「わたしが彼らに話すようあなたに命ずるすべての言葉を話さなければならない。一言も取り去ってはならない。彼らは聴いて,各々その悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば,その行ないの悪のゆえに彼らに下そうと考えている災いをわたしは悔やまなければならないであろう。」(エレミヤ26:2,3)
聖書の預言は一般の占いの預言と異なっています。多くの占いは、ある特定の時にあることが起こると予告するかもしれません。しかし、占いはその予告の成就から何の道徳的な教訓も得ることはできません。しかし、聖書の預言はそうした占いとは異なっています。
ユダのエホヤキム王の王政の初めに、エホバの預言についてのエホバの言葉が預言者エレミヤに臨みました。それによると、冒頭の言葉に示されているように、エホバの預言の成就は、エホバ神の道徳基準や特定のご要求が関係していて、柔軟性があります。
聖書がどこかの国家や個人に災いを預言する場合、それはその国家や個人が神の律法に違反して神の目に悪いことを行っているからです。しかし、もし、その国家が神の滅びの預言的な警告に答え応じて、悪の道から立ち返るならば、「その行ないの悪のゆえに彼らに下そうと考えている災い」をエホバは悔やまれます。すなわち、滅びをもたらすというエホバ神の宣告は、撤回されます。もしくは、その滅びの時は延長されます。
ですから、聖書の預言には柔軟性があると言えます。それは、聖書の預言は、エホバ神の崇拝と聖書中のエホバの道徳基準を擁護する目的があるからです。
聖書の預言の柔軟性を示すどんな過去の事例があるでしょうか。たとえば、あるユダの年長者によると、ヒゼキヤ王の時代に次のような事が起こりました。預言者ミカがユダの王ヒゼキヤの時代に「エルサレムはただの廃墟の山とな(る)」と預言しました。ミカがエルサレムの荒廃を予告した理由のひとつは、エルサレムの流血でした。(ミカ3:10)しかし、ヒゼキヤは「エホバを恐れ、エホバのみ顔を和めたので、エホバは彼らに対して語った災いを悔やまれ(ました)。」(エレミヤ26:17~19)ヒゼキヤの時代には、エルサレムに滅びが臨むことはありませんでした。
しかしエホバはユダの王ヒゼキヤの息子のマナセが行なった流血ゆえにユダとエルサレムの滅びを決意されました。(列王第二24:4)しかし、マナセの孫ヨシヤはエホバの目に良い王で、偶像崇拝を排除する活動を行ないました。それで、エホバは、エホバの律法に対するユダの違反のゆえにユダに災いが臨むことになるが、ヨシヤの時代には、災いをもたらさないということを告げられました。(列王第二 22:2,16-20)ヨシヤのゆえにユダの滅びは延ばされました。
また、聖書の預言の柔軟性は、他の国家の例にも見られます。アッシリアは残虐でエホバの目に悪かったので、エホバは預言者ヨナを用いてアッシリアの首都ニネベが40日のうちに滅びると宣べ伝えさせました。(ヨナ3:4)しかし、ヨナが宣べ伝えた時、アッシリアのニネベの王と人々は、悪を悔い改めました。ヨナがヨナ書を書き終えた時より、200年以上も後にニネベはカルデア人とメディア人の手に落ちました。ですから、ニネベは、エホバの宣告を聞いてへりくだったので、実に約200年以上もその存続期間を延ばす結果になりました。
大いなるバビロンについての預言にもそのことが言えます。大いなるバビロンの滅びが警告されている理由は、とりわけ、その流血のためです。大娼婦が諸国家と連合し、全地で軍事的攻撃を行い人々の血を流すからです。(啓示17:2)また、大いなるバビロンは、神の民を迫害し、その血に酔うとも予告されています。(啓示17:6) しかし、今のところ、大いなるバビロンが神の民に対して大々的に迫害して、その血を流したという証拠はないようです。
このような点で、大いなるバビロンが、神の目に正しいことを行なうよう努力を払うならば、努力を行なう大統領の時代に大娼婦の滅びが臨むことはないでしょう。しかし、もし大いなるバビロンが人々の血を流し続け、また神の民を迫害してその血を流すならば、大いなるバビロンの滅びという大患難は足早にやってくることでしょう。聖書の預言には、柔軟性があります。
イラクのアメリカ軍-大いなるバビロンの流血
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