ただ、自分の懸想する女が自分には決して見せることの無い表情を、身も心も開ききった状態を他の男にとことん晒している、そういった妄想に囚われ嫉妬する男の情念をつい思ってしまうだけだ。
デルヴォーの絵画に登場する人物が、あるいは描いているデルヴォーが女(をモノにした男に)嫉妬しているというのではなく、デルヴォーの絵画の世界に、嫉妬し心身を燃やし尽くした挙句、灰になってしまった静謐と似て非なる情の凍結した世界を一瞬、感じるだけなのである。
涸れ果てた情。
その果てには侠気の世界が待っているはずなのだが、瀬戸際でデルヴォーは踏みとどまっている。
何ゆえ、狂気に堕して我が身と心を解き放つことはしないで済ませるのか。
それは、まさにデルヴォーの夢想する力の秘密と関わっているのだろう。
目を閉じる。心の目でもいいから閉じ切る。
そして心の脳裏に可能な限りの悦楽の世界を描こうとする。
最初は、(夢想する人が)若ければ「一人の男性が愛欲の対象として多くの女性を侍らせたところ」の意だというハレム状態を描く。
が、そんな意想外な世界ではなく、現実の世界の中での理想を追い求める。だって架空の世界に遊んでいるのだし、遠慮することは何も無い。
一体、どんな状態が男の理想なのか。
あらゆる女性が自分に注目し、あらゆる女性が自分に振り向いてくれる、そんなスーパースターの状態か。
とんでもない。そんな七面倒
なことを想うのは若い身空のうちだけだ。
そうではなく、この世のあらゆる女性(但し、自分が懸想する可能性のある女性に限るが、それは当然のこととして)が、身も心も開いた状態でいることの、その現実が今、ここにおいて実現されているという、そのことなのである。
ヘアーも含めたヌード。でも、肝心なのはアンダーヘアーが見えるかどうかではなく、身も心も開放されきっていることを実感できるかどうか、なのである。
そしてヘアーが見えるというのは、その状態の象徴なのだろう。
現実では有り得ない。が、一方においては現実性を帯びた夢想世界でないと、リアリティを感じられないし、描く気にもなれない。たとえ、空想の世界であってもある種の現実性を帯びていて欲しいわけである。
生身の女から、ではなく、禁忌された女への想いの果ての不毛な堂々巡り。
「彼女たちは、逢い引きの約束はしても、実際には出向いては行かない」
そうなのだ。約束はいくらだってしてくれるのだ。ただ、約束を果たす相手が自分でないだけのこと。でも、夢想の中では女たちは自分も居る町を行過ぎていく。逢引の相手に会いに行くのだろうか。自分のことなど、路傍の石ころよりも瑣末な存在に過ぎず、まるで眼中に無い女たち。
でも、夢遊病者であるかのような女たちの会いに行く相手は、この今、見過ごされ通り過ぎられていく、女の瞳の片隅にも映ることのない自分なのだとは、女たちは知らない。
逢引の場所での女たちの饗宴。禁欲性と背中合わせの官能性の極が今、現実の世界で繰り広げられている。通り過ぎ、同じ場所を共有し、同じ世界にいるにも関わらずお互いの目線の先には決して他人がいない。いるのだけれど、居ないのだ。
でも、居ないけれど、居る!
肉体そのものなのだけれど、精神であり、心なのだけれど、心とは肉そのものだという意味の心なのである。ヘアーの一本一本が心の襞(ひだ)なのであり、肉の涙なのであり、死の香り漂う愛欲の予感なのである。
愛も心も肉も、そのすべては、虚実の皮膜というG線上をなぞる果てにある。
夜の森の中に、魔女たちが光を放っています。
それは、その肉体であなたを誘いながらも、決して語りかけてこない女性たち。
魔女たちの夜宴。
そう、黙して語らない女たちがいるだけなのである。
*本稿は、美術系雑文「ポール・デルヴォーの絵の悪魔性 」から抜粋したものです(08/12/14 記)。
参考:
ポール・デルヴォー美術館
Museum Paul Delvaux
「ポール・デルボー Paul Delvaux
」
(本稿における挿入画像は、すべて上記サイトより。)
「デルヴォー…凍てついた夢想
」
「ディープスペース:デルヴォー!
」