こんばんは。るふの原稿が遅々として進まない拾井です。
ちなみに締切は今月末です。
ブログじゃなくてるふを書けよとツッコまれそうですが(笑)
気分転換に少し書いてみようと思います。
前回の記事で「信心」という言葉が出てきました。
皆さんは、これを聞いて何を思いますか。
・・・ ・・・
何も思いません(終了)
では面白くありません(笑)
「信心」とは、神仏を信じたっとぶ心というような意味です。
そんなことは誰でも分かりそうなことですが。
しかし、私が思うに、昨今ではこれが誤解されているような気がします。
ご存知のように、現代は科学が成熟し、ある程度のことが科学で証明できるようになってきました。
その結果、人々の物事の判断の基底において、「科学的根拠があるか」ということが重要視される傾向が強まってきたように思います。
昔は根拠のない迷信などが流布することも多かったでしょうから、このこと自体は大変よいことです。
一方で、宗教というものについての人々の意識はどうでしょうか。
これは私見ですが、昨今では宗教=オカルトという意識があって、信仰というものが軽んじられる風潮があるように思います。
その根底には、人々の宗教、とくに仏教に対する誤解があるように思われます。
すなわち、どこそこの仏様を拝んだらこういう御利益があるとか、あるいは死んだら地獄に行ったり極楽に行ったりするとかいうようなことが仏教だと思っているということです。
こういうことは科学では証明できませんね(笑)
そのため、仏教というものをどうしても信じられない、そんなものを信じているなんてお前アホか、というようになって参ります(ガビーン)
確かに、宗教にはオカルト的な面があります。
そして、仮にそれが仏教の全てであるならば、それらを信じられない人にとっては、仏教は実に馬鹿馬鹿しいものです。
しかし、仏教の根幹というのは、そんな馬鹿馬鹿しいものではない!
これが私が言いたいことであります。
そもそも仏教は、お釈迦様が人々を苦しみから救おうとして始められたものです。
言い換えると、仏教は人々を現実世界での苦しみから救う方法です。
これを信仰するということは、お釈迦様が言われた、現実世界での苦しみから逃れる方法を正しいと信じ、理解し、それを実行するということです。
これだけでも、仏教というのが現実世界とかけ離れた馬鹿馬鹿しいものではないということがご了解いただけようと思います。
もし仏教が現実世界とかけ離れた空想であるならば、私も仏教など信じられませんし、僧侶などやめてしまいたいと思います。
しかし、そうではないのです。
仏教では、この世における成仏を目指します。(※)
成仏すなわち仏に成るということは、死んでから云々という話とは違います。
仏、というのは、完成された人格を有する人間という意味です。
つまり、皆が素晴らしい人間になり、この世を素晴らしい世界(浄土)にしようというのがお釈迦様の教えで、『法華経』にはそういうことが書かれています。
私はこれは大変尊く、現実世界に即した、科学時代においても全く色褪せることのない教えだと思います。
皆さんはどう思いますか。
それと、科学で証明できないことは誤りだというのは間違いです。
科学で誤りだと証明できることが誤りだというのが正しい。
科学で証明できないことは沢山あります。
たとえば、お釈迦様は前世や来世があるということを言われていますが、これらは科学では証明されていません。
だからといって、これらが存在しないということも証明されていない。
したがって、これを嘘だと断ずることは早計です。
そんなことは頭では分かっているかもしれません。
しかし、無意識のうちに科学的根拠のないものを軽んじる傾向がある。
科学的根拠のないことにも、大切なことは沢山あります。
我々は、科学というものの取り扱いにも気を付けなければならぬと思います。
熱弁していたらいつの間にか長文になってしまいました・・・
これをるふの原稿にすれば良かったですね(笑)
とはいえ、せっかくなのでそのまま投稿することにします。
また暇があればこうした記事を書ければと思います。
その前に、るふの原稿を頑張ります。
おやすみなさい。
(※)これは日蓮宗の立場です。