安心して食べることと、動的平衡との関係 | ラウレア グリーンズ

ラウレア グリーンズ

ラウレアグリーンズは、衣食住を通じて
もっと自分自身が生きやすく、のびのび表現できる
心地よい暮らしを実践し、提案していきます!

皆さま、こんにちは
Yukoです

9月にりんごの発送が始まってから、今年も素敵なお便りをたくさん頂いています。
少しご紹介させていただきます。

今年は、あれほど夏が暑かったことを思うと、無事にりんごが実ったことに、ただひたすら感動してしまいます‼
本当にありがたい自然の恵みですねp(^_^)q


今シーズンも美味しいりんごを食べて
快適にすごしたいです!
異常気象が続いて、大変な思いをされながら
大切に育ててくださった、りんごですね・・・
ありがたいです。楽しみに待っています。

ラウレアのりんごが、始まると子供達がりんごを食べ始めます。
“おいしいりんご、おいしいりんご”と止まらなくなるようです。
それまでは私がりんごを食べていても「りんごは、キライ、イラナイ」と手をつけません。


スーパーのりんごは1日2、3個食べないと満足できなく、何となく貪るように食べてまうのですが、
こちらのりんごは1個で満足できるので驚きました。
エネルギーがいっぱいで波動が高いからでしょうか。
自分が丁寧に頂ける姿勢になれるのも嬉しいです。


シナノもふじもとてもおいしくて子供たちが大喜びです!
スーパーのと違うね!と言っています。
(うちの子たちはフルーツの味にうるさいです(+o+) 特に5歳の娘がかなり厳しいです!)

シャキシャキと、とても新鮮で、おいしいです\(^o^)/
安心して食べられるって、幸せな感じです。
そういう食べ物が増えるといいな~


今年もりんごさん、とても美味しいです。
送っていただいて、ありがとうございました。
去年に引き続き、5家族で分け分けしていただいております。
どのご家庭でも好評で…
とくに、1歳二ヶ月の子どもさん。
今までりんごを食べても吐き出していた子が今日パクパクと♡
やっぱり良いものはわかるんですね。


こちらはお天気のよい乾燥した日々ですので
冷んやりした口当たりのよいりんごが
とても美味しく身体に染みわたっていきます。


ラウレアのりんごをまだ食べたことのない方、ここまで読んだら、「食べてみなきゃ
」って思いませんでしたか?
そうです、ぜひ食べてみてください。

ラウレアのりんごをご購入くださる方は、「りんごを買って食べる」、というだけでなく、りんご農家さんへお心を寄せてくださって、本当に有難い限りです。
つながるってそういうことですよね。
よく知っているところから買う、納得できるものを買う、信頼できるものを買う、というのはそういうことだと思います。

こちらが求めるばかりでは何事も始まらない、進んでいかない、とりんご農家さんと皆さまのやりとりを見ていると、本当にそう思います。
双方向からの優しい思いがあるからこそ成り立つのだと思っています。
ありがとうございます。

「安心して食べられるって、幸せな感じです」と書いてくださった方がいらっしゃいました。
ご信頼くださってありがとう
その信頼にお答えできるよう、りんご農家さんもますます頑張ってくださると思います。


毎日、安心して食べていらっしゃいますか?
今食べているものが直接私たちの身体になっていきます。
日々、身体は入れ替わっています。
「体の入れ替わる速度」というページを見つけました。見てみてください。骨も脳も、みんな入れ替わっています!!)

入れ替わる・・・ということから、”動的平衡”という言葉を思い出して福岡伸一著「生命と食」をまた読んでみました。
(福岡伸一著「動的平衡」もお勧めです!)
その中から一部抜粋させていただきます。

「絶え間ない流れの中にある生命」
食べ物の分子そのものが体を一瞬作り、それが分解されて、また流れていく。
体というふうに見えているものは、そこにずっとあるわけではなくて、絶え間なく合成されて分解されていく、流れの中にあるのです。
そして、それはどんな分子でも例外ではありません。分裂しない脳細胞でも、生まれたときから死ぬときまで、例えば八〇年間、そこに同じ原子があるわけではないのです。細胞としてはずっと同じ位置にありますが、細胞の中のタンパク質もDNAも、ものすごく速い速度で、全て入れ替わっています。
皮膚や髪は、剥落したり抜けたりするので、入れ替わることが実感できますが、硬くてかっちりした印象を与える骨や歯のようなものでも、その中身は入れ替わっています。体のすべての分子は食べ物の分子と絶え間なく入れ替わり、全体として流れているのです。
このようにして、シェーンハイマーは、生命が絶え間のない流れにあることを明らかにし、その有り様に「動的平衡」という名前を付けました。

「選択の自由はあるか」
かつてはこのように、人の手が加わった食材は作られた瞬間から悪くなっていくという時間感覚が当たり前だったのに、私たちはあまりにも人工的な食材に慣らされてしまい、いつまで置いても色も変わらず腐りもしないことに、驚くこともいぶかることも、なくなってしまいました。
もし、私たちが食の選択の自由を、より自らの手に取り戻そうとするなら、まず必要なのは、私たち自身の食に対する感覚を、より等身大のものとして取り戻すことではないでしょうか。

「安ければいいのか」
食べるという行為は、これまで見たとおり、生命や健康に第一義的に関わってくるものです。そこにお金をかけずして何にお金をかけるというのでしょうか。確かに、プロセスが見えるようにするにはコストがかかります。しかし、こう考えてみたらどうでしょう? スーパーに牛乳の一リットルパックが二種類並んでいる。一つはごく普通に流通している二〇〇円の牛乳。もう一つのほうは、自然な牧草や有機栽培された植物性飼料で牛を育て、余計な人工飼料は一切使っていない二五〇円の牛乳。二〇〇円の商品に比べれば、二五〇円の商品は確かに二五%割高です。だが、その差はたった五〇円にすぎない。その五〇円が払えないものでしょうか。安全と安心のために五〇円多く払うのが金持ちの論理なのでしょうか。
小さな出費が積み重なれば、全体として食費が増えるのは確かでしょう。その一方で、私たちは月に二、三万円もの携帯電話料金を平気で支払っていたり、何十万円もするブランド物のバッグを買っていたりする。食費にしても、五〇円高い牛乳を買いしぶりながら、ペットボトルや缶入りの飲料を買う出費は、あまり気に留めていなかったりするのではないでしょうか。そういった金銭感覚のギャップを指して、「遠近感」がおかしいといいたいのです。

「食物、環境、生命」
私たちを形づくっている分子は、自分のものであって、自分のものではない。一瞬は留まっているけれど、私たちの中を通り抜け、次の瞬間には別のところへ流れていきます。
呼吸をして体外へ出ていった二酸化炭素は、部屋から外へ出て、植物に吸収され、木の実や葉を構成します。岩石の一部になるものもあるかもしれません。海の中へ流れていき、海藻やプランクトンの一部になって魚に取り込まれ、また私たちの食べ物として戻ってくることもあるでしょう。
食物の分子はそのまま私たちの分子になる。それゆえに、もし食物の中に、私たち生物の構成成分以外のものが含まれていれば、それがどんなに安全で無害なものとされていようとも、余分な分子、人工的な分子は私たちの身体の動的平衡に負荷をかけてしまいます。それらを分解し、排除するために余分なエネルギーが必要となり、平衡状態の乱れを引き起こすからです。ここに、できるだけ中身の見える、プロセスの見える食を選ぶべき生物学的根拠があるのです。
食物とはすべて他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっています。だから自分の健康を考えるということは、環境のことを考えるということであり、環境のことを考えるということは、自分の生命を考えるということでもあるわけです。


言葉は違えど、同じようなことをいつもMakoが話しています。
Makoから皆さんにお伝えしたいことがいっぱい・・・。

1月10日、11日のクラスのお申し込み、お待ちしています。
そのクラスのあとで、ドゥエルブランシュさん主催のクラスも決定しました。
お時間の大丈夫な方はこちらのご参加もお待ちしています




今日も楽しい一日でありますようにー!!





クリックお願いします