丼への地図。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 先日から老母が布団をやるから来いと煩い。うちに布団はあるから要らないというけれど、おまえのでは寒いから来いという。寒くないと答えるが、いいや寒いに決まっているから取りに来いという。困ったものだ。元旦、家に連れてきて宴会したのが失敗だったか。
 すでに仕事初めになったが、昨日いきなり猛ダッシュ要請が舞い込み、モウモウとダッシュしていたところに、布団はいらねがなどと来るので腹立たしい。当然、いらねと冷たくあしらうことになる。
 

 けれど、モウモウしていると意外に大したことはなく、なんだ連休中に終わっちゃうじゃんと気楽になった。気楽になったからにはサボらなくてはならない。
 で、本日最も悩んだのが、なにしてサボろうか、ということだった。サボりの材料はごまんとある。新PC弄りもそのひとつだが、これはもう飽きた。あらかた実用態勢は整い、後はなにかやっていて気がついたときにやれば良い程度になっている。気にくわないのは遅いことだけど、インストール間もないのに遅いということは如何ともし難いわけで、この機械ではメモリの増設も不可だから、できることはごく限られる。ま、遅くて苛立てば、前のノートに戻して壊れるまでこまめにバックアップしつつやれば良いだけだからたいした問題ではない。
 そんなことよりも、サボる材料が見いだせないという、この現実である。
 

 あれこれ考えたが、どうにもネタが思いつかない。明日なら稽古初めでサボりやすいのに、今日はなにもそういう状況がない。驚いたことに、スーパーへ買い物に行くモチベーションすらなかった。酒もタバコも明日まで余裕の在庫がある上に、食材は年始用に買い集めたものがまだ冷蔵庫にごろごろしている。おまけに元旦には老母も笹かまだのししゃもだの冷凍したものをごっそり持ち込んだりで、始末に困るほどである。しかも、今夜は夫婦だけの晩餐だから、食材はほとんど減らない。われわれがどんなに頑張って食べても、冷蔵庫には十立方センチメートルくらいの隙間しかできようがないのである。そんな狭隘空間にできることは、四個か五個の茹で玉子を収納するくらいのことでしかない。他になにができようか。シマリスの一匹くらいは入れるだろうが、カモノハシはとうてい収まらない。カモノハシが収まらない冷蔵庫に何の意味があるというのだッ。
 いや、またつい興奮して、支離滅裂ってしまった。
 ひとつ落ち着いてBGMでも聴こう。今週はカントリー週間にしようかな。ちょっと短い曲だけど、まずは一発。

 

 

 サボりの手段として思いついたのは、昨年思いついていた物語のプロット構築だった。今年は意外にまじめにひとつ成人向けの物語を創作して遊ぼうかと考えている。別にそれでなにをするつもりはないけれど、ちょっと鈍っている手を鍛え直そうかなと。思いついていたのは以前気まぐれに記したセレスタイトという鉱石の名を借りたでっち上げ物語の前世的な浮き世話で、これを触発したのは、一昨年だったかな、他界してしまった陰謀おじさんの記憶だった。こういうことだけは、しっかり覚えている。
 そして思いついた初期的モチベーションは、子供たちの受難時代ということで、当然物語の骨格はそれであり、主役も子供、つまりはセレスタイトの女性の幼少期ということになってくる。
 思いついたときは二つを繋げようと考えていたけど、ちょっと無理がありそうなので拘泥しないが、青い瞳の女の少女期とはいかなるものであったかということには、とても興味が湧く。それは青い瞳の女の少女期の出来事でありながら、私自身の出来事でもあるから、今年は少し時間をかけて書き上げてみようかと遊びを思いついたのだった。ただしこれは日記に入れる気はなく、老後に推敲遊びするネタにするか、あるいは出来が良ければ出版を目指すかもしれないけど、商品化し得るものではないので遊びの域を出ない。ただ、私的に強く関心があるというだけに過ぎない。
 で、今日の午後は学生の頃に買って三分の一も使わないままだったノートに、プロット構想を記して遊んだ。長めの作文をするとき、私はいつもB5かA4のノートを開き、真ん中三分の一にダダダッと思いつくままに物語の展開を書き込む。左右に三分の一ずつ隙間を空けておくのは、ひと通り流れが見えたら、その後の細部の展開や伏線設計とか問題となる心理的な動きの疑問点とか要点を記すためである。これは何度も作り直すことが多い。ページもののパンフレットなどをやるときも、こんなことをやったりする。左の三分の一には心理の動きと疑問などが記され、右の三分の一には説得に使えそうな情報やレトリックのアイデアなどが記される。いわば作文のための地図というようなものだろうか。
 ポスターとか雑誌一ページなどだとそんなことはなく、原稿用紙やワープロにひたすら書き殴るが、少し長めのロジックが展開される場合、そういう地図の作成が欠かせない。このキャパシティーが乏しい脳味噌にとって、目的地まで迷わず行くためには、地図しか頼れるものがないのである。
 

 年明け早々暇な野郎だなと思われそうだけど、こういう暇は大枚払っても買うべきなので、仕事をほったらかしても遊ぶのである。なぜならば、明日の仕事の価値を高めるために有益な投資だから。少なくとも、老母宅へ布団を取りに行くより数百倍はわが生活に資する。
 明日は稽古初めで、ちょっと愉しみである。十四日ぶりだろうか。合気というヘンな技を繙くために私がやってきたことも、このプロット作りと似ていて、思索の真ん中に考え得る物理的ロジックを置き、左右にそれに関する雑多な情報を書き込んだノートのような地図を作り続けてきた。早い段階で物理的ロジックの核に人間の骨格の性質が記されたが、裏付ける情報は乏しく、ほとんどは実体験から抽出するしかなく、左右の隙間を埋めるのに二十年近く費やした。それでも、なにも完成されず、プロット構築ノートはまだまだ書き続けられざるを得ない。いや、これには物質としてのノートなどなく頭の中の出来事に過ぎないけれど、この後も十年二十年と記し続けるしかないのだろうと感じる。ひとつだけはっきりしているのは、記し続ける限り、私の体は何かに目覚め続け、技は洗練されていくということ。遅々たる歩みであっても、間違いなく確実に進んでいく。魯鈍の進歩ほど確かなものはないと思う。
 魯鈍で良かったなぁとつくづく思う。
 そして、あっ、明日は丼が良いかな、と次の瞬間には思っていたりする。
 牛丼か、カツ丼か、天丼か、木の葉丼か、玉子丼か、親子丼か、まだ行方はわからない。いくら丼とかウニ丼とか海鮮丼の類いは高額なのでないが、鉄火丼とかネギトロ丼という可能性はなきにしもあらず。
 残念ながら魯鈍は食えないけれど、丼は食える。
 どんな丼であれ、道が拓かれれば、食えるのである。
 あ、丼じゃなかったかな。なにを書いていたんだったか、地図を記さない日記なので、また忘れてしまった。
 しかし、どんな丼になろうとも、美味しければ良いのだ。