒に煮込めることから人気商品になった
ライスチョコレート [東京産業、10円](5月発売)
 ライス入りのチョコレート
ベビーラーメン(チキン味)[松田食品(現=おやつカンパニー)、10円] 
 ノンフライ麺の製造中に生じる麺のカケラを捨てることは忍びないと 思い、利用方法を考えたのが始まり。
 スナック菓子ブームの先鞭をつけた。1971年に「ベビースターラーメン」に改称


【流行語・話題の発言】
カミナリ族
  爆音をひびかせてオートバイを飛ばす若者たち。
「がめつい」(演劇「がめつい奴」から)
  強欲で抜け目のない。大阪弁。
「サッチョン族」
  札幌に単身赴任。札幌とチョンガーを結びつけた言葉。
タフガイ
  日活がつくった石原裕次郎のイメージ。
トランジスタ・グラマー
  肉感的で性的な魅力のある小柄な女性。
ファニーフェース
  美人というわけではなく、個性的で雰囲気のある魅力あふれる顔をいう。
  芳村真理や団令子らがその代表格とされた。
「婦人科」
  婦人を専門に撮る写真家のこと。
  ヌード専門に撮る人は「皮膚科」とも言われた。
「ヨワい」
  困った時や言い逃れる時などに使われた。
私の選んだ人」(清宮貴子、3月2日)
  20歳の記者会見で、「タイプはどういう方がお好きですか?」という記者の質問に「私の選んだ人を見ていただきます」と答えた。


4月10日の「皇太子ご成婚」
桂文珍の落語じゃありませんが、この日のために座布団も新調し、障子紙も張り替え、前の晩から近所の奥さんたち総出での料理作り。
そして当日は朝の5時頃には早起きして家中の掃除。
7時頃には、そろそろ接客の準備に。
お茶の間から、広い客間に移されたテレビ。
そして何やら宴の席ってな感じで配置されたお膳、座布団...
8時ともなれば次から次へと来客の群れ。
たちまちテレビ桟敷は大満員に。

世紀の結婚式といわれた皇太子と美智子さんの挙式の日は、そんな感じで過ぎていったんだ。
この日は、おそらく日本全国でこういった光景が見られたんじゃなかろうか。

そして、これより少し後...

いつも食事の度に「胸がつまる」と言いながら
「ウウン、ウウン」と、何か咽喉の通りを良くしようとしているかのような咳払いが既に癖のようになっていた父。
そんな父が体調がすぐれないという事で、珍しく会社に出勤せずに近所の「木幡医院」へ。
ヤブとして定評もあった木幡医師の診立ては
「風邪の一種じゃろうて」
と、咽喉に得意のルゴール塗布を。
しかし、これに納得のいかなかった父母は、その足で市内でも名医として評判の高かった菊田医師の許を訪ねた。
父の話を聴いた菊田医師は、直ぐにⅩ線撮影を。

翌日だったか翌々日だったか、父母は菊田医師に呼び出された。
「これは食道ガン。それも、かなり進行している。今、日本で食道ガンの手術が出来るのは千葉大医学部の中山教授のみ。一刻の猶予もない。紹介状を書くから直ぐに訪ねるように」

この日から父と母が千葉に向うまでの日々。
バタバタと、せわしなく準備に追われたのだろうか、僕には何も記憶がない。
ただただ、我が家に突然にふりかかった災厄の前にオロオロするばかりの僕だったのだろう。

それでなくても傾きかけていた父の会社は、父の長い不在という最悪の事態を前にして、もはや立ち直る事は不可能であろうという事は子供心にもそれは充分に感じていた。

そして僕を一人残し、父と母は千葉へ旅立った。
父は即日入院し、母は病院前の旅館に部屋をとり、昼間は病院に詰めるという生活が始まったのだ。
当初の見込みでは、三ヶ月ほどで帰宅できるだろうという事だったんだ。

僕は僕で、留守居役という事で泊り込んでくれる事になった縁戚にあたる伯母さんとの生活が始まっていた。
父の病気の心配というよりも、母がいないという寂しさが僕には耐えられないほどの悲しみであり、特に夜ともなると寂しさと何か絶望的な不安感にいたたまれなくなり布団の中で枕を濡らす、そんな日々が続いたもんだ。
上りの夜汽車の汽笛が遠くに聞こえ、やがて遠ざかっていく...

一ヶ月もそんな生活が続いた頃、伯母さんが体調を崩した。

しかも、三ヶ月ほどで退院して帰宅できる筈だった父の様子が芳しくなく、やはり半年はかかるだろうという悲しく残酷な報せが...

やむを得ず、僕は、市内・万世町に住んでいた叔父さん(父の実弟)の家に身を寄せる事になった。
ここには僕の従兄妹でもあるひとつ上とひとつ下の兄妹がいた。

彼らと同じ部屋での新しい生活が、こうして始まった。
それでも、僕には試練がのしかかる。
兄が大学入学で上京後、殆ど一人っ子のように過保護に甘やかされて育てられた僕は、自分でも嫌気がさすほどにわがままで、また病的に神経質な子供だった。
朝食ともなると、ひとつに盛られた泡だらけの納豆や、ビンに入ったままの海苔の佃煮を、皆が箸を突っ込みながら食べる。これが僕には耐えられなかった。
大体、母の炊いた飯、作った料理以外は気持が悪いと口にさえしなかった僕だったわけで...
「しんやちゃんは、食べないの?」
「うん、何か朝はあんまり...」
「な~んだ、そんな事じゃ大きくならんぞ。さあ食べて、食べて」
両隣では従兄妹たちが美味そうに飯を頬張っている。
「...」

それでも2,3日もすると、やはり空腹には耐えられず、少しずつ少しずつ、そんな生活に身体が順応していくのを僕は感じていた。

小学校から戻ると、三人分のおやつが、それぞれ紙にくるまれて置いてあった。
とはいっても、僕はそれまではおやつなんていうものは好きな時に好きなだけ食べていたもんで、
「え?これっぽっち?」
ってな感じで、まあ仕方がないかと諦めてはいたものの
ある日、どうにも量的に足りなく、
ついつい、まだ帰宅していなかった従兄妹たちの紙包みを開けて、バレないように同数だけお菓子を、といっても煎餅菓子のほんのふたかけらほどをツマミ食いし、また元のように包んで戻しておいた。

それが叔母さんにバレたんだ。
叔母さんは鬼のような形相で僕を問い詰めた。
叩かれこそしなかったが、僕は泥棒猫のようになってしまった自分が情けなくって情けなくって、泣きながら叔父さんの家をとび出し
我が家へと走って走って、走り続けた。

合鍵を使って家に入ると、驚いたことにテレビを始め、あれほど揃っていた家電製品がすべてなくなっていたんだ。
おそらく少しでも病院代に当てようと、そんな事もあって手放したのだろうか、何もなくなってしまった家の中は、それでなくとも何かかび臭く冷え切った空気が充満して、僕はますます自分が孤独であるという強迫観念に押しつぶされそうになるのだった。