ヒルトニン | kyupinの日記 気が向けば更新

ヒルトニン

28歳か29歳頃の話。まだ総合病院で働いていた時のこと。ある60歳前半の男性患者さんが髄膜腫の切除術を受け、その後リハビリ系の内科病院に転院入院したが、食事を取らない状態が2年くらい続いているという。ほとんど動けない状態で、介助があれば車椅子には移乗できるが、何もしなければほぼ寝たきりなのである。

ちょっと診て下さいという紹介だった。その患者さんは経鼻栄養を2年間続け、いつも奥さんが付き添って身の回りの世話をしていた。もちろんおしめを使用していたし、介護のときに奥さんを殴ったりするので、日々の世話は大変だったと思う。

髄膜腫は良性腫瘍で、いわばこぶとり爺さんこぶみたいなもので、早いうちに切除すれば完治に至る疾患である。中には悪性のものもあるらしいけど。診察した第一印象は、話はなんとかできるが、不機嫌だし顔色が随分悪いと思った。不快感がずっと続いているようなのである。このように全く食事を取らない老人にはごく軽度の意識障害があることがある。手術後ずっと永遠と言う感じで、ごく軽度だけど意識レベルが低下していると感じた。

術前、術後のCT所見をみると、髄膜腫をとったところに少し空間があるようで(もちろん髄液に満たされているわけであるが)長期に押さえられていた痕跡はある。しかし手術では髄膜腫を取っただけで、多少とも脳を傷つけたわけではないのである。

なぜ内科医は「ヒルトニンを使ってみる」ことを思いつかないのだろう?と思った。こういうのは、たぶん、脳を(それも下のほう)ずっと押さえられていたために生じた病態なのである。まぁ、ずっとどこかに引っかかっているようなものだ。

ヒルトニンは一般名は酒石酸プロチレリン。いわゆるTRHで下垂体のTSHの分泌を促進するが、TSHや甲状腺ホルモンからフィードバックを受けている。これは、もともと生体内にあるホルモンである。ヒルトニンは武田薬品から1985年から販売されており薬価が非常に高い。2mgアンプルだと今でも7000円くらいするのではないかと思う。

ヒルトニンの本来の効能・効果は、

①下記疾患に伴う昏睡、半昏睡を除く遷延性意識障害
○頭部外傷
○くも膜下出血、ただし、意識障害固定期間3週間以内
②脊髄小脳変性症における運動失調の改善
③下垂体TSH分泌機能検査

などであり、一般的には②の目的で使用されることが多いと思われる。①の場合、期限が切られているから。ヒルトニンは非常に半減期が短く、点滴静注中は血中濃度を維持できるが、終了後は急速に低下する。0.5、2mg投与時の血中濃度半減期はそれぞれ約18分、約9分である。その理由もあり、僕は生理食塩水の100mlに入れて20~30分かけて点滴静注することが多い。というか、いつもそうする。

このあたりはどういう風なやり方がベストなのか良く知らない。添付書では5~10mlの生理食塩水やブドウ糖に溶かして、ワンショットでも良いように書いてあるので、あまり難しいことを考えなくて良いのかもしれない。

さて、この患者の治療であるが、紹介された後、精神科の病棟に移しこのヒルトニンの点滴を実施し、あわせてビタミンB12を絨毯爆撃のように点滴静注したのである。何しろ術後2年も経っているので、無効であっても仕方がないくらいの気持ちであった。

1週間くらいで、それまで食事が取れなかった患者さんが、自力で食事が摂れるようになった。その後も徐々に精神症状が回復。不機嫌、暴力なども次第に消失し普通に話せるようになった。なんと、2ヶ月後には、杖歩行だけど徒歩で退院されたのであった。退院時、薬さえなかった。腫瘍は残っていないので、とりあえず完治なのである。(だいたいそんな感じだった。もう15年以上経っているので細かいところまで憶えていない)

ちょっと今思ったのであるが、普通、こんな風に精神科病院ではまっていたら、多分、足は拘縮を来たして精神は改善しても、もう自力では歩けないと思う。さすがリハビリテーション病院、リハビリだけはズルをしていなかったのがわかる。(別のリハビリテーション系の病院から転院してきたばかりだった)あまりにも劇的に良くなったので、奥さんは感激して泣いていた。すごくお礼を言われた記憶がある。

後年、同じようなパターンで激的に良くなったことを経験している。元の病院にリハビリ目的で帰したところ、それまで診ていた主治医があまりの変わりように驚いて電話をかけて来た。どんな治療をしたのかぜひ聞きたいと言う。

昨年、毎週リエゾンに行っている総合病院で、ちょうど似たような病態に遭遇した。その患者さん女性の老人で、やはりずっと食事を取らないので今後は胃瘻を作るような感じになっていた。パーキンソン症候群と診断されており、抗パーキンソン薬がかなり多剤併用で処方されていた。

僕は、ほんの半年前に家事をしていた人が、こんな風に食事もできないほどの寝たきりになる確率は極めて低いと思う。たとえパーキンソン症候群だとしても。そういうゲリラ的に進行するパターンもあるかもしれないけどね。

なぜ、神経内科医は、木しかみないんだろうかと思った。森を見ていない。

僕は彼女は亜昏迷状態だと思った。しっかり開眼しているのに、ろくに会話もできない。もしパーキンソン症候群だとしたら、会話もできない状態って末期であろう。その原因疾患は、おそらく老年期精神障害であろうが、これはうつ病の親戚みたいなものだ。あるいは、原因不明の器質性による亜昏迷の可能性も否定できない。前者であれば、抗うつ剤だし(セロクエル、ジプレキサも含む)、もし後者であれば、ヒルトニンで改善する可能性を秘めていると思ったのである。今の時点で、胃瘻なんてとんでもない。

このままではどうしようもないので、うちの病院に転院させいろいろやってみた。転院させた理由は、抗パーキンソン薬を投与されたままだと併用禁忌があって抗うつ剤が投与できないから。その後、アモキサン25mgとグラマリール50mgだけの処方で軽快退院。今は食欲はとても良いし、話もできる。

最初の髄膜腫の男性患者と、この女性患者は一見、症状が非常に似ている。しかし実際に診察してみると内容がかなり違うのである。

精神科医は、統合失調症を診てきた長い歴史がある。そういう長い歴史があるからこそ、この2人の相違がわかる。現在でも、統合失調症を診ることは精神疾患を診る基本だと思う。