森鷗外を読む:「舞姫」人知らぬ恨 | レフティやすおの作文工房

森鷗外を読む:「舞姫」人知らぬ恨

―「古典から始める レフティやすおの楽しい読書」第53号別冊 編集後記


●古典から始める レフティやすおの楽しい読書●
2011(平成23)年2月28日号(No.53)-110228-人知らぬ恨「舞姫」森鷗外
http://archive.mag2.com/0000257388/20110228120000000.html


森鷗外は、夏目漱石と並ぶ明治時代を代表する文豪と言われています。
しかし、
今では夏目漱石に比べて人気がない、といいます。


《鷗外は、本当に読まれなくなっている。
それは文体の難解さ、劇性の乏しさ、それに、明治四十年代の現代小説の内容をみても、大人の心境が書かれたり、哲学的発想も多く、特に現代の若者には、まさに「古典」化していることは事実である。》
 「編集後記」山﨑國紀 p.278
 『森鷗外研究10』編集同人/谷沢永一・山﨑國紀 和泉書院(平成16.9.25)


岩波書店が平成15年に全国紙に発表した「読者が選んだ私の好きな岩波文庫100」の中に、
夏目漱石は、1位、2位、4位に『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』が、
15、16、49、85位に『三四郎』『草枕』『それから』『門』と、都合7冊選ばれている、という。


一方、鷗外『山椒大夫・高瀬舟』が94位に入っているだけ、だという。
(上記「編集後記」山﨑國紀 p.278)


《これが現実である。鷗外の責任とでも言わなければ言いようがあるまい。》
 (同)


三島由紀夫は、『作家論』(中公文庫1974.6.10)「森鷗外」の中で、


《鷗外崇拝の知的基盤であったドイツ風の教養主義は、ナンバー・スクール(旧制高校)の廃止とともに、永久に去ってしまった。》p.9
《明らかにこういう時代の移りゆきの影響がある。少くとも鷗外が「自明の神」でなくなったことはたしかであって、その代りに「より通俗的な」漱石が、依然若い世代にも人気を保っている。》p.9-10


と書いています。


《少くとも私の育ってきた時代には、「鷗外がわかる」ということが、文学上の趣味(グウ)の目安になっており、漱石はもちろん大文豪ではあるが、鷗外よりもずっとわかりやすい、「より通俗的な」ものと考えられていたのである。》p.10


とも書いています。


《「わかりやすいものは通俗だ」という考えが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思うと、この固定観念がまったく若い世代から払拭された今、かれらが鷗外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢いだともいえるのだが》p.10


《鷗外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。》p.10

と論じています。


『文豪怪談傑作選 森鷗外集 鼠坂』ちくま文庫(2006.8)の編者・東雅夫による、
巻末解説「不安と恍惚と」の冒頭でも、


《森鷗外は夏目漱石とならんで、われわれ日本人にとって「文豪」の代名詞といっても過言ではない作家、すなわち数多ある文豪中の大文豪である。ことポピュラリティの面では、『坊っちゃん』『吾輩は猫である』の国民的人気に一歩をゆずるとは申せ、玄人筋による評価の点では、鷗外が漱石を断然凌駕しているという印象を禁じえない。》


と書いています。


私は、元々短編が好きということもあり、
また、高校生時代に学校の夏休みの宿題に『こころ』を読まされたときの印象の悪さから、
漱石よりも、教科書で読んだ「最後の一句」の印象から、鷗外を好んでいます


とはいえ、鷗外は、創作、翻訳、論文、日記、地図まで多方面に活躍し、
内容的にも創作は小説、短歌、戯曲があり、翻訳も同様に小説あり戯曲あり、
小説では現代ものあり歴史ものあり、小説と呼ぶべきかどうかという史伝あり、と多彩です。


私が今までに読んだ鷗外の作品では、
やはり「舞姫」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「ぢいさんばあさん」「高瀬舟」「最後の一句」といったところを、
楽しくおもしろく読みました。


まずは、この辺をお読みになられるのが良いかと思います。