少年イエスの孤独 | 統一原理の生活化

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「少年イエスの孤独」


霊能者の証


イエス・キリストという言葉を聞いて、何をイメージしますか?


イエス様は聖人、偉大な指導者…しかしイエス様の本当の心の内を知っている人は、いませんでした。クリスチャンだったとしても…


聖書にはイエス様の幼少時のことを、こう書いています。「イエスは、ますます知恵が加わり、背丈も伸び、そして神と人から愛された」(ルカ2:52)


確かに神からは愛されたでしょうが、本当に人から愛されたのでしょうか?


大母様(霊能者)は、こう語っています。


〜〜〜


イエス様は馬小屋で生まれたとき、とても寒かったのです。包む布が何もないので、(聖母)マリアは自分の帽子でイエス様を包みました。


イエス様が言うには、神の子であったから死ななかったが、普通の人であったなら、凍って死んでしまっただろう、というのです。


この世の乞食であっても、自分の子供に服を作ってやるのに、自分はそれすら、してもらえなかった。


生まれた子供を見ても、自分に似てないと、ヨセフ(マリアの夫)は言ったのです。


子供は男なしには、生まれる訳はないのだから、この子の父親は誰か、といつもマリアをいじめていたのです。


マリアはそんな中でイエス様を育てたので、思う存分、乳をやることもできませんでした、というのです。


イエス様はいつもお腹がすいていました。小さいころ、あまりにもお腹がすいたので砂を持って「米になれ、米になれ」というと砂が米になり、それを食べたといいます。


イエス様が小さいころ、山で遊んでいるうちに、友達が落ちて、死んだことがありました。その親がやってきて「イエスよ、お前が殺したのだ」と言いました。


イエス様はびっくりして、死んだ子に「死ぬにしても、この濡れ衣を晴らして死んでくれ」というと、子供が目を開けて「お母さん、この人が私を落としたんじゃない」と言って、死んだといいます‥‥。


〜〜〜


イエス様は大工ヨセフとマリアが約婚中の時に、「聖霊によってみごもった」といわれています。

ヨセフにも啓示が降りて、マリアが聖霊によってみごもる事は告げられていました。


しかし実際に産まれてきたイエス様を見たら、

人間として「一体誰の子だろう」と思うのが人の情です。


わが子を馬小屋で産まなければならなかったのはなぜでしょうか?どんなに宿が混んでいたとしても、頼み込めば、身重の妊婦を泊めてくれるはずです。


イエス様が12歳の頃、家族で祭りに出かけて、迷子になりながら、それに気づかず三日間、行方がわからなかったという聖書の記述があります。

マリアが気づかなかったはずはありません。これはどういう状況なのでしょうか?


信仰はありながらもイエス様を受け入れず疑いの目で見ていたヨセフ。そのヨセフの心を知って、気兼ねしながら過ごしたマリア。


イエス様を母として愛そうとしても、他の兄弟のように愛することができませんでした。その両親の気持ちを敏感に感じながら、幼少時を過ごされたイエス様。その孤独な世界を今まで、誰が察したでしょうか?


そのような観点で聖書を読み直してみると、今までわからなかった、イエス様の心が見えてくるのです。


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イエスと神の愛


イエス様は幼少時から親の愛を受けることができず、孤独な道を歩まれました。そういうイエス様がどうして愛の人間になられたのでしょうか?

それは神の愛を知ったからです。


文先生は、どのように神の愛を知ったのか?という質問に対し「親の姿を通して」と答えられました。親が子供を命がけで愛する姿の背後に、神の愛がどういうものかがわかったというのです。


しかしイエス様は、親の姿に神の愛を発見することはできませんでした。イエス様は、自然を通して、祈祷を通して神がどういう方であるかが、わかったのだと思います。


イエス様は、いつも孤独なとき、自然の中におられました。自然や動物の姿の背後にある神の愛、祈祷の中で神の声を聞き、体験を通して、導かれる神の働きを感じられたのです。


同じように宗教の道に来る人も二つのタイプがあります。親や周囲の愛の中で育ってきた人。世の中から見捨てられたような中から、道を求めてきた人。


たとえ環境は違ったとしても、神は同じように導かれます。見捨てられたような立場にあっても、神の愛は注がれている。


そしてイエス様が知った神様は、同じように見捨てられた神でした。そんな事をイエス様の姿を通して知ることができます。



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(六の巻 おしまい)