洗礼ヨハネと私 | 統一原理の生活化

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「洗礼ヨハネと私」


イエス様が十字架に架けられた最大の原因は、

洗礼ヨハネにあったと、原理では解いています。


洗礼ヨハネは一度はイエス様をメシヤだと証したのです。ところが途中から疑い始め、その結果、イエス様は十字架の道を行くことになりました。


なぜ、洗礼ヨハネの心は変わったのか?簡単にまとめると…


①イエスは、自分の事をエリアの再臨だと言ったが、自分は聖書にあるように、雲に乗って来なかった。


②イエスとヨハネは従兄弟で、小さい頃から知っており、イエスを人間的に見た。


③メシヤに対する神秘的なイメージがあっが、イエスは外見は普通の人間だった。


④イエスをメシヤだと証せば、自分の弟子がイエスの元に行ってしまうという社会的面子と威信。


一度はヨハネは、自分自身の事をエリヤの使命者だと語り、イエスの事もメシヤだと語りました。


ところが、メシヤを証すという霊的な使命が終わって、一人の弟子として従っていく使命に変わったとき、霊的な導きがなくなり、人間的な思いが出てしまったのです。


このような事は信仰を持つ者にとって、よくあることです。「信仰が大きくなれば現実が小さくなり、信仰が小さくなれば現実は大きくなる」のです。


私が最初に教会に来たとき、すぐに1800組の祝福がありました。その後、祝福を受けたばかりの方に会いました。


大先輩の祝福家庭を目の前にして、神様に会ったような感覚になりました。聖霊の体験のような慰労と感動を感じたのです。


これは恐らく、その先輩家庭も祝福直後で、霊的な恩恵に包まれていたのと、私も原理を聴いたばかりで、霊的に高まっていたからでしょう。


そしてしばらくして、また先輩家庭にお会いしたのですが、以前のような感覚はありませんでした。


その人自身は何も変わらないのに、自分の霊的基準で見方が変わってしまいます。洗礼ヨハネが通過した試練は、常に私自身にも起こりうる事を肝に銘じたいものです。


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洗礼ヨハネの葛藤


洗礼ヨハネは、最後まで苦悩しました。イエス様は本当にメシヤなのか?本心ではわかっていたのかも知れません。しかしどうしても、受け入れられなかった。


洗礼ヨハネのつまづきの原因は色々ありますが、

突き詰めると愛の減少感でしょう。


この愛の減少感、一筋縄ではいきません。幼いときに、弟の方が愛されて、兄が嫉妬する次元は可愛いものです。大人になったら、なったで、自分より他の人の方が認められていると思ったり。


信仰でも同じことがいえます。信仰が長くなっても、長くなったなりに、愛の減少感を感じます。

最後の段階は、メシヤに対する減少感です。


文先生に近くなってくると、今まで見えなかったものが見えてきます。今までは高すぎて、見通せなかった存在が、自分が高くなると、頭の上まで見えてしまいます。


自分の方が能力がある、自分の方が愛がある、自分の方が人から慕われている…メシヤと自分を比較できる範囲まで近づいてきます。洗礼ヨハネはそのような立場でした。


極端な話、仮にメシヤより自分の方が能力があったとしても、天から来た人と、地から生まれた人は、決定的に違うことを肝に銘じるべきです。

神とサタンが認めた人かどうかが、全く違うのですから。


最後の最後まで、この愛の減少感には注意が必要です。



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