昭和45年3月15日、東山区にある阿弥陀ヶ峰の山中に、4歳くらいの幼い女の子の遺体が発見されました。
そのご遺体は、司法解剖の結果、他殺と断定されました。
その後の捜査でも、名前も身元もわからず、いまだに両親も見つかっていません。



そんな悲しい事件があった年の5月、当時の京都日青のメンバーが阿弥陀ヶ峰へ慰霊供養に出かけました。ご遺体が発見された場所に、角塔婆を建立し、供養されたそうです。
その時の委員長であられた、現・立本寺貫首 上田日瑞猊下が「不幸せな子どもたちに、仏さまの光を」と仰られ、この言葉が一年間の運動方針となったそうです。

そしてその翌年、このような悲しい事件が繰り返されないように、また、仏さまの光を一人でも多くの子どもたちに広げようと、第一回目の「修養道場」が開催されました。
それからこの「修養道場」は、歴代の青年会員に連綿と受け継がれ、昨年で42回の開催を数える歴史ある道場となっていったのでした。
修養道場のメインテーマである「仏さまの光を私たちのまわりに広げましょう」は、42年経った今でも、変わることなく受け継がれています。

この修養道場が始まるきっかけともなった「無名童女霊位」の供養を、歴代の会員で行ってきた歴史があるのですが、先ほど書いた、当時建立した角塔婆も長い年月で朽ち果て、その場所を特定するのが難しく、深い山中なので記憶も曖昧なまま現在に至る、という状況がありました。



そこで、結成50周年の節目に、一番初めに角塔婆が建立された場所を特定し、そこで無名童女の供養をさせて頂こう、と現役の青年会員で決断しました。



一昨年くらいから、当時の先輩方に様々なお話しを伺い、その証言を基に、一つの場所を割り出し、そこに昨年の修養道場で行った43回忌の大塔婆を建立し、供養のお経をあげるべく、先月の2月26日に阿弥陀ヶ峰に出発しました。

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「一つの場所を割り出した」とは言っても、確証はなく、頼りとしている先輩方の証言も、その人によって違ったり、記憶が曖昧だったりな状態でした。
また、当時の角塔婆建立時の写真が残っているのですが、その写真も確かな手掛かりにはならず、現場に到着してからも、「ここに建てようか、いや違う、あそこの方が証言にあってるのでは」と、手探り状態で場所を探しました。



1時間ほど探したでしょうか、もうこの辺りでいいのでは、と半ば諦めかけたその時、ハイキング中のご夫婦と出会いました。
そのご夫婦に、「こんなところで何をしているのですか?」と尋ねられ、事情を説明すると、ご主人が「あ!覚えてるよ!確かに供養塔が建っていたよ!私はもう何十年もこの山を歩いているから間違いない!」と仰られました。
何とも言えないお導きの瞬間でした。



その場所は、私たちが探していた場所とは違う場所だったようで、ご親切にもそのご夫婦が案内して下さいました。
そして、「着きました」と言われて案内された場所に立ち、本当にここなのかな・・・と不安に思っていたその時、
「あ、こんなところにお塔婆が建っている!!」
と、古い塔婆を見つけたのです!!

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その塔婆には「平成十年三月三十日」と日付けが入っていました。
これこそ、思いあるお上人さまが、こちらに供養に来られていた証拠!
そして、何より当時の先輩がここに角塔婆を建立された場所であるとの確証となったのでした。
無名童女さまが「変化の人」を遣わし、私たちをお導き下さったのだと、とても有り難く、感慨深いものを感じました。



案内して下さったご夫婦にお礼を述べ、こちらに大塔婆を建て、会長導師の下、一読させて頂きました。



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50周年の節目に、時を経て、無名童女さまに供養でき、本当によかったと思います。
子どもたちを取り巻く環境は、当時と比べてよくなっておらず、益々不安なものになっているような感覚があります。
これからも「仏さまの光を私たちのまわりに広げましょう」の修養道場のメインテーマを受け継ぎ、修養道場をはじめとした青少年教化活動に精進しなければならない、と改めて思いました。
そして、このことを次代の青年会員に連綿と受け継いでいくことが、私たちの使命であるということも認識することができました。



次年度の「修養道場」、たくさんの皆様のご参加を、心からお待ち申し上げます!



50周年事業委員会 事務局 拝