京都に行った理由は
薬害のDVDを
撮影するのが目的だった。
厚生労働省の立会いの元に
撮影業者も居たんだけど、
プロなのに動画の
編集もしないという。
これじゃ
予算があるか?
予算がないのか?
は、解らないが
薬害を何だと思っている。
打ち合わせなしの
プロがどこにいる。
愚かなのは
厚生労働省と
請け負う業者だ。
金、金、金、
被害を受けた者を
二度殺す(怒)
負けてたまるか!!
朝、我家をチャリで出る。
うぉーーーと声が出る!
が、チャリだし、
それも革ジャンww
撮影だろww
暴走族だぜwww
パフパフパフの
ラッパはないが、
最寄りの駅まで
自転車の旅。
撮影場所は
寺町近辺の
スタジオでした。
私は脳内出血をしてから
原稿は手放せません。
2008年に脳の右視床から
脳内出血を起こしました。
そして、2015年2月11日時には二度目の左脳が内出血を起こしてしまいました。全国で脳疾患の人は117万9000人います。その内の一人です。2年前の4月3日に右不全麻痺が残りますが無理を言って退院させてもらいました。自分は、じっとしてはいられない性格です。そして、翌日よりオートバイには乗っています。リハビリテーション病院に通院をして治療し580日で卒業とあいなりました。家族にはお医者様から二度と話しは出来ないと言われていたそうです。しかし、会話は出来ます。ただ、記憶を留める事が出来なくなっておりますので原稿を見ながらのお話をさせて頂きます。申し訳ありません。
自分のおいたちに
ついてお話します。
薬害C型肝炎 名古屋の宮井留志(みやい るうしい)と申します。変わった名前ですけど純日本人です。明治生まれの父が名つけてくれました。私が女の子の名前で、妹に男の名前がつけられています。住まいは愛知県半田市に居を構えております。
私は22歳のときにオートバイの交通事故で右足は膝下からその場で千切れました。その時に内臓破裂(十二指腸破裂)をしておりました。他にもありますが省きます。
その内臓破裂の際の手術でフェブリノゲン製剤(血液製剤)が
使われ薬害C 型肝炎に感染したと云う事になります。
肝機能の数値が落ち着かないので、切断した足の断端形成の手術が出来ずに7ヶ月入院しておりました。
自分に取っては、命とはなにか?を、考える貴重な時間だったと思います。きっと、他人様と違う生き方が出来たのは、その時に考える時間があったからだと思います。
私が入院している間に長女が同じ病院で生まれました。嬉しいことです。足はなくなるし子供が生まれくるので悩んでいる暇は正直なかったです。その後、23才で法人を立ち上げて20年間の経営をしておりました。
体調は、毎日の事ですので疲れやすいと言われていますが判りません。でも、きっと完治したら生まれ変われると思っています。既に完治した方の意見をみると血糖値が下がったとかの情報もあります。肝炎ウィルスを持った方は色々な病気に悩ませられています。私も糖尿病を併発しています。
差別などはありますが、さほど気にはしません。例えば、歯医者さんでの話です。カルテに肝炎と赤ペンで書いてありました。
書くのは構わないが、それを私が見える所に置くのは非常識だと思いました。肝炎だと、器具を揃えるのに時間がかかり、すぐにやってくれません。そういう歯医者は通うのを止めました。
42歳になるまで、輸血によってC型肝炎に感染したと思っていましたので、人生は太く短く、楽しむ事を第一にしておりました。治療する気はありませんでした。自分は20年で肝硬変になり肝臓癌になって死ぬ確率は高いと、若くして言われていましたので、35才まで働いて10年間遊び45才で死ぬという人生設計を立てておりました。
今年で53才になりますが、私にとってはおまけの人生なんです。治療のきっかけは、厚生労働省のホームページを見て執刀してもらった病院がリストに入っていたのです。以前は、公表もされていませんでした。病院では自分の名前が変わっているので執刀医も事務局長も覚えておりました。そして、カルテを調べてもらったら血液製剤が使われていたのです。そこから、意識が変わりました。このままでは祖国に殺されてしまう。
死ぬ前に、祖国を怨みながら死にたくないという思いから治療をする事を決めました。今も国を良くする為には被害を受けた者が、顔をあげて実名で闘わなければ変わらないと思っています。このDVDに出るのもそれと同じです。
治療に関して話します。
一度目は一年間の予定で非常に辛い物でした。
ベク・インターフェロンとリバビリンの2剤併用で望みました。
これは、日記に書いてありました。2010年7月14日 朝の10時にベク・インターフェロンを注射を打つ。視野が明るくなり精神のアップ・ダウンが激しくなる。午後に次女が来宅して様子を見に来てくれました。16時 悪寒があり熱が出始める。7月なのにフリースを来て毛糸の帽子を被るが悪寒は更に続く。17時30分 食事を取る。無理してお茶漬けを流し込むがかなりキツイ状態。食後にレベトール(リバビリン)を初めて飲むが数分後あきらかに副作用あり、熱は39.7度まで上昇。ロキソニンいう解熱剤を飲むが身体は震え、脈拍は213まで急上昇。18時30に峠は越えた感じがする。19時30には安定し食欲も復活。熱は37.4度まで低下する。妻に感謝! 必ず完治します。キツイとは聞いていたが、このレベルのキツさは何度も経験しているので、気分は上昇する。負けませんよ。と書いてありました。
7月15日 朝5時に起床 眼圧が上がっている感じがする。
6時30分 かるく食事をとり血圧降下剤を服用する。
7時00分 朝食を取りレベトールを服用する。
7月16日 昨夜は寝汗をかきながらも熟睡が出来た。
今朝は快調である。朝食後のレベトールの服用後も
調子がよい。どうやら水・木以外なら日常生活は可能だろう。
痛みは生きているから感じることが出来る。それは生きている喜びのはずである。日常においての痛みを感じる行為は実は貴重な事であるはず。自分は義足になって常に痛みと同居している。それは痛みを知らない人には解らない。それは自分に取って財産です。
肝炎の治療は辛いが我慢できる状態でした。一週間の内、水曜日にベク・インターフェロンを投与するので2日間は気持ちは落ちます。金曜日になると薬が抜けて食が戻るので気分はアップになります。翌週の火曜日になると明日、投与されるという気持ちがまた落ちるのです。丁度、振り子のような状態です。治療40週目の時に311の東北震災が起こりました。毎日、流れてくる津波と爆発した原発に映像に心が折れました。振り子はハードルを越える事が出来なかったのです。急に生きている価値がみえなくなり一過性の鬱病に陥りました。副作用にある自殺念慮でした。ドクターストップで治療は停まりましたが、
一度、ウィルスは消えていたのですが二ヶ月後に再燃焼しました。一日、腐りましたが、また、やつけてやると闘志が沸いて来ました。
その後、2度目の脳出血を起こしました。誰しも実は闘っているんです。生老病死は当たり前の事です。一般的な家庭では、お子さんは勉強に運動に闘っています。お父さんは仕事にお母さんは子育てに病気になれば闘うしかありません。みんな、どこかで闘っているんです。私は闘う事が生きる事だと思っています。
この4月以降には副作用の少ない治療薬で二度目の治療にいどみます。絶対に完治させます。
製薬会社と国に対してはシステムがまだ良くないと思いますが
時間がかかる大きな問題です。競争が過激になれば利益相反が原因で薬害のような悲劇が起きてしまいます。その為には被害を受けた者の意見を取り入れながら邁進してもらいたい物です。私は第三者の薬害監視システムの増設を望んでいます。
もう、薬で苦しむのは自分達だけで充分です。
このような機会を作って頂き、ありがとうございました。
途中、サリドマイドの増山さんが来てくれました。
私は肩から伸びた手に拳を合わせます。
二人でおつりの人生だよねww
と笑いました。
私が薬害に力を入れるのは、
薬害で苦しむ人は、
もう、自分達で充分だからです。
C型肝炎の後にも
イレッサやB型肝炎、
そして子宮頸がんワクチンなど
後が絶えません。
ふざけろと言いたい(@_@)
撮影はくまなく進みました。
さぁ、自由時間だ(^^)/
コイズミ屋さんに行きました。
四条大橋まで戻り
僕の名前に
由来している
のではないかと思う
フランソアに
寄って来ました。
さて、京都駅にやって来ました。
もう一件、寄る所があるんです。
関西電力 京都支社。
私はハチマキを
していたせいか
なぜか?アピールを
お願いしますと
頼まれてしまいました。
原稿はいつも持っているから
何とかなっちゃうんです。
100名くらいが関電を
囲んでいました。
スゲエ人に会えたんだ。
写真は出せないが
代車に乗って
首で操縦している
勇者だった。
京都はまた来る!(^^)!
熱いぜ(^^)/
夜の京都タワーです。
あっ
そう云えば足の皮が
めくれてしましましたww
そんな事でピイピイ言うなwww