マミーの生い立ち | 義母と僕とリハビリ介護日記

義母と僕とリハビリ介護日記

脳出血の後遺症で要介護4、一級障害者になった一人暮らしの義理の母マミー、娘夫婦と同居して厳しいリハビリを続けるか? 
それとものんびり施設入所をするのか?選んだ答えは「厳しいリハビリお願いします!」その日から涙を流してリハビリを頑張る
義母と僕の成長日記です。

義母マミーは2011年に脳出血を起こして重度の左片麻痺と高次脳機能
障害になった。そして目もほとんど見えなくなりました。

このマミーは今から80年前に大分県豊後高田市というところで生まれた
わけだが、マミーの両親はお互い再婚同士でお父さんの側には子供が4人。
お母ちゃん側には子供が2人いたそうだ。

ここのブログでよく名前が出てくる加代子ねえねは、マミーのお父さん
側の連れ子で、お母さん側には文子さんと美代子さんという子供がいた。

しかしこの文子さんと美代子さんは、マミーのお母ちゃんが再婚する際
マミーのお母ちゃんの実家に残された。

理由は年の近い血の繋がらない子供同士(特に加代子ねえねと文子さん)
が一緒だといざこざが耐えないと考えたからだろうとマミーは言うが定
かではない。

その後、マミーの実家に残された文子さんは10代で結婚してそこを離れ
マミーのお母ちゃんが再婚した頃まだ1、2歳だった美代子さんに関し
ては、近所でいつも馬を引いていた男の家(こんにゃく屋さん)へ養女に
出された。

なのでマミーはこの美代子さんに関しての事はほとんど何も知らない・・・。

地主でお塩を作る仕事をしていたマミーのお父さんは地元の名士だった。
大分県で2番目に運転免許を取ったというマミーのお父さんはマミーの
ことを大そう可愛がった。

生まれた時に親戚の叔母さんに

「サトル(マミーの父親の名前)にそっくりなぶさいくな子が生まれた!」

そんな風に言われたマミーだったが、お父さんやお母ちゃんにとって他に
子供がいても、マミーは大事な大事な一粒種のような子だったらしい。
(※マミーの下に綾ちゃんという妹さんもいたそうなのだが、体の弱かった
綾ちゃんが幼くして亡くなってしまってから、ますますその傾向が強くなった)

いつもスイカやメロンを食べても、甘みの多い切り口の上のほうしか食べ
ず(皮に近い部分はお母ちゃんが食べていた)。19歳までお母ちゃんと一
緒の布団で寝ていたというマミー。

雨の日は必ずお父さんが小学校まで迎えに来てくれて、女学校に行くのも
「遠いからイヤ!」とわがまま言って、その代わり近所の着物を縫う学校に
長年通っていたというマミー。

大阪に出てくる時は加代子ねえねに

「大阪行ったら着物を縫うお仕事しなさいね。」

と言われて出て来たのに、生涯通して着物を縫ったのはかっちんと兄ちゃ
んのじんべさん1枚づつ位というのだから仕方ない。

大阪に出て来たのはマミーが大分にいた頃、母方の実家のお菓子屋さんの
手伝いをしていた時に、そこに出入りしていたお菓子の卸売りの男性と仲
良くなって、その男性が大阪で商売するから、マミーに付いて来てほしい
というので、その男性と行く行くは結婚するつもりで大阪に出て来たマミー。

しかし大阪に出て来た際に、マミーが住み込みで働いていた喫茶店に出入り
していた近所のマージャン屋さんの父ちゃん(マミーの旦那さん)と出合って
しまい、遊び人だった父ちゃんに騙されてお金をどんどん貢ぐだけ貢いでし
まったマミーは、結局この父ちゃんと結婚した。

「ブスがワシに騙されて金どんどん持ってくるのが可哀想になったんや。」

生前、マミーの事をこんな風に語っていた父ちゃん。

当時、父ちゃんはマミーの喫茶店で住み込みしていた他の女の子達にも手
を出していたそうなのだが、マミーの全く人を疑う事をしらないバカさ加減
に「コイツはワシがついといたらんとどうしようもないな」と思ったそうな。

ちなみにマミーはマミーで負けじとこう言う。

「パパ(父ちゃん)は、わてがいないとお金なくて家追い出されて死んでしま
うから、可哀想だったから結婚してあげたんですよ、はい。」

おもろい夫婦なのだった。

その後、家にお金を1円もいれなかった父ちゃんの代わりにマミーは朝から
晩まで働いてかっちんと兄ちゃんを育て上げた。

1番働いていた時期には、朝4時から新聞配達、7時から正社員で働いてい
た近所のゴルフ場でのショップ店員、夕方5時過ぎからお寿司屋さんの配達
(これは配達中に接触事故を起こしたことをきっかけに辞め、その後は食堂の
レジ係りに変更)

そして夜の10時に帰宅すると少し仮眠してから、父ちゃんのやってたマー
ジャン屋さんへ父ちゃんを迎えに行く。

帰宅するのは早くて深夜2時。遅いと新聞配達の時間になる時もあった。

それでも

「私は働くのが好きだったから。」

と元気だった頃の愚痴ひとつ言わずにいた凛々しいマミーの事を僕は何気に
尊敬していた。

ちなみに今でも「私は働くのが好きだったから」と言う思いは変わらないみ
たいだが、6年前脳に損傷を追ってしまってからは、凛々しかった頃のマミ
ーとはうって変わって、幼少期の甘やかされてたマミー全開って感じなのだ。

「足が痛いんです、はい。だから寝かせて下さいな。」

「お尻が痛いんです、はい。だから寝かせて下さいな。」

「ちーくんがイビキかいて寝てます、はい。だから寝かせて下さいな。」

リハビリしてると何かにつけてサボる事しか言わないマミー。

マミーのリハビリ監督の僕としては「甘ったれてないでやりなさい!」って
感じなんだけど、娘のかっちんはこんな甘ったれマミーの事が可愛いよう
なのだ。

数日前もかっちんの事を笛で呼んでこんな事を言ってたマミー。

「わての芸名は「おかやまあゆ」にします、はい。」

「岡山アユ?」

「はい。これからは「おかやまあゆ」と呼んで下さいな、はい。」

「何が岡山アユやねん。そんなおもろい顔して岡山アユなんて可愛い芸名
あるかいな!」

「やっぱりそうですか・・・。だったら「あかしやわかめ」でいいです。
これからはわての事を「あかしやわかめ」と呼んで下さいな、はい。」

「明石家ワカメ? まぁ岡山アユよりもさよ子には似合ってるかもな。」

「ではわての芸名は「あかしやわかめ」でお願いします、はい。」

「では明石家ワカメちゃん、リハビリしますよ?」

「はい!」

もう、ほおっておくしかない二人の世界なのだった。


しかしアユとかワカメとか、もしかしてマミーお腹すいてたのかな?笑


PS
マミーの生い立ちに関しては、ここのブログをずっと見て下さっていた方々は
知ってることだろうと思いますが、もうじき「かっちん夫婦とマミーの日々」が
終了しますが、介護ブログを去る前にひとつだけどうしても書きたい事があり
ます。

なので、その記事を読んで頂く前にぜひマミ-の生い立ちについておさらい
しておきたいと思いました。

みなさまには今回書いたこの記事の内容を覚えてて頂けたら幸いです~。

(※今晩から、最終回直前の「かっちん夫婦とマミーの日々」を少しお休み
して書きたかった記事書くつもりですので・・・笑)

ではよろしくお願いします♪
(ピアノブログ楽しみにして下さっている方はもう少しお待ちください~)


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