・「高砂義勇兵慰霊碑」落成 ~故郷に眠る大和魂を持った台湾人の英霊達~ | アジアの真実

・「高砂義勇兵慰霊碑」落成 ~故郷に眠る大和魂を持った台湾人の英霊達~

高砂慰霊碑1


「高砂義勇兵慰霊碑」移設と落成記念式典 :産経
≪李登輝前総統「日本人の善意が英霊追悼」≫
 【烏来(台湾台北県)=河崎真澄】日本統治下の台湾で太平洋戦争に日本兵として出征した先住民出身「高砂義勇兵」の戦没者を祭る英霊慰霊碑の移設と落成を記念する式典が八日、台北郊外の烏来(ウライ)郷で、前総統の李登輝氏や日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の池田維代表など、約百人の日台関係者が参列して行われた。
 慰霊碑は遺族らの手で一九九二年に烏来郷に建立されていたが、二年前に地権者に撤去を求められた。その窮状を伝えた産経新聞の記事をみた読者などから三千二百万円を超える義援金が寄せられ、日台関係者の支援により代替地への移設と再建作業が進められた。
 碑文に「霊安故郷(英霊は故郷に眠る)」と揮毫(きごう)している李氏は、「日本の人々の善意が台湾に届き、台湾の英霊を追悼し遺族を慰めた。慰霊碑には悲しい歴史を成長に切り替える力がある」として再建立をたたえた。
 また池田代表は、「現在の日本の繁栄が多くの台湾の方々の尊い犠牲の上に成り立っていることを、日本人は片時も忘れてはならない」と強調した。
 慰霊碑の管理団体で遺族が昨年設立した社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の簡福源理事長は、「これで日本の軍人軍属として勇敢に戦った高砂義勇兵の慰霊碑を永久に残すことができる」と再建支援した日本の関係者に感謝の言葉を述べた。産経新聞社から羽佐間重彰取締役相談役が式典に参列した。

 戦時中日本軍に志願し、大和魂を持って勇敢に戦った台湾原住民高砂族の慰霊碑。土地整理と資金不足の為に撤去の危機にありましたが、日本からの多くの募金が実り、無事移設され、昨日落成式が行われました。
 高砂族のことは当Blogでも幾度か取り上げていますし、他のサイトでも詳しく取り上げられていますので多くの方がご存知だと思いますが、ここに高砂族のエピソードを改めていくつか紹介したいと思います。
 
「おにぎり」
 ある元日本兵は、同じ部隊で戦い、戦死した高砂族を慰霊するため、この碑に赴き、そこで昼飯にと差し出されたおにぎりを見て、いきなり涙を流し、慟哭をはじめたそうです。「俺はこの握り飯を彼の前で食うことはできない。」と。彼の部隊は東南アジアで作戦中、食料不足で飢えに苦しみました。そこで足腰が強く、ジャングルに強い高砂族の兵士が、遙か後方の基地まで食料を取りに行ったそうです。しかし何日待っても帰ってこない。様子を見に行ったら、彼は部隊まであと少しというところで、両手一杯の米を抱えて餓死していた。米を持ちながらの餓死。信じられるでしょうか。餓死するほどの限界に達しながらも、多くの日本兵が心待ちにしている食料には一切手をつけなかったのです。慟哭した元日本兵は、そんな彼の霊前で握り飯を食うことができなかったのです。

「大和魂が欲しかった」
  国籍が変わった事で、軍事貯金に在った筈の給料も、当然の様に支給される軍人恩給さえも受け取られない。負傷し台湾に戻った高砂義勇兵は”生きながらの英霊”となっても、何の恩恵も受けられないでいた。しかし、戦後高砂義勇兵の一人は当時を思い起こし日本語でこう言った。

台湾は日本国の一部。あのときは日本のため、天皇陛下のために誰もが進んで 戦う気持ちが強かった。日本精神。大和魂ですよ。血書志願したのに兵役検査で落ちて、一晩泣いた人もたくさんおりますよ」

更に高砂義勇兵の一人はこう言った。

ヤマトダマシイが欲しいから志願した。学校で習った。肉弾三勇士。あんな写真が欲しかった。私は軍属で、階級もない。靴もない。蕃刀1本だけ。靴が無いのは特別切り込み隊だから。音がするでしょ。訓練のときも、船に乗るときも裸足。みんな裸足。それから、ソロモン行って戦争した。最後はタマもなくなって、銃も捨てた。蕃刀1本で突撃するんです。」
 靴も、階級も、勲章も、そして結局は”手当て”さえも手にすることなく、蕃刀1つでジャングルを駈けた高砂勇士が確実に手に入れた物が一つだけある。それは現在の我々日本人では到底手に入れる事のできない大和魂であった。

「勲章が欲しい」還ってきた台湾人日本兵より
「もっと早く来てくれたらよかった」「もっと早く来てくれたらよかった」
 帰り際にその男は、私の姿が見えなくなるまで、何度も何度もこう叫んだ。防犯用に金網 がはまっている自宅の土間のなかから、両手で金網をしっかりつかんで。さも囚人が鉄格子 のなかから娑婆に向かって叫ぶがごとく。
 名前を蔡江漢(民族名・ダイシタンガ、日本名・立山信吉、78)といった。第二回の高砂義勇隊でニューギニア島のポートモレスビーとニューブリテン島のラバウルに従軍したという。突然の来訪者が日本人だと知って、蔡はこう切り出した。「一円も返ってこないじゃないか」。

(従軍時の給料などで)軍事貯金に何百円もあった。でも戦争終わって一円も返ってこな い。(日本政府に)何度も申請したがだめだった。(敗戦時に)日本人の隊長に言われて( 高砂義勇兵はみな)通帳もなにもかも書類、一円、二円の札(軍票)も焼いた。分かったら 捕まると言われてね。(家にあった書類も)戦後、国民党にみつかったら危ないと思って、 焼いてしまった。日本なくなってしまって。貯金何もなくなった。
 勲章もらえるばずだ。貯金だめなら勲章ほしい。 あんなに勇敢に戦った。この村では男全員が志願した。あるものは片目(目が不自由)でも 志願して訓練いった。勇ましい男だと。誰も置いて行かれたくない。
 島では迫撃戦。ニューギニアでアメリカ兵とぶつかった。蕃刀と三八式歩兵銃と弾八十発 だけ。見事にやっつけた。イモやサトウキビ、サトイモ、島にはなんでもあった。山ブタや 鳥を銃で撃って捕って、日本兵に食べさせた。食べ物探すの(高砂義勇兵の)仕事。日本兵 (食糧の現地確保は)できなかった。
 ソロモンのあと、東京に着いた。宮城崇拝して本当に涙流れた。そこで休んで台湾に戻っ た。もう役目終わったと言われて。でも二十歳のとき。何もしない寂しいでしょ。(まだ戦 争中だというのに若い自分が村にいるのは)重苦しい。もう一回、志願したら、巡査に「上等だ」と誉められた。陸軍志願兵で訓練のために台中に送られた。そこで半年訓練受けたら 終戦(になった)。勲章もらえるはずだ。
~中略~
 今の日本?そりゃいい気持ちでないよ。そのとき(従軍を志願したとき)はそのとき。今は今でしょ。終戦で戻ってずっと農業してた。苦しかった。食べるだけ。 もう遅いよ。もっと早く来たら(書類など)何でもある。もう遅いよ。
 家を辞して坂道を下りながら蔡の叫びが遠くなっていくのを聞いた。ほんとうの囚人は鉄格子のこちら側にいた。

 当時、日本という国に所属していたことを誇りに思い、日本という国を守る為、そして自らの民族の誇りの為に、文字通り命をかけて勇敢に戦った高砂族の戦士達。そんな彼らに日本は十分な補償もしておりません。それに対して、「貯金だめなら、せめて勲章ほしい」と訴える元日本兵である高砂族の老人。彼は日本に賠償金を求めているのではないのです。自分が軍で働いて、貯金していた給料をもらえないだろうかと訴えているだけなのです。そしてそれがかなわぬなら、かつて日本の為に、日本兵として勇敢に戦った証である勲章をせめてもらえないだろうかと。その心中を察すると、心が暖かくも重くなります。
 
 本来日本が建てなければいけないはずの慰霊碑も、最初は台湾人の手によって建てられました。彼らの恩に、日本は何も報いていなかったのです。それが資金不足の為に撤去の危機にあると聞いたとき、多くの日本人からの募金が集まり、そして再建されたということは、高砂族の英霊の方々へ、少しながらも日本人が恩返しできたのではないかと、嬉しく思えます。私も小額ながら募金させて頂きましたが、心から良かったと、晴れやかな気持ちでこのニュースを聞きました。

 かつて日本人として、日本の為に戦った台湾原住民高砂族の英霊の方々が安らかならんことを心からお祈り申し上げます。
 
 そしていつの日か、私も自らの足でこの地を訪れ、一礼を捧げたいと思います。


参考サイト:高砂義勇伝~異国で眠る皇国の戦士~

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参考書籍:
還ってきた台湾人日本兵
河崎 真澄
4166603086

台湾人元志願兵と大東亜戦争―いとほしき日本へ
鄭 春河
4886561624