不確実さへの感覚、評価 | kyupinの日記 気が向けば更新

不確実さへの感覚、評価

自閉性スペクトラムで、成人で症状が顕在化した人では、一般の人には考えにくい状況での戸惑いがみられる。例えば、

不確実なことへの感覚、評価。

もう少し簡単に言うと、例えば「不確実なことに耐えられないこと」である。

ある患者はどのような仕事に就いても、一般の人では疑問に感じない状況で大いに戸惑い、退職を繰り返した。

例えば、朝、会社に行ってみると、ホワイトボードに書かれている今日のスケジュールが前日と異なっている。きっと誰かが書き換えたようである。少なくとも、そのことについて妄想的な解釈はしない。

ただ、「前日に予定されていた仕事が変更されている」のが耐えられないという。

僕は、「営業ではそのようなことは良くあることでは?」と言った。その患者さんは、「とにかく、それがとてもストレス」なんだという。

翌日の予定が前日に伝えられていないことがまず困るし、いったん決められたことが変更されていることに耐えられないようであった。

過去ログにそれに似た感覚を訴えた女性患者さんの話が出てくる。「異常感覚や異常体験の規模が変わる」という記事では、

後日、彼女は自分の決断ではなく、「僕の助言で予定変更したこと」がたまらなく不愉快というのである。(別に僕を責めているのではなく、自分自身に対し怒っている)

会社に限らず、学校でも予定の変更は時々起こる。それは天候などの理由で必然なこともあるし、そうではないこともある。それを理解しているのが一般的な感覚である。つまり、一般の人はそれに疑問を持たない。

このようなある意味、無駄な事を考えて足踏みしている間に、一般の人は無意味な禅問答を省略して前に進む。

それは、考えても仕方がないことがわかっているから。つまり、不確実なことは不確実なまま、放置できる能力があると言えるが、少なくとも、それを能力とは言わない。

自然にそういう風にできるからである。

自閉性スペクトラムの人々が、よく生きる意味について悩んでいるのは、これに関係が深い。

ほとんどの人は、生きる意味など考えなくても、日々を生きている。

非常に簡単に言えば、「生きる意味は、生き続けることで生まれてくるもの」なんだと思う。

だからこそ疑問を感じている間は、きっとわかりにくいのである。

参考
異常感覚や異常体験の規模が変わる
下宿屋のオバちゃん
なぜ自殺が良くないのか