憎しみの転換現象 | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

「憎しみ」と一言で言っても、その内容は様々だ。

悪意ある人に嫌がらせをされた場合、それは本当の憎しみである。
だが、そんなに嫌がらせをされたわけでもなく、むしろ、親切な人に対し、憎しみの念が沸く場合がある。

こういう時は、何となく、自分の憎しみの「質」に対し、疑問が沸くはずだ。

「なぜ、自分はこんなくだらない事に対し、執拗に怒りの念を持ち続けているのか?」

「この人は、それほど、憎まれるほどの人なのか?」

このように、自分に問いかけてみた経験は、誰にでもあるだろう。

こうした時、その理由として考えられるのは、「憎しみの転換現象」である。


自分の人生が、思うように行っていない時、自分自身に対し、憎悪の念が沸いて来る。
だが、自分というのは、憎悪の向けようが無い。
鏡を見て、自分に悪口を言って、スッキリする、という事なんて無い。

そこで、適当な相手を見つけて、本来、自分に向けるべき、あるいは、社会全体に向けるべき憎悪の念を、その個人に対し、転換するのである。


だから、別に大した悪人でも無いのに、その人を「悪人の象徴」「愚人の象徴」のように自分の中で人格設定し、憎むのだ。


世の中には、憎まれるべき相手というのは、確かに存在する。
そうした相手は、断固として憎まねばならない。
間違った許容は、悪を、この世にはびこらせてしまうからだ。

夫や恋人が自分を殴る。
これはドメスティック・バイオレンス(DV)である。
こういう行為をする人間には、必ず、心理的背景がある。
親に冷たく扱われながら、育った等。

だが、そこに同情し、許してはならない。
DVは、自分ならず、我が子に及ぶのである。

DVを振るう男は、必ず、暴力をふるった後に、優しくなる。
「俺は本当はお前を愛しているんだよ」という意思表示をする。

これを、アメとムチによる「マインドコントロール」という。


この時、冷静に考えるべきである。
事実として存在するのは、「暴力をふるった」という事である。
愛に暴力など、必要ない。

DVの反面である、優しい言葉にほだされ、「自分が悪かったかも」などと反省してはならないし、マザーテレサのような母性愛で、相手を許容するのは間違いだ。

悪は悪として明確にしなければ、いつのまにか、悪ははびこってしまう。
自分自身だって、「すっきり」と生きる事が出来なくなる。

世の中には、決して女性や子供に手を上げない男というのが、少なからず存在するし、むしろ、そういう男を愛せない自分を反省すべきなのである。


世の中には、正しい憎しみというのも存在する。
その上で、倒錯した憎しみ、というのも存在するのだ。
そんなに憎む必要のない相手を、神経質なまでに憎み続けているという事がある。

では、どうすれば良いのか?
それは、己の中で、問い続けるしかないと思う。

自分自身に、それを判断する自信が無い、という人もいるだろう。
精神的なハンディキャップを抱えている人は、判断能力に自信が無いかも知れない。

そういう場合は、信頼できる第三者に相談するか、神社にでも行って、じっくり考えてみると良いと思う。
神社というのは、この世にある異次元である。
現実世界で迷いが解けぬ場合は、異次元に行って、解答を求める。
そして、再び、現実世界に返って行くのだ。


自分の憎しみが、倒錯した憎しみであると理解したならば、自分の足元を見つめなおすしかない。
憎しみを、「目標に向かって正しく生きて行く力」へと、転換する以外には無い。