小説家はなぜ自らの命を絶つのか?
小説家は職業的に、どうしても物事を深く、深く考えてしまう。
特に、人生そのものをテーマとするような小説家は、人生そのものについて、深く、深く考えて行く。
だが、残念ながら、人生というのは、そんなに深くない。
そんなに深くないにも関わらず、深く、深く考えてしまうから、ノイローゼになって、自分の命を絶たざるを得ない状況になる。
結局、人間なんて、メシを食って、クソをして、寝るだけの生き物に過ぎない。
スカパーのアニマルプラネットのような動物番組に、数々の動物達が登場するが、そこには一定の共通性が見出される。
それは、成長し、交尾をし、子孫を残して死ぬ。
中には、成長の途上で食われたり、交尾に失敗して子孫を残せなかったりする者もある。
こういう動物の共通性に、人間だけが含まれないわけがない。
人間も、まったく同じ事をしている。
ただ、エサの獲得の仕方、オスとメスとのコミュニケーションの取り方が、知能の高い分だけ、若干、複雑になっているだけである。
しかしながら、基本的には、他の動物と何ら変わらない。
エサを獲得するために、他の者と争う。
メスを獲得するために、オス同士で戦いあう。
メスは、近づいて来るオスが、タイプならば交尾を許し、タイプでなければ逃げる。
いったい、どこに違いがあると言うのか?
かつて人類は、より人間らしい社会を目指し、競争なき共産主義社会を目指した事もあったが、結局、我々の選んでいるのは、格差のある自由競争社会である。
女性は別に、人格で男性を選んでいるわけではあるまい。
男性の人格うんぬん言う前に、まず、自分の人格はどうなのか?という大問題があるだろうし、いくら人格で選んだとしても、ホルモンが反応しなければ、いかんともしがたいのだ。
よって、人間社会もまた、他の動物とさほど変わらぬ、単純な社会なのである。
人生というのは、勝ち残り、生き残り、子孫を残し、適当に遊び、病気と闘い、そして死んで行く。
やさしさとか、思いやりとか、そういうものも、もちろんあるが、それは他の動物にだってある。
それは競争が過度にならない為の、一種の緩衝材である。
だが、本質は競争にあると言っても過言ではあるまい。
「いや、私は競争は好きではない」と応える者もあるだろうが、そういう人だって、動物を殺して、食っている。
直接、手を下さないだけで、他の動物との命のやりとりを行い、その競争に勝って、自分の命をつないでいるのだ。
だいたいだな。
「いけす」というのが料理屋にあって、そこに生きたカニが泳いでいる。
そのカニを、熱湯に放り込んで、それを食うのだぞ。
俺たちは。
カニの気持ちになってみそ。
冷たい水の中で泳いでいたのを、いきなり、熱湯にドボンだ。
人間というのは、このように他の動物の犠牲の上に、生きている。
だが、立場が変わるケースだって、もちろんある。
油断したら、食われる。
人生なんて、こんな感じで、たいして深くもないのに、小説家は、深く、深く人生を掘り下げようとして、それに失敗し、狂気に達して死ぬのである。
これを読んでいる人の中にも、考え過ぎて、おかしくなっている人がいるかも知れない。
だが、人生、そんな深くないんだぞ。
あなたは、「なぜ彼の気持ちは、私に近づかないのだろう?」と悩んでいるかも知れないが、あれやこれや推測している事は、ぜんぶ考え過ぎで、実は、あなたが彼の好みでなかったとか、飽きたとか、他にもっとタイプの相手がいるというのが本当の所なんだぞ。
その辺、現実をしっかり、受け止めるように!
とりあえず、俺はYoutubeを観るから。
YoutubeのAKBチャンネルをチェックするから。
そうっとしておくように。
それじゃあ!