・自らの命と引換えに多くの人を救った自衛隊員の話 ~戦後日本で失われたもの~ | アジアの真実

・自らの命と引換えに多くの人を救った自衛隊員の話 ~戦後日本で失われたもの~

人間を矮小化してはならぬ 狭山ヶ丘高等学校学校長 小 川 義 男

先日、狭山市の柏原地区に自衛隊の練習用ジェット機が墜落しました。たまたま私は、寺田先生と共に、あの近くを走っていましたので、立ち寄ることにしました。すでに付近は閉鎖されていて、近くまで行くことはできませんでしたが、それほど遠くないあたりに、白煙の立ち上るのが見えました。
見上げると、どのような状態であったものか、高圧線がかなり広範囲にわたって切断されています。高圧線は、あの太くて丈夫な電線ですから、切れるときはぷつんと切れそうなものですが、多数の細い線の集まりからできているらしく、ぼさぼさに切れています。何カ所にもわたって、長くぼさぼさになった高圧線が鉄塔からぶら下がっている様は、まさに鬼気迫るものがありました。
聞くと、操縦していた二人は助からなかったそうです。二佐と三佐と言いますから、相当地位の高いパイロットだと言えます。二人とも脱出を試みたのですが、高度が足りなく、パラシュート半開きの状態で地面に激突し命を失った模様です。
以前、現在防衛大学の学生である本校の卒業生が、防大合格後航空コースを選ぶというのを聞いて、私がとめたことがあります。「あんな危ないものに乗るな」と。彼の答えはこうでした。「先生、戦闘機は旅客機より安全なのです。万一の場合脱出装置が付いており、座席ごと空中に打ち出されるのですから」と。
その安全な戦闘機に乗りながら、この二人の高級将校は、何故死ななくてはならなかったのでしょうか。それは、彼らが十分な高度での脱出を、自ら選ばなかったからです。おそらく、もう百メートル上空で脱出装置を作動させていれば、彼らは確実に自らの命を救うことができたでしょう。47歳と48歳と言いますから、家族に取りかけがえもなく尊い父親であったでしょう。それなのに、何故彼らはあえて死をえらんだのでしょうか。
実は、あの墜落現場である入間川の河川敷は、その近くに家屋や学校が密集している場所なのです。柏原の高級住宅地は、手を伸ばせば届くような近距離ですし、柏原小、中学校、西武文理高等学校もすぐそばです。
百メートル上空で脱出すれば、彼らは確実に助かったでしょうが、その場合残された機体が民家や学校に激突する危険がありました。彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近しました。そうして、他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させたのです。
死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったものは、家族の顔でしょうか。それとも民家や学校を巻き添えにせずに済んだという安堵感でしょうか。
他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神の何と崇高なことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的死を選ぶことができますか。私は、おそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います。私も必ずそうするでしょう。実は、人間は、神の手によって、そのように作られているのです。
人間はすべてエゴイストであるというふうに、人間を矮小化、つまり実存以上に小さく、卑しいものに貶めようとする文化が今日専らです。しかし、そうではありません。人間は本来、気高く偉大なものなのです。火災の際の消防士の動きを見てご覧なさい。逃げ遅れている人があると知れば、彼らは自らの危険を忘れて猛火の中に飛び込んでいくではありませんか。母は我が子のために、父は家族の為に命を投げ出して戦います。それが人間の本当の姿なのです。その愛の対象を、家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を我々は英雄と呼ぶのです。
あのジェット機は、西武文理高等学校の上を飛んで河川敷に飛び込んでいったと、佐藤校長はパイロットの犠牲的精神に感動しつつ語っておられました。
しかし、新聞は、この将校たちの崇高な精神に対して、一言半句のほめ言葉をも発しておりません。彼らは、ただもう自衛隊が、「また、事故を起こした」と騒ぎ立てるばかりなのです。防衛庁長官の言動も我慢がなりません。彼は、事故を陳謝することのみに終始していました。その言葉には、死者に対するいたわりの心が少しもありません。
防衛庁の責任者が陳謝することは、それはもう当然です。国民に対してばかりか、大切な隊員の命をも失ったのですから。しかし、陳謝の折りに、大臣はせめて一言、「以上の通り大変申し訳ないが、隊員が、国民の生命、財産を守るため、自らの命を犠牲にしたことは分かってやって頂きたい。自衛隊に反発を抱かれる方もあるかも知れないが、私に取り彼らは可愛い部下なので、このこと付け加えさせてもらいたい。」くらいのことが言えなかったのでしょうか。隊員は命を捨てて国民を守っているのに、自らの政治生命ばかり大切にする最近の政治家の精神的貧しさが、ここには集中的に表れています。まことに残念なことであると思います。このような政治家、マスメディアが、人間の矮小化をさらに加速し、英雄なき国家、エゴイストのひしめく国家を作り出しているのです。
人は、他人のために尽くすときに最大の生き甲斐を感ずる生き物です。他人のために生きることは、各人にとり、自己実現にほかならないのです。
国家や社会に取り、有用な人物になるために皆さんは学んでいます。そのような人材を育てたいと思うからこそ、私も全力を尽くしているのです。
受検勉強で精神的に参ることもあるでしょうが、これは自分のためではなく、公のためである、そう思ったとき、また新しいエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。受験勉強に燃える三年生に、連帯の握手を!

 

 前回の記事のコメント欄 でも紹介がありましたが、これは1999年11月の自衛隊機墜落事故の際、この近くを通りがかった高校の校長先生が学校通信に掲載した文章です。墜落直前に脱出の時間があったにもかかわらず、住宅地への墜落を防ぐ為にぎりぎりまで操縦を続け、その結果パイロットは助からなかった。先日紹介した台湾の話 と非常に状況が似ている為紹介しました。


 台湾と同じように神として祀れとは言いませんが、家族もいるであろう年齢の自衛隊員が自らの命と引換えに多くの人の命を救った出来事に関して、マスコミが総じて単なる「自衛隊批判」の論調だったことが日本の病理を表しています。かつての日本はそうではなかったはずです。 ”他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ”この精神が戦時中も現在も共通であったのに、つまらぬ政治思想を立てる為にその行為を素直に称え、感謝する精神は残念ながら日本から失われてしまったのでしょうか。そうだとすればこの戦後の60年あまりの間に、日本は非常に悲しい道をたどってしまったのだと言わざるを得ません。

 

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