今週の赤旗日曜版を見て、あれれと思いました。
宇野功芳先生のクラシックの記事がないぞと。

宇野功芳先生は、ご存知のとおり、気風の良い語り口で人気の音楽評論家です。
氏は、月一回の赤旗日曜版の連載を持っています。
また、宇野功芳氏は、レコード芸術で、交響曲の新譜の評論を担当しています。
でも、赤旗日曜版の連載では、交響曲に限らず、協奏曲やピアノ曲の評論をされることも多いです。
したがって、宇野氏の交響曲以外の評論を読みたければ、赤旗日曜版を購読されると良いといえよう。
限られたスペースで、密度の濃い記事に接することが出来ます。

ところで、実を言えば、赤旗すなわち日本共産党と、宇野功芳先生との取り合わせは実に微妙な取り合わせです。
宇野功芳氏はその著書「モーツァルトとブルックナー」で次のようなことを書いています。
「日本は終戦後、天皇という支えがなくなってから精神的にすっかり駄目になってしまった。誇りを失ってしまったからである。」「有形、、無形の芸術の数多くが日本に残されているのだ。芸術がなくて何が人間の平等かといいたい。それに天皇家の世襲という事実もきわめて意味深いものがある。天皇は生まれたときから天皇なのである。天皇と国民とは生まれたときから置かれている立場が違うのである。どんなに努力してもわれわれは天皇にはなれない。天皇と国民とは生まれたときから置かれている立場が違うのである。そこに運命がある。努力を超越した存在に対しては、人々は尊敬の心を持たなければならない。偉大の才能を持った芸術家に対してもまったく同じことがいえる。」
などと。
つまり天皇というもの(もしくは天才というものは)は理屈抜きで尊いものだというのです。

ところが、日本共産党の綱領では「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには 民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」などと、共和制を志向したものです。

この両者が互いに対立するものであると思われるので、いつ宇野功方が執筆を拒否するか、いつ赤旗が連載を打ち切るのか、毎月どきどきものでいます。
ここまで連載が続いたのは、宇野功芳先生が無頓着なのか、赤旗日曜版が寛大であるかのどちらか、もしくは両方ではないのかと思っています。
そんなわけで、今月で連載が終わるのではないかといつもドキドキものなのです。

そんなわけで、私見を述べます。
宇野功方の主張と、日本共産党の主張とは決して矛盾するものではありません。
確かに、一見、日本共産党は、天皇制度に反対しているようにも思えます。
しかし、その綱領には、「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存続は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」と規定しています。
これを裏から読めば、天皇制は、日本国民の支持がある限り存続するということです。
この点が、天皇制即時打倒を目指す勢力と違うところでしょうか。

ともあれ、私は、赤旗日曜版の、宇野功芳先生の記事が読みたくてたまらないのです。
良くも悪くも、私は、宇野先生に育てられて、クラシックファンのファン歴を積んできた者です。
今は、許光俊や鈴木敦史の記事に傾いてはいますけれど、宇野先生に対する敬愛の念は変わりません。
なんといっても、宇野功芳先生のおかげで、ブルックナーの魅力についての手ほどきを受けたのですから。