自由の天罰。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 石原さんがまた失言したといろいろなところで目にするので、あまり興味なかったが「津波は天罰」との文言が叩かれているらしいと知り、ちょっと眺めてみた。そんな瑣末なことよりも、放射能もれを阻止することにエネルギーを傾けないと、天災が明らかな人災になってしまうのだが。

 発言の全文、と言うのが2ちゃんなどにぼろぼろあるので覗くと、すべて“発言について報じた記事の全文”に過ぎなかった。なんと言葉認識の軽いこと、と驚いた。
 仕方ないのでユーチューブ、ニコ動で天罰発言に関する動画を探ると、松沢さんと一緒の出馬表明会見ばかり。その中に共同通信記者とのやり取りがあり、蓮舫と会談した後に天罰発言した真意を問うと言うシーンがあったが、石原さんの天罰発言「全文」など、どこにも見当たらない。どこかにあるのだろうか?

 こういう浅い情報がネット界には溢れかえっていて、ニコ動のあの画面を過ぎるコメント群など正にそのものと言って良い。なんら深い思索もなにもなく、ただ他人が洩らした単語に反応してわあわあ騒ぐだけの無意味きわまりない音と文字。なにが面白いのか、どこに意義を感じているのかさっぱりわからないが、不快きわまりなく見るに耐えないけど、発言全文を探すために我慢して見たのだが。
 しかし、ついに「全文」には巡り会えなかった。あるなら教えて欲しいのだけど。

 今日は頗る機嫌が悪くなったので、素浪人になろう。
 『天罰』発言の趣意を忖度すると、私は石原さんに共感する。
 私も、今回の天災は、日本国民すべてに向けられた天罰であり、最大限に厳しい警鐘だと感じている。もちろん神秘的な現象など信じていないが、それでもなお、天罰なのだ。

 「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」
 この発言の、どこが問題なのか、なにが不謹慎なのか、まったくわからない。
 彼は文学者なのだ。文学者の感性が語っているだけのことで、それが政治家の口から漏れただけのことであり、しかも、もっともなことしか語ってはいない。彼が、これは被災地の人々への天罰だと言ったのなら話にならない不謹慎きわまりない発言だけれど、辛口の文学者の発言としてはなんら異常でも不謹慎でもない。彼の表現感覚というものを理解できない人間が言葉面だけ捉えて不謹慎だとバッシングする方がよほど不謹慎としか思えないのだが。

 言葉面だけ見てわいわいバッシングするセンス。これが正に石原さんが指摘する『天罰』のターゲットだろうが、そういう人間に限って自分は違うと信じているし、瑣末な言葉面に不謹慎を嗅ぎつける能力に長けていると信じこんでいるだろうし、自分は善だと信じ切っていたりするので如何ともし難い。

 「日本に対する天罰ですよ。これをどう受け止めるかという受け止め方の問題なんですよ。大きな反省の一つのよすがになるんじゃないですか」
 「それをしなかったら犠牲者たちは浮かばれないと思いますよ」
 彼はこの段階で失言を認識していて、解説を試みたが、もう、虫みたいに反射するバッシングマニアたちは突っ走っていたのだろう。このバッシングマニアどもが日本をかなり混乱に陥れていることは疑いのないことだが、あまりにもマニア人口が増えすぎた。
 そのバッシングは、たいてい他者への思い遣りや愛情というような仮面を被って表現されるが、本質はただの自己陶酔でしかない。私はそういう人間をもっとも軽蔑しているので接触を避けている。相手するだけ時間のムダだし遠くないうちに吹っ飛ばしたくなるに決まっているから。

 日本に向けられた天罰。という表現は、しかし、天災に使われた点は確かに文学者としては甘かっただろう。本来は、福島の原発に向けて使うべきだった。石原さんの中ではそれも含んだ思考が音として表出したのだと思うが、原発事故は明らかに天罰と言って良い。その事態が起きるだろうことなど二十数年前には予測されて然りだったのだから。

 「日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった。アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなもんない。我欲だよ。物欲、金銭欲」
 これには、ほとんど同意しかねるけれど、我欲、物欲、金銭欲の虜囚というのは誰でも理解していることだろう。米仏の「自由」という認識にはどうも違和感を覚える。

 『自由』。
 この、厄介な言葉。

 日本は敗戦によって、海外からその価値観を与えられた。
 それは、軍属政治からの解放であり、古く堅苦しい道徳観からの解放であり、七面倒臭い慣習だの鬱陶しい差別からの解放だと思われたのだろう。その価値観は瞬く間に日本人の中に広まっていった。
 私が生まれた1959年には、もう「自由」はあたりまえのことだった。
 私は「自由」だった。そして、今も「自由」であり、就業形態も「自由」。
 けれど、常に私は縛られている。何ものかに拘束されている。
 とりわけ大きいのは、精神的な束縛。みんなそうではないか。

 『自由』とは、なんなのか?
 気軽に自由と口にする人間は、まず自分が口にする「自由」とはなにを意味している言葉なのか、考えてから使えよと言いたくなる。
 自由は、不自由と背中合わせなのだから。

 石原さんがついやってしまった失言の中の「我欲、物欲、金銭欲」は、輸入された『自由』の産物。彼が言いたいのはそこだろうが、もちろん、そのまま鵜呑みもできない。
 ニコ動では海外から稼ぐ必要性も語られていたから、彼に「自由」を否定はできない。そもそも成功者のひとりであり、暮らしに困窮しているわけでもないし、人一倍自己顕示欲も強いのだから、彼に「自由」だの「我欲」だのを否定はできないはずだが、それでもなお、彼が語ったことは正しい。

 この天災によるさまざまな混乱と動揺、放射能放散という人災は、明らかに『天罰』と言って良い。
 これが『天罰』でなく、なんなのだ。

 言葉面しか読めない人間は黙っていろ、と言いたくなる。
 石原さんは、この災害の被害をいかにこれ以上拡散せずにすませられるか、復旧するにはどうすべきかと考えながら『天罰』発言したはずだ。わあわあ騒ぐだけの虫みたいな生きものとは、少し違うにきまっているから。別に私は石原シンパでもファンでも支持者でもないけれど、こういう下らないバッシングは不快でしょうがない。ただでさえ、被災地では必死の救助が続けられ、生き続けようと努力している人々がいくらもいるのに、たかだか瑣末な表現の言葉面に反応して大騒ぎするその神経が気に食わない。たぶん火付けは、都知事選を睨んでのデモンストレーションだったのだろうと思うが、そんなものに踊らされる思考を欠いた頭が理解しがたい。

 と、つい素浪人化してしまったが、ほんとうに軽薄な馬鹿騒ぎはいい加減にしろ。そんなヒマがあったら、被災者の人々が一刻も早く救助されるように祈れと言いたい。都知事選など今の大災害から見れば、ただの人気投票みたいなものなのだから、下らないことで騒ぐんじゃねぇよとつい言ってしまう。あのニコ動で見た記者たちの質問といい、もう、どうしようもなく低劣で、呆れ返る。
 あそこに並んでいた三人の知事たちは、私的には共感しかねる点が多いけれど、少なくともこの国をいかにすれば善くなるか、地方自治をいかに操舵すれば国を善方へ導けるかと真摯に悩んでいる、というのが理解できないのだろうか。その善し悪しにはさまざまな評価があるにきまっているが、ただ騒ぐだけのやつらよりも何億倍もマシではないか。このタイミングでの発言はそれは適切とは言い難いけれど、それ以前に、わざわざ石原発言の真意を歪めてバッシングする卑怯者どもは腹に据えかねるとしか言いようがない。

 今も東北では、必死の救助が続いている。
 いかに石原さんが間抜けな失言暴言を発したとしても、そんなことで騒いでいる場合ではない。
 なぜ、こうも、チマチマしたつまらない人間が増えてしまったのだろう。
 意味のわからない自由という名の我欲のせいだろうか。

 あ、また余震だ。かなりでかい。
 どうか、下らない騒ぎなど影響することなく、一刻も早く被災された人々が救われますように。