詐欺師‘Y’ 其の参
それから二十数年、いつしかそんな男の居た事も忘れきっていた。
歳月の流れは憎しみすら押し流してしまうのだろうか、それとも、掴んだ腕の余り
の細さに弱者に対する哀れみを感じたのだろうか・・・・不思議と憤りが湧いてこなかった。
辛酸をなめさせた「あの男」をやっと見つけ出したのだ、もっと怒りを感じろ!メチャメ
チャに殴り飛ばしてやれ!と、自分で自分に言い聞かせてみても、頼りないほど実感が
なく、他人ごとのように感じてしまっていた。
妙な懐かしさすら感じたのは、互いに背負った歳月の重みを見たからだろうか。
駆り立てても湧いてこなかった怒りは、中年を過ぎた男の分別臭さからだろうか。
そして、それは心の中に駆け巡っていた筈の「青春の血」が、冷え始めている証拠
なのだろうか。
みすぼらしい後姿を見送りながら、おびえきった「あの男」と、「青春」に永遠の別か
れを告げたような気がした。
その夜だけは頭の芯までが痺れるほどに飲んだ。
当然のように二日酔いに悩まされたのだが、それが治まる頃「あの男」との再会そ
のものが幻夢であったかのように思われ、それと同時に相変わらずのアホけた日々
の中に青春が戻ったのを感じた。
「あの男」が今‘どこで何をしているのか’‘どんな生活をおくっているのか’も聞か
ずに放免して良かったのだろう。
昔日の“ろくでもない思い出”なんか、事象も人物も幻影との境目のようにボヤけ
ているほど良いのだから・・・・。
昨年暮れのことである。
「昨夜ねマスターが帰った後ヘンな電話があったのよ・・・・“そこの経営者はなんて
言う人?”って聞いてきたから“どちらさまですか?”って言ったのね。そしたらそれ
ら答えず“いまでもイシハラさんが遣ってるの?”て言うじゃない、マスターの知り合
いだと思って“そうですが、どちら様ですか?”ってもう一度聞いたのよ。そしたらそ
れに答えないで“プチン”って切っちゃったんだよお~、もう感じ悪いったらありゃな
い・・・・マスターの知り合いなら怒っておいてよネ!!」
「分かった、分かった・・・・きっと昔のお客さんだよ。オレがまだ遣ってるかどうか確か
めておいてヒヨコって顔出して、驚かそうなんて思ってるんじゃあないのかなア・・・・」
その電話の主が「あの男」の‘Y’であることを確信したのは、その夜のことだった。
トイレに行く裏口から顔だけを覗かせると、笑わない目のままうっすらと笑顔を作り
「オレのこと覚えてます?」と言ったのは、紛れもなく‘Y’だった。
30年前の人なつっこい笑顔はもう薄れ、醜悪な笑い顔だった。
関内駅近くの雑踏の中で遭遇し、無罪放免にしてから6年ほどが経っていた。
その時より少し太ったせいかみすぼらしさは感じられない。
「忘れるわけねえだろ・・・・そんなとこで覗いてねえで中にはいんなよ」
何故かヒッチコックのミステリー『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の題名が過ぎった。
もっともこちらは『詐欺師‘Y’は三度ベルを鳴らす』かな・・・・
続 く