孔子は礼儀を重んじる。しかし、老子は礼儀を説く人を嫌っていた。

老子は、「礼儀、礼儀」と言うから、礼儀を欠けていることが生まれる、
そして、礼儀という大義名分を掲げて人を騙す人もふえる、という考えだった。

つまり、「礼儀正しいー無礼者」は、同時に生まれた対となる言葉である。

老子のこの考えは、外国語を習うときのヒントとなる。
新しい言葉のイメージを掴めないとき、その反対となる言葉を考えてみよう。
そうすると、対となる言葉の核心(軸)が見えてくる。

老子の第二節にこう書いている。


 天下皆知美之爲美。斯惡已。
 皆知善之爲善。斯不善已。
 故有無相生。難易相成。長短相較。高下相傾。音聲相和。前後相隨。

第一節では、「名前があってから、たくさんのものが生まれた」とある。
続いて、「この名前は、じつは対となって生まれたのよ」を言っている。

 世の中、みんな「美しい」ということを知っていると、「醜い」という意識が生まれる。
 (もし、美という意識がなければ、イケメンも、ブサイクも平等である)

 みんなが「このことをすれば、いいと思われる」ということを分かったから、「あのことは、悪いことだ」という意識が生まれる。
 
 そのため、有の中から無が生まれる。無の中から有が生まれる。
 難しさと易しさが補い合う。
 比較して、長いと短いという意識を持つ。
 比較して、高いと低いという意識を持つ。
 音と声が響き合う。
 前があれば、後がある。

老子は、言語を分析している。
社会問題は、じつは言語の問題だ、という鋭い認識を持っている。

外国語を勉強するときも、まったく同じだ。

ものがあって、現象があって、言葉があるわけではなく、
先に、言葉があって、
私たちが言葉という枠組みを通して現象を見ているということなのだ。