俺は待ってるぜ 前編
天気予報では夜半から雪になりそうだという寒い夜、尾上町にある姉妹店“蘇”か
ら案内され“ぼんそわーる”までお見えになったご夫婦がいた。
ここまで案内してきた者の話では『“禅”のカウンターで隣り合った“イシハラ”さん
と名刺交換をしたことがあるのだが、あの人はいまどうしているのか?』と聞かれ
たことから、案内してくれということになったらしい。
白髪を短めに整えた長身のご主人は、ふくよかで可愛らしい感じの奥方を振り返
りながら“違うねぇ・・・・”と小声で呟きながらカウンターに座った。
少しうち解けてから聞くと、以前“禅”で会った人は、もっと体格がよくて“ゆったり”
した感じの人だったという・・・・8年前に亡くなった兄に違いない。
ずいぶん前のことを思い出して“禅”に来てくれたのに、改装後の“蘇”での食事に
なったというわけだ。
「横浜も久しぶりでねぇ・・・・“ロイヤルパーク”でのディナーよりも、街場に出て食
事をしようと出掛けてきたんだけど、ホテルに戻るにはまだ時間もあるし寄り道を
していこうと思ってね・・・・」
こんな寒い夜だというのに狭い店はすぐに一杯になり、それぞれの席を持ち回る
カラオケ・マイクもせわしなくなってきた。
初来店であれば、カラオケの好き嫌いも分からないから気を遣うところだ。
「カラオケ気になりませんか?」
「全然・・・・」
「良かった・・・・お嫌いな人もいますから」
カウンターの上にディスプレイしてある、6本の“クラッシック・モルト・ウイスキ
ー”の試飲を勧めると、いかにも酒好きの利き酒らしいゆっくりとした雰囲気で
口に含みながら、ボクの中途半端なウンチクも生真面目に聞いてくれた。
ちなみにその“クラッシック・モルト・ウイスキー”はUDV(ユナイテッド・ディ
スティラーズ&ヴィントナーズ)社が所有する蒸留所の中から選ばれた6本の
モルト・ウィスキーで、各地域から1本づつ選定されている。
スペイサイドからは『クラガンモア』・ハイランドからは『ダルウィニー』、ウエ
スト・ハイランドの『オーバン』・ローランドの『グレンキンチー』・アイラの『ラガ
ヴーリン』、そしてスカイ島の『タリスカー』の6本である。
とりわけ強烈な個性の『ラガヴーリン』が気に入ったようだ。
「この酒は一度ハマると虜になる方が多いんですよ・・・・まるでカラオケみたい
に。ウチでも本当はカラオケ置きたくなかったんですよ」
「わかる、わかる・・・・スコッチの話でもしながら飲ませる方が好きなんだろ、
マスターは」
「でもねえ時流には勝てなかったですよ」
「それも分かるよ」
「お嫌いでなかったら何かお歌いになりませんか?」
「アナタ、英語の曲でもお歌いになったら」
「矢っ張りここでは歌謡曲だろう」
「それなら裕次郎が良いわね」
「そうだな裕次郎の曲入れてくれないかな」
「何が良いでしょう」
「そうだね、裕次郎も“我が人生に悔いなし”なんて歌ったから、あっさり死んじま
ったしねえ・・・・デビュー当時の曲を歌ってみようか。彼の“俺は待ってるぜ”もデ
ビュー2年目の大ヒット曲だったな。兄貴の慎太郎が脚本を書いて映画にもなった
けどそっちの方も大当たりだったよ・・・・マスターもボクと年が近そうだから知ってる
だろ」
「でもお詳しいですねぇ」
「ボクはね慎太郎の後輩なんだよ・・・・湘南高校でね」
「じゃあ“狂った果実”とか“太陽の季節”なんかもごらんになりました?」
「もちろん・・・・あの当時は娯楽が少なかったし、ボク達にとって先輩の石原慎太郎
はカリスマ的存在だったからから、映画館に長いこと並んでまで観に行ったなあ~」
「この映画以降は俳優としての石原裕次郎もすごい人気でしたよね」
「そうそう、それまで裕次郎は“俺は歌手じゃなくて役者だ”って言ってたけど、演技
よりも歌のほうがうまかったような気がしたねぇ」
「当時としては珍しい、少しエコーがかかったような歌声も新鮮な驚きだったなあ」
「今ではカラオケでエコーも当たり前だけど、当時あの音づくりは大変だったとか聞
いたことあるよ」
「ところでマスターはその“俺は待ってるぜ”に幻の三番と言われる歌詞があるの
知ってる?」
「“幻の三番”ですかあ・・・・知りませんねえ」
「今ではその歌詞を歌う人も知ってる人も、ボク以外いないと思うな・・・・」
続 く