香港新国際空港への想い | 趣味の写真

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2002年からデジカメで平凡な写真を撮り、2005年からブログアップして居ます。

1997d63s 今から9年前の4月12日香港国際空港の新交通信号保安設備に関しての用件で出張した。この写真は未だ工事中のランタオ島の香港新国際空港の表玄関である。一寸したアクシデントの調査だったので4日間の短期出張の為観光写真は殆ど撮れなかったが香港の一部を紹介します。


==新空港の開港までの経緯 ==(HP検索より引用)
現在の香港国際空港は、香港市街地のそばにあった【啓徳空港】(Kai Tak International Airport)に代わるものとして造られた。
啓徳空港といえば、大きく機体を傾けつつ香港市街地上空を旋回し、そして中心部のビル群すれすれの高さを飛行して着陸する【香港アプローチ】(香港カーブ)」が有名であった。香港アプローチは、香港を訪れる観光客や航空ファンには人気で、香港名物とも言われた。しかし、パイロットにとっては相当な技量が要求されるものであり(カーブするアプローチのため着陸誘導装置を解除しなくてはならず、飛行すべき場所の目安となるようにチェッカーボードがビルの屋上などに取り付けられていた。それでも、アプローチに失敗し、着陸態勢をやり直したり、滑走路をオーバーランしたり、しりもちをついて着陸したりする飛行機が少なくなかった)、また近隣住民にとっては騒音問題でもあった。
そこで、当時の【香港総督】である【クリストファー・パッテン】は、すでに処理能力の限度を超えて、新たに拡張することが不可能な上、騒音問題や着陸時の安全性に問題を抱える啓徳空港の問題を解決するために、新空港造成を決定した。6年の歳月と200億USA$を費やし、【ランタオ島】北部に隣接するチェク・ラプ・コック島を拡張して1,248ヘクタールの空港島を造成、【香港返還】後の1998年7月6日に香港国際空港が開港した。この開港にともない、7月5日をもって【啓徳空港】は閉鎖された。啓徳空港の終焉、そしてユニークなアプローチの終焉を見届けようとする人々が多く集まった。
香港国際空港が計画されたのは、香港がまだイギリスの植民地だった時期であり、当初は返還前に完成させ、イギリスらの最後の大きな【置き土産】となるはずであった。だが諸事情で完成は返還の1年後にずれ込んだ。その結果、巨大な新空港の開港は、【中華人民共和国】政府の「国力誇示」に利用されたとも言われたが、実際は、建設に関わった企業の殆どがイギリス系企業であったことから、最後のイギリス系企業の利権の集大成だとも言える。


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新国際空港は香港中心街から西へ凡そ35Km離れたランタオ島の北側を埋め立てて飛行場を造った。当時は地下鉄も無くフェリーで渡った。宿は香港市街地から西へタクシーで1時間程の所にある屯門にし、そこから毎日フェリーで新空港の工事現場まで通った。左の写真が船着場、右はランタオ島の船着場から工事現場へ向かう途中、工事が遅れて居り多くの外国人総勢で突貫工事状態であった。


1997d13s この写真はホームベースとして泊った屯門のホテルから南西方向に見た風景で、交通は船、そして建物は土地が少ない関係上全て高層建築物で有り、香港の家賃が高い事や陸上交通網が少ない事が容易に理解できる。


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左の写真は屯門市街地のマンション群、右の写真は夜買い物に行ったスーパーの様子である。


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香港の中心市街地に出かける時は殆どフェリーを利用する。これ等の写真は色んな船が縦横無尽に走っている様子と陸上の高層ビル群を記録した。



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4月15日今回の調査も終わり一緒に行った4人の内自分一人帰国の準備、3人と別れの挨拶をした。残った者は以後信号保安設備の立ち上げ準備で暫く滞在する。上の2枚の写真は今回出張で唯一観光した「ビクトリアピーク」から見た九龍湾である。帰国の飛行機時間の合間に急いでタクシーを使い見学をしたが、夜景だったらもっと綺麗で有ったと思っている。

あれから丸9年も過ぎ、新国際空港の役割も立派に果し、空港からのアクセスも地下鉄、バス等で元空港の有った中心地へ30分以内で行き来出来る様になっているとの事である。出来れば完成した新空港を見てみたいと思っている。


カメラ:Nikon F-601D