三森真人さんのブログ記事は いつも 簡潔で スッキリ ピシ! としているのですが 
本当の自分と本来の自分 の記事を読んだときには
それそれ それが言いたいんです! その簡潔な表現 素晴らしい!
って 我慢できなくて メッセージを 送ってしまいました。
(是非 ご一読くださいね ↑  リンクになってます)

私のこのブログのトップに 本当の自分 目覚め 愛 と書いています。
これって 誰でも知っている言葉の羅列ですが
その言葉から 思い浮かべることは 人によって 違っているのではないでしょうか?

例えば 私が 本当の自分という 自己の探求をし始めたとき
思い描いていたのは この相対的な世界での その時の自分とは違う
何か もっと 素晴らしい可能性なんかをもった 他より凄い特別の自分でした。

それが ある日 
それは 私が捜し求めている 本当の自分 ではなかった と 気がつきました。 

それでは 本当の自分とは 何なのか。

真人さんの言葉を借りると
   “本当の自分”は始まりも終わりもない存在であり、
   形のあるものすべてがそこから生まれ、
   そこへ還ってゆく無限の意識の広がりだ。
これなんです。
こういうものがあることに 気がついた。

エゴ(自我・個我)にしか フォーカスしていない状態からは
まるで 対極にあるように 感じます。

これは 空であり ワンネスであり 様々な言葉で 現されるものです。

これに気づく過程 あるいは 気づいてからも 
エゴは 時に 悪者扱いをされ 取り除きたい対象になります。
でも 例え 本当の自分に 気づいても
他とは違う 個別の身体と心は 相変わらず ここにあります。 

真人さんが 本来の自分 と呼ぶもの。
  その広大な意識が
  一人の人間を通して自らを表現する際に発揮する
  ユニークな個性

皮肉な事に 実は それが 自己探求で 私が最初に求めていた
特別な自分なのです。
でも 特別の意味を 履き違えていましたし
そこにあった ユニークと言う意味の 特別な自分を 否定していたので
初めっから そこに在ったことに 気づきませんでした。
初めから 特別なのに。

  すべての人の“本当の自分”は広大なひとつの意識だが、
  各人の“本来の自分”はひとつとして同じものはない。

槇原さんの歌じゃないけど 世界にひとつだけの花。

   “本来の自分”は
   それぞれ独自のバイブレーションをもっていて、
   それが共鳴して自然に引きつける人・もの・状況はみな違っている。

だから その花を 咲かせる為には 自分の好きなものであるとか
他とは違っていても 何故か 自分が 惹かれるもの 引き寄せられるものに
素直に 従ってみると良いんです。

   “本来の自分”で、ごく自然にできてしまうこと、
   しかも、その行為そのものに歓びを感じることも、
   一人ひとりまったく違っている。

だから 思考だけに従っていると 迷う事もあります。
本当の所 絶対うまく行くマニュアルなんて ないんですよね。
だって 私達は 一人ひとり違ってて それぞれに 素晴らしいんですから。
あらゆることが あって なんでもあり。

真人さんは 
   “本来の自分”から逸れない生き方をしていけば、
   僕たちは“本当の自分”にひとりでに目覚めていくものだ。
という道筋を 示してくださっています。

そして 本当の自分を求める方向から
一瞬でも あらゆる思考や思い込みなどから 離れた状態を 意識すること
本当の自分が 本当の自分に 気づくことで
逆に 安心して そのユニークな 本来の自分を 生きることもできます。 

エゴ(自我・個我・本来の私)は 決して 忌み嫌うものではなくて
自分の 全面的な受容から
そのユニークさが 更に 輝くんです。