「奥田サロン」という、特にカテゴライズされることなく、多様な日常を持つ人たちが集まるイベントへの3回目の参加。そろそろ自分なりの感想や学びを書けるようになったので、今回はじめて書いてみます。


「奥田サロン」とは何か?ということから説明しないといけないと思いますが、そこは既にNickさんが詳しく説明されていらっしゃるので、こちらをご覧ください。
【イベント紹介】「奥田サロン」ってどんなトコロ?


あと、今回のサロンの内容もNickさんが詳しく解説されています。
「友達いますか?」つるまない、群れない、新しい繋がりの形【奥田サロン2014年2月】



奥田さんご本人が奥田サロンを紹介されているのはこちらになります。
奥田サロンの記録


このような意図で集まる奥田サロンなので、わたしはわたしなりに奥田サロンをどう受け止めるか、ということを考えました。奥田さんは「名言メーカー」です。とても感銘できる言葉を多く繰り出されます。しかし奥田サロンはその有難いお言葉を拝聴するだけの場ではないはずです。奥田さんを初めとして、登壇者や多くの参加者の言葉を聞き、自分がどう解釈して腑に落ちたか、もしくは腑に落ちなかったか、というところまでを整理して、フィードバックとして発信するまでが奥田サロンの価値だと思います。
なので、ここから書くことは、奥田さんの発言ログではなく、わたしの解釈であることをご了承いただき、当日の発言者の意図そのままではないことをご理解ください。





今回のテーマは表題のように「つるまない、群れない、新しい繋がりの形」です。
イベント最初に奥田さんが映し出したスライドには大きく「友達いますか?」と。
何とも端的に考えさせられる言葉です。

こう問われたとき、必ず次に考えなければならないのは「友達の定義」です。どういう関係が友達なのでしょうか?サロンでも誰一人として即答できませんでした。
でも、「仲間」や「同志」ならば答えられます。同じ目的・目標に向かって一緒に行動する仲間。行動は違っても同じ志を持つ同志。

つまり、人と繫がるということに「友達」という、定義不可能な言葉は生きる上で必須ではないのではないか?このような問いであったと、わたしは解釈しました。
友達という言葉が「つるむ、群れる」ことの象徴であり、「この人は友達です」という言葉を使って誰かとの繋がりを表すとき、それは意志のない繋がりであるのではないか、という問題提起。


「つるむ、群れる」とはどういうことなのか?
わたしが得たのは「自分の意志とは関係なく、既存の価値観に“すがる”ことで得ようとしている繋がりの形」という答えでした。

これは「組織」という形の中での繋がりとして、参加者間で議論されたものでした。組織にはビジョンや目的があるにも関わらず、それに「ケチをつけて」いながらもその組織に留まり続ける。その組織の中に自分が求める何かがあって、そこでやりたい事があるから留まるならよいが、そうでもないのに澱みのようにすがるのは、集まるのではなく、つるむ・群れる。

澱みに身を置いていたらゴミが溜まってきます。わたしはこれが「負のオーラ」ではないかと思います。人の繋がりの中にはキラキラと輝くような前向きな考え方や行動もあれば、人の足を引っ張ろうとか無意味な嫉妬とか、そういうものも起きてくるものです。「澱み」に溜まるゴミは、やっかみや嫉妬の類いだと思います。どうしても生まれてくるこれらのものから逃れるには、自分が全速力で走り抜けて、澱みに近づかないようにするか、全力で澱みを引っ掻き回してゴミを蹴散らしてしまうか。
組織の中で力を発揮するか、思い切って飛び出すか。まあ、どちらかしかないけれど、どちらにしてもパワーとスピードが武器。

また、どちらにも必要なことが「孤高」の姿勢
やっかみや嫉妬と闘うには、一時はひとりになってしまうことも覚悟しないといけないでしょう。仲間・同志が見つかるまで。
組織を飛び出すことを決めたとしても、人というのは「愛着・執着」というものが多少なりとも存在します。過去と決別するためにも「孤高」の姿勢を強いられます。(メタファーとして)元カレの心配をしていては、前には進めないのです。


つるまない・群れないならば、常に一人でいればいいのか?
何かを成したいのならば協力者は必要です。仲間もそうだし同志もそうですが、それだけではありません。この繋がりの相手をあえて言うなら「知り合い」でしょうか。「知り合い」というととても薄い繋がりのように感じますが、意味としては「自分のことをよく知っていてくれて、その人のこともよく知っている」人です。

「知っている」の内容は、その「人となり」も含みますが、一番大事なことは「関心事」です。どのようなことに関心があって、何をしたい人なのか。それを知ってくれている人を多く持つことで、より多くのチャンスをもたらしてくれる「確立」が高まります。

自分が目指すモノ・コトに繫がっているチャンスというのは、世間には多く存在します。それを自分が知らないだけ。チャンスを掴みにいこうと必至に走り回ったとしても限界があります。
しかし、自分のことを知ってくれている人が多ければ、「これは◯◯さんのチャンスじゃないか?」と知らせてくれるようになります。わたしも最近、この経験は多く得るようになりました。わたしの新しい事業について誰かに説明しておくと、どこかでご紹介してくれたり、お客様が仕事の幅を広げてくださるようになったり。

これらを「運がいいだけ」と片付けてしまうと、本当にチャンスの女神を見過ごしてしまいます。わたしはまだできていないことですが、わたしにチャンスをくださった方たちというのは、普段から本当に多くの人脈を持った人たちです。彼等がこの人脈を持てた背景がよくわかりました。誰かのチャンスに数多くの手助けを積んできたからだと思います。お互いにチャンスをお知らせし合っているうちに、「大切な繋がり」として相互に認識できるようになり、立派な人脈として形成される。そういう経験があるから、わたしにも惜しみなくチャンスを知らせてくれるのだと思います。

これは、奥田さんが「回転寿司理論」として紹介されているものです。
チャンスは回転寿司

お互いのチャンスを知らせあって、お互いに成長を喜び合える関係は、一緒に何かをしなくても築くことができる、新しい繫がり方だと思います。


サロンのキーノートとして奥田さんと数人の方のお話があった後、会場全体に向けた質疑応答がありました。わたしも1つ出しました。
「つるまない自信はあるのですが、敵ができやすいです。みなさん、敵はいますか?どう対処していますか?」

先ずは奥田さんの回答で「わたしはあまり敵はいません。『へー、あなたはそう思うんだ。』と、意見の違う人を受入れてしまうので。でも、手は結びませんよ。」なるほどなー。
実はわたしもある程度自分の中に答えは持っていて「敵を敵と思うから敵になる。同じ目線に立つから敵になる。多様性における違う価値観と思えばよい。」と思っているのです。


ここまでが、わたしがサロンの議論に共感して学んだこと。


もう1つは、このサロンをきっかけにして自分で深く考えて得た答え。
それは「わたしには友達がいる」という答えです。
なぜかというと、わたしには「友達の定義」があるからです。

「利害関係なく、ご無沙汰をしていてもわたしの話を聞いてくれる相手」というのがわたしの友達の定義です。

ここに書いた通り、わたしにとって友達とは「わたしが友達と思う」だけであって、相手はわたしを友達と思っているかどうか、実は関係ないのだな、ということを今回気づきました。それでも、わたしにとっては「気持ちの拠り所」として必要な存在だし、あまり嫌わないでもらいたい大切な人です。でも、利害関係なくとも、友達にだってチャンスは送らないとな、ということで今回は結びたいと思います。