U-NOTE 680 「ボキャブラリー」
「ボキャブラリー」は、「語彙」(ごい)という意味。
「ボキャブラリーが豊富」な人は、同じ内容を、色んな表現で伝えることができる。
意味をわかりやすく説明できて、例え話も的確で面白い。
「面白く話す」ことは、「人を楽しませる」能力でもあります。
ボキャブラリーを増やすコツは、「会話を楽しむ心」が大切だと思います。
そのためには、年齢や性別や性格に関係なく、色んな人と話すことが大切。
俺が、ひとりで飲み屋に通うのも、そういう楽しさがあるからなんです。
飲み屋こそは、脳を活性化させるための要素が盛りだくさんの場所なんですね。
例えば、自分がハマっている趣味があるとしましょう。
同じ趣味を持っている人なら、その魅力を語り合うのは容易ですが、
何も知識を持たない人に、その魅力を理解してもらうのは、簡単ではありません。
同年代ならまだしも、年上の人や老人に、どこまでうまく説明できるか。
異性や、思春期世代や、幼稚園児にどこまで理解させることができるか。
これって、脳を使うんですよ~
俺は、自分の趣味が映画だということが周りに知られているので、
飲み屋でも、映画のことを聞かれることが多いんですが、
その人によって、感想がまるで違うんですね。
自分の好きな映画がけなされたり、嫌いな映画が褒められたり、
人があまり見ないところに注目していたり、感動したり…
同じものでも、見る人によって、全く違う世界になってしまうんです。
人同士が仲良くなるきっかけって、「同じ価値観」を持っていたり、
「同じ趣味」を持っていたり、「同じ好み」だったりと、
お互いの「共通点」を見つけることで「共感」を得る…という場合が多いです。
しかしながら、何を見ても全て「共感」できる関係など、稀有なことだと思います。
俺としては、お互いの感覚の「違う部分を楽しむ」ことこそ、大切なんじゃないかと。
予想通りじゃない反応を示すからこそ、味があって面白い。
予想通りに反応してくれないと機嫌が悪くなるような関係は、どうしても無理がある。
「わかってくれなきゃ嫌だ」と思う人は、ちゃんと伝える努力をしているのか。
「あいつの言うことがさっぱりわからん」と嘆く人は、理解する努力をしているのか。
俺は、相手の言っていることがわからないと感じると、
自分が理解できる言葉に「変換」して、理解しようと努力します。
『…それは、こういう意味だと理解してよろしいですか。』
『…そうじゃないけど、ある意味、それに近いかも…』
相手にそう言わせることができれば、お互いの関係はそれだけ進展したことになる。
こんがらがった紐をほどくように、
濁った水が、時間をかけて2層に分かれて澄んでいくように、
時間をかけて、じっくりと「理解」を深めていくんですね。
俺が、ある映画を見て感動したとします。
それを、映画など全く見ない、酔っ払いのジイさんに説明するのは大変。
大変だけど、その作業が、実に面白いんですね。
自分が何故、感動したのか。
それを、人に説明することにより、自分の理解も深まっていくのです。
映画ブログを執筆するようになって、そういう力が強くなりました。
映画を愛するひとりの観客として、心を磨く手段になるのです。
俺は、うつ病を患って、大変な苦痛を味わいました。
それを、メンタルの知識など持たない、酔っ払いのジイさんに説明するのは大変。
大変だけど、その作業もまた苦痛なんだけど、俺にとっては意味があることなんです。
自分が何故、病気になったのか。
それを、人に説明することにより、自分の心をより理解することができるのです。
うつの記事を書くようになって、自分が精神病である事実を受け入れました。
うつに苦しむひとりの患者として、心を磨く手段になるのです。
映画をバカにする人たちには、なかなか理解してもらえません。
精神病を疎ましく思う人たちには、なかなか理解してもらえません。
最終的に理解してもらえなかったとしても、それはそれでいいと思います。
ただ、「伝える努力」だけは、やめたいと思わない。
愛情や友情は、伝えることをあきらめた時点で、枯れ始めるもの。
伝わらなかったら、伝わるようにするにはどうしたらいいか考える。
方法を変え、言葉を変え、言い方や口調を変えて、自分の力で努力をする。
その姿勢が、人の心を育てるのだ。
男に生まれたからには、男を磨き続けたい。
映画好きになったからには、映画を見る力を極めたい。
精神病になったからには、自分にしか見えない真実を、体を張って確かめたい。
そんなことをしている間に、俺の寿命なんてあっという間に終わってしまうかも。
病気になる前は、「考えることが大好き」だった。
病気になったら、「考え過ぎるからそうなる」と言われた。
でも今、また、色んなことを考え始めている。
もしかしたら、以前にも増して、考えることが増えてしまったかも…
だって、「考えること」って楽しいんだもん。
だって、「人と話すこと」って面白いんだもん。
そういう自分であることが、「自分らしい生き方」なのかもしれないです。
俺が思考し続ける限り、俺のボキャブラリーは増えていくんです。
昨日の俺と、今日の俺は、違う生き物なんです。
そして、明日の俺は、今の俺が想像できないような「何か」を発見していることでしょう。
今は、そういう生き方が「心地いい」と感じられるんです。
飲み屋でしか話せないこと。
ブログでしか話せないこと。
特定の相手だから、話せること。
誰にも話していない、封印された思い出の数々…
俺の物語は、まだ続きます。
「ボキャブラリーが豊富」な人は、同じ内容を、色んな表現で伝えることができる。
意味をわかりやすく説明できて、例え話も的確で面白い。
「面白く話す」ことは、「人を楽しませる」能力でもあります。
ボキャブラリーを増やすコツは、「会話を楽しむ心」が大切だと思います。
そのためには、年齢や性別や性格に関係なく、色んな人と話すことが大切。
俺が、ひとりで飲み屋に通うのも、そういう楽しさがあるからなんです。
飲み屋こそは、脳を活性化させるための要素が盛りだくさんの場所なんですね。
例えば、自分がハマっている趣味があるとしましょう。
同じ趣味を持っている人なら、その魅力を語り合うのは容易ですが、
何も知識を持たない人に、その魅力を理解してもらうのは、簡単ではありません。
同年代ならまだしも、年上の人や老人に、どこまでうまく説明できるか。
異性や、思春期世代や、幼稚園児にどこまで理解させることができるか。
これって、脳を使うんですよ~
俺は、自分の趣味が映画だということが周りに知られているので、
飲み屋でも、映画のことを聞かれることが多いんですが、
その人によって、感想がまるで違うんですね。
自分の好きな映画がけなされたり、嫌いな映画が褒められたり、
人があまり見ないところに注目していたり、感動したり…
同じものでも、見る人によって、全く違う世界になってしまうんです。
人同士が仲良くなるきっかけって、「同じ価値観」を持っていたり、
「同じ趣味」を持っていたり、「同じ好み」だったりと、
お互いの「共通点」を見つけることで「共感」を得る…という場合が多いです。
しかしながら、何を見ても全て「共感」できる関係など、稀有なことだと思います。
俺としては、お互いの感覚の「違う部分を楽しむ」ことこそ、大切なんじゃないかと。
予想通りじゃない反応を示すからこそ、味があって面白い。
予想通りに反応してくれないと機嫌が悪くなるような関係は、どうしても無理がある。
「わかってくれなきゃ嫌だ」と思う人は、ちゃんと伝える努力をしているのか。
「あいつの言うことがさっぱりわからん」と嘆く人は、理解する努力をしているのか。
俺は、相手の言っていることがわからないと感じると、
自分が理解できる言葉に「変換」して、理解しようと努力します。
『…それは、こういう意味だと理解してよろしいですか。』
『…そうじゃないけど、ある意味、それに近いかも…』
相手にそう言わせることができれば、お互いの関係はそれだけ進展したことになる。
こんがらがった紐をほどくように、
濁った水が、時間をかけて2層に分かれて澄んでいくように、
時間をかけて、じっくりと「理解」を深めていくんですね。
俺が、ある映画を見て感動したとします。
それを、映画など全く見ない、酔っ払いのジイさんに説明するのは大変。
大変だけど、その作業が、実に面白いんですね。
自分が何故、感動したのか。
それを、人に説明することにより、自分の理解も深まっていくのです。
映画ブログを執筆するようになって、そういう力が強くなりました。
映画を愛するひとりの観客として、心を磨く手段になるのです。
俺は、うつ病を患って、大変な苦痛を味わいました。
それを、メンタルの知識など持たない、酔っ払いのジイさんに説明するのは大変。
大変だけど、その作業もまた苦痛なんだけど、俺にとっては意味があることなんです。
自分が何故、病気になったのか。
それを、人に説明することにより、自分の心をより理解することができるのです。
うつの記事を書くようになって、自分が精神病である事実を受け入れました。
うつに苦しむひとりの患者として、心を磨く手段になるのです。
映画をバカにする人たちには、なかなか理解してもらえません。
精神病を疎ましく思う人たちには、なかなか理解してもらえません。
最終的に理解してもらえなかったとしても、それはそれでいいと思います。
ただ、「伝える努力」だけは、やめたいと思わない。
愛情や友情は、伝えることをあきらめた時点で、枯れ始めるもの。
伝わらなかったら、伝わるようにするにはどうしたらいいか考える。
方法を変え、言葉を変え、言い方や口調を変えて、自分の力で努力をする。
その姿勢が、人の心を育てるのだ。
男に生まれたからには、男を磨き続けたい。
映画好きになったからには、映画を見る力を極めたい。
精神病になったからには、自分にしか見えない真実を、体を張って確かめたい。
そんなことをしている間に、俺の寿命なんてあっという間に終わってしまうかも。
病気になる前は、「考えることが大好き」だった。
病気になったら、「考え過ぎるからそうなる」と言われた。
でも今、また、色んなことを考え始めている。
もしかしたら、以前にも増して、考えることが増えてしまったかも…
だって、「考えること」って楽しいんだもん。
だって、「人と話すこと」って面白いんだもん。
そういう自分であることが、「自分らしい生き方」なのかもしれないです。
俺が思考し続ける限り、俺のボキャブラリーは増えていくんです。
昨日の俺と、今日の俺は、違う生き物なんです。
そして、明日の俺は、今の俺が想像できないような「何か」を発見していることでしょう。
今は、そういう生き方が「心地いい」と感じられるんです。
飲み屋でしか話せないこと。
ブログでしか話せないこと。
特定の相手だから、話せること。
誰にも話していない、封印された思い出の数々…
俺の物語は、まだ続きます。