大詰めのお初め製造録。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 いや、今日の労働は強烈だった。いつものように何をやったか詳細は記憶にございませんが、六時に起床して、台所部屋の換気扇の下へ行きまずやったのは一服ではなく、コンロに点火することだった。なにを作るためだったか忘れたが、点火したのである。
 で、ホッとして、東京水を舐めつつ一服したのだった。

 それからは、ほぼ、ずっと、お料理。
 三つ葉を仕入れてなかったのでチラッと最寄りのスーパーへ走ったが、後はひたすらお料理していた。お初めの重に詰めるものを拵えたが、蒲鉾と伊達巻きと黒豆の他は、すべて手作りである。主役はやはり豪華っぽく見える有頭海老で、こいつはグキッと腰を曲げさせ昨日煮海老にしてあった。他も仕込みはだいたい昨日までに終わらせていたが、和食というのはとにかく手間がかかり、面倒臭い。たかか叩き牛蒡でも、いろいろやることがあって、チャチャッとはいかない。酢蛸とか漬け込みものはすでに仕込んでおいたけど、魚介の影の主役となるであろう〆サーモンは今日仕込んだ。塩漬けは昨夜のうちにやっておいたが、仕上げはレモン汁でキリッとやりたい。と思っていたが、レモンを買い忘れていた上に、ポッカレモンも切れていたのでしょうがなく酢〆にしてやった。ざまあみろである。ま、どっちでも美味いから良いのだ。

 それから面倒な筑前煮。料理としては簡単だけど、食材それぞれに下拵えしたいので、けっこう時間がかかる。鶏肉と硬い目の根菜類とぬめりものは当然別々に煮て、最後にすべてを合わせて静かに炊くなんてことをやるから面倒臭いのである。もちろん、市販の出汁の素なんて使わず、やはり昨夜から昆布と干し椎茸(ちなみにこれも自家製ね)を水に漬け置いていたやつに鰹を絡ませたのである。別に出汁の素でも良いと思うけど、なんとなくこういうことには拘らずにいられない因果な性質なので。
 午後三時くらいからはお初め重への盛り付け作業に移ったが、これがまた大変。こういうのはひとつの世界を描出するアートなので、拘りまくらざるを得ず、何度も描き直し、二時間くらい要した。描いたのは、大型の二段重と小型の三段重だけだが、食いものの配分構想を練るだけで一時間四十五分くらいかかった。盛り付け作業なんてほんの十五分だというのに、困ったものである。
 が、苦労した甲斐があり、なかなか良い感じになった。
 私の一押しは小型重の中段に位置づけた超特製バラ叉焼である。これは、メチャクチャ良い出来で、できることなら私の拉麺生活のために独占したいが、自慢したくもあり、元日に親類縁者限定で公開することにしたのである。ほんのちょっとだけ自分の拉麺用に隠してあるが、九十七パーセントくらいは大公開することにした。肉の選び方が良かったんだと思うが、味も素晴らしい。ああ、独り占めしたい。

 一昨日の二百円で仕入れた鮪のあらの角煮も叉焼の下の重にこってり盛りこんだ。これは血合いも使っていてやや臭味が残っているが、娘に試食させたら「めっちゃ、美味しぃーッ」とのことなので、お重入りさせたのだった。というか他に入れるものがないから仕方なく入れたんだけど。
 午前六時から料理と盛り付け地獄が始まり、一段落したのは、午後七時近くだった。
 早番だった妻が、その頃帰宅し、私は「あッ」と思いだした。
 やややッ、今日もおれは主夫だったんだッ、と。晩ゴハンのことをすっかり忘れていたのだった。
 慌てて、なにか食えそうなものがあるか冷蔵庫や食材庫を漁ると、たこ焼き粉と長崎皿うどんが発掘された。オッケーッと安堵した。魚介はまだたっぷり冷凍庫にある。酢蛸化していない蛸もあるし、腐りかけている野菜も色々ある。歳末食材大処分晩餐として長崎皿うどんほど頼もしい存在はない。なにを入れてもオッケーだから。中華丼も似たようなものだが、皿うどんの方がカリカリとお菓子っぽくて偉いのである。
 というわけで、大晦日の晩餐は、長崎皿うどんとたこ焼きとなった。

 この数年、カセットガス式のたこ焼き器が行方不明で、いつもコンロに九玉しか焼けない鉄板をのせてやっていたが、私の私室を二階に移したらそこに十五玉焼けるカセットガス式の装置がありびっくりした。ないないと思っていたが、隠していた犯人は私だったらしい。なんという極悪人であることか。
 今夜は十五玉イケたので、かなりラクだった。当初の予想では四十玉くらいかなと思っていたが、フルに三回転したから、なんと四十五玉も焼いたことになる。そのうち三分の二くらいは娘の胃袋に納まったが、妻と私も少しお零れに与れた。

 そして、あと四十分ほどで、また年が変わる。
 大晦日は好きで、なんであれ刷新されるというのは、気持ちが良い。
 来年は良い年にしたいよなぁといつも思う。
 が、良い年だったと手放しで思えることはあまりない。
 悪くなかったなぁと思うことは多いが、心底良い年だったと思ったことは一度も無いかも知れない。この十数年は特にそうで、厭な年ばかり続いていた。
 そろそろ、良い年にしても良いんじゃねとか、来年の初詣には氏神にクレームをつけてやろうと思う。もうおれの身内を死なせるなよ、と。老母はうるさいけれど、まだ十数年くらいは生かしてくれよと。始末が面倒で、おれはそれどころじゃないんだからさ、などと罰当たりなことを祈願したいと思っている。
 でも、罰当たりだろうか。
 姥捨ての感覚からすると、似たようなものだろう。かつて食い詰めがちな百姓衆が編みだした子孫継続手法のひとつが姥捨てなわけで、姥は不平不満など溢さず、山へ捨てられにいった。深沢さんの楢山節によれば、捨てられに行く姥は息子の帰路を按じて小枝を折り目印を残したりしたらしい。
 なんとも複雑な精神性がそこにある。

 いや、これ以上続けると夜が明けてしまいそうだから、終わりにしよう。
 明日は朝から老母たちと墓参りで、また忙しい。
 身内をわが家におびき寄せ、この数日やった労働の成果を問うことになる。
 不味いという禁句を吐いたものは、腕がへし折られる。
 大変厳しい正月である。
 なんてことはないけれど、まあ、みなさん良いお年を。