小寺(尾島)菊子のこと(追記) | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 先ごろ、『近代女性作家精選集 035 復刻 深夜の歌 』(尾形 明子監修 小寺 菊子著  ゆまに書房)を読むことが出来た。
 図書館でダメもとで予約を試みたら、あっさり借りられた。


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→ 『近代女性作家精選集 035 復刻 深夜の歌 』(尾形 明子監修 小寺 菊子著  ゆまに書房)



 復刻版だから、誰でも読めるわけだ。
 元の本(教文社)を115%に拡大しての復刻で、誤植も含め元通りの体裁で読めるわけである。

 小寺菊子の師である徳田秋声による「序文にかへて」が本書の冒頭に載っている。
 短文だし、参考にもなろうと思えるので、転記しておく(旧字を新字に変えた):

 

    序文にかへて
 この短篇集が出るについて、序文を書くやうにとのことで、私はゲラ刷りによつて、少し読んでみた。読んだ範囲では、どれもこれも人生の実相がまざまざと出てゐて、材料の豊富なことゝ、書くことの達者なことに、感心しないわけに行かなかつた。女の人もこのくらゐの年になると、何か知ら創作度胸といふやうなハラ(←漢字)ができて来るものだとおもふ。中でも巻頭の『産院情景』といふのが、現代世相の縦断面を見せてゐると同時に、小説的な恋愛の特殊な形を取扱つてゐる点で興味がある。
 小寺さんは小説が本職だけど、頗る多才多能で、洋画では朱葉会の耆宿であり歌こそ詠まないが、音曲の各部門に通じてゐて、テーブル・スピーチなどにも度々場慣れのした機智を発揮するのである。年取ってからの生活をエンジョイしてゐられるといふのも、性格的本質的なものであるに違ひないが、一つはさういつた才能に恵まれてゐるためでもあらう。文学方面だけは、今も昔もかはらない熱意と焦燥と努力とを持ちつゞけてゐる。そして、年と共に文学魂が目ざめつゝあるやうである。なんといつてもそれが小寺さんを単調な生活気分から救つてゐるとおもふ。
  昭和十一年初夏
                               病床にて
                                   徳田秋声

(文中の「耆宿(きしゅく)」とは、「経験・徳望のある老人。経験豊かな老大家。宿老 」の意。)



 本書(『深夜の歌 』)は、自身の「はしがき」によると、彼女にとっても、転機と自覚していた頃に、それまでの数年の創作の中から「特に心にとめておきたい作品を選ん」だものだという。
 様々な文学運動が押し寄せている中、自分の我(信念)を折って、通俗小説に手を染めるべきかと悩んだ果てに、そんな甘い夢を忘れ果て、「貧しいなりにも自分自身の信ずる芸術の境地を真直に歩いて来たやうに思はれる」と、彼女は書いている。


 なお、本書には巻末に『自伝の一節』が載っている。副題が「我国最初の 社会党樽井藤吉の思ひ出」とあり、参考になるとは思うが、さすがに転記するには長いので、断念。


 樽井藤吉 (たるい とうきち、嘉永3年4月14日(1850年5月25日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、我国の『社会党』の創立に関わった人物のようであり、一家が貧乏のどん底に喘いでいたときに、頭山満(翁)にカンパを受けたりした人物でもあった。
「樽井氏の夫人が、私(小寺)の従妹であつて、私がはじめて東京へ来たとき下谷中根岸に棲んでゐた氏の家に、その縁故で寄寓し、足掛四年ものあひだ、いろいろと世話になつたので、そゞろに思ひ出が湧く次第」というわけである。


 獄にあったりした樽井 の家のものということで、樽井一家は辛酸を舐めたのでもあった。
 樽井は家庭を顧みず天下国家のため奔走し、妻(つまり、小寺の従妹)は、主張は理解しつつも家庭を守らずして天下国家を論じてどうなると、喧嘩が絶えなかったようだ。


 この樽井という人間が時代(壮士!)とはいえ、興味深くもある。ある意味、本書所収の『産院情景』などの佳品よりも、巻末のこの『自伝の一節』が一番、生々しくもあり、印象深い作品であった!
 本書所収の多くの作品に食い足りなさを感じたのも事実だ。


 ある程度まで描いて、さてこれからというところで、作品が終わってしまい、おいおい、置いてけ堀かよと、感じることが間々あったのは正直な感想である。

 
 

 小説家の小寺菊子(1879~1956)について、「小寺菊子のこと 」にて若干のメモを試みた。
 忘れられた作家というわけではないようで、テレビ(富山)でも何度となく特集はされるし、前回も紹介したが、「富山新聞ホームページ - ホッとニュース 小寺菊子の業績に光 富山市出身、少女小説の旗手 」といった新聞記事(富大人文学部の金子幸代教授をの研究を紹介)も目にすることがある。


 児童(少女)文学関連で、論考が紀要などに載っているのも散見される。

 さりとて、ネットで情報が十分なだけ見つかるというわけでもない。


 念のため、小寺菊子の別の名、尾島菊子(おじまきくこ)で検索しても事情は似たようなものである。


 多少(?)のダブりは気にせず、「尾島菊子」での検索事例をメモしておく。

尾島菊子 とは 【事典・辞書サイトkotobank】

1879‐1956
明治-昭和時代の小説家。
明治12年8月7日生まれ。17歳で上京、はたらきながら「少女界」に投稿。徳田秋声に師事し、明治41年「妹の縁」で文壇デビュー。「中央公論」「少女の友」などに少女小説を発表した。大正3年画家小寺健吉と結婚。昭和31年11月26日死去。77歳。富山県出身。東京第一高女中退。作品に「綾子」「十八の娘」など。

少女界 - Wikipedia 」によると、日本最初の少女雑誌「少女界」にて、下記の作品を残したようである:

『秋の休日』『漁師の娘』『三人娘』(明治39年)、『春の嵐』『別れ』『をぐるま』『鑑菊会』(明治40年)、『夢こゝち』『初奉公』『姉と弟』『都の夢』(明治41年)、『お花見』『棄子』『お嫁様』(明治42年)、『子猫』『里子』(明治43年)、『菖蒲の里』(明治44年)

大阪府立児童文学館デジタル・ミュージアム 尾島 菊子 」(ホームページ:「大阪府立児童文学館デジタル・ミュージアム 」)によると:

1879(明治12)年~1956年、富山県出身。父親の事業の失敗や、母と祖母の争いなどで不幸な子ども時代を送りました。17歳で東京に出て、勉強を続けようとしました。お金がなく、タイピストなどの仕事をしながら、小説も書いてお金を得るようになりました。30歳のころから、作家業に専念(せんねん)し、少女小説作家としても、大人の小説家としても活躍しました。菊子の少女小説は、主に、恵まれない少女の悲しみを描いています。

 この「大阪府立児童文学館デジタル・ミュージアム 尾島 菊子 」では、「綾子」や「なさぬ仲」などの出だし部分を読むことが出来る。
 さらに表紙や挿絵も見ることができて、雰囲気は味わえると思う。
 また、若い頃の小寺(尾島)菊子の写真も載っている。美人だ。才色兼備だったのである

『婦人画報』記者列伝(その1) - 神保町系オタオタ日記 」によると、尾島菊子も『婦人画報』の記者の一人であったことがあるらしい。

『日本児童文学の成立・序説』佐藤通雅著 」(大和書房 1985/11)なる本には、下記の章がある:

第四章 少女小説の成立
 (一) 少女小説の輪郭
 (二) 尾島菊子1-〈不幸〉について
 (三) 尾島菊子2-『御殿桜』の問題
 (四) 尾島菊子3-「なさぬ仲」と「綾子」
 (五) 尾島菊子と吉屋信子の狭間
 (補) 吉屋信子論二著

「職業作家」という選択 : 尾島菊子論 / 小林裕子 [著] 」があるらしいが、未詳。


文壇失敗談 』(文壇樂屋雀編著 大正5年3月13日 大日本新聞學會出版部発行)には、「尾島菊子、顏を赧らむ」という章があるようだが、興味津々。



 次回は、小寺菊子の自伝的色彩の濃い作品「念仏の家」を転記して示したい。
 青空文庫にはまだ一つも載っていないようだし、論より証拠で、画家なら絵画の紹介が不可欠なように、作家なのだから、小説作品を読んでもらうのが筋だろう。


                     (09/05/12 作 09/05/13 加筆)