以前 地元の素敵なFMラジオ番組に 出ていた人が こんな事をいってました。

「自分というものが 全く なくなっちゃうと 

 この番組の後 どうやって うちまで 帰ったら良いのか 分からなくなるからね~」

自分っていう物は 必要なんだよ って いうようなこと。

どうやら 完全に 自分がなくなってしまった 経験をした人が 出てたみたいでした。



それを聞いたときは なんで 帰れなくなるんだろうか? と疑問でしたが・・・・・・

なぜだか 彼の言葉が 心に残っていました。



覚醒やら 目覚めやらを 求めると

この 自分がなくなる という経験に 憧れているものですが。



Asaminさんが 再び 興味深い記事を 訳してくれています。 

この世は夢だというけれど ← リンク) 

私 = 幻・・・・・・ それだけなのか?


これにでてくる ティム と リサ ですが

私は ティム派。

確かに この世も この私も 夢であるけれど 

夢の世界(この世)では この私の この人生が あり

覚醒(意識・生命・気づき)は ここで このように 展開しているので

それを 省くことは できない っていうか

省いたりせず 楽しめばいいじゃない?って 思ってるんですが。

まあ 再び そこに 完全同一化したら しんどいだろうし

誰でもなく 何でもない 今そのものなんだけれど

形のある世界を 味わう事も いいんじゃない?って。



確かに チベット仏教の師である ヤコブも

覚醒した偉大なるマスター達も 個性というものがあるし

そこに 自分がやる(行為者である) という 思いがあれば

その思いゆえに 何でもないものである事を忘れ 個として 

再び 輪廻転生の輪に 巻き込まれる

と いってました。

  

かのFMに出ていた 男性のように

この 自分が 突然 完全になくなってしまったら・・・・・・

この世で 全く 機能できなくなる・・・・・・みたいだし (^^;)

それも ちょっと 困るな~

そういう体験でも 別にいいけど。



来た道を 覚えて それを 逆にたどる事が できないのは

分別 記憶 判断 そういうことが できなくなるってことで

それに必要な言葉(概念)も 消えてなくなった状態だろうから

そしたら 言葉を 使う事も 喋ったりすることも できないわけで

言葉を 発しているんだったら 

その身体と心 (バルセカールいうところの精神肉体機構)が 何を 喋っていようとも

やっぱり 言葉(概念)は超えていず ひとつの見方の表現にしか過ぎない



な~んて 思ったりするんですね。



そういうもの(違う見方/視点)が たくさん溢れているのが この世界で

実は 自分は 自分がそうと思っていたもの(身体や心や過去)ではなく

全く何もないものだって 分かったとしても

身体が ある限りは ここで 生きてくんだよね。


身体と心のある 今回限りのユニークな 本来の自分でね・・・・・・。