Marvel 我が家の可愛いフォーンの男の子

      

           

亡くなる1ヶ月くらい前の写真です。

Marvel 奇跡を起こせる子であって欲しいと付けた名前。

病気した時も、奇跡を起こして元気で過ごせる子であって欲しいと願い付けた名前でした。

 

食べるのが大好きドキドキ おもちゃが大好きラブラブ

キラキラボールが大好きで、飲み込んで内視鏡で摘出したことも。それから、我が家はキラキラボールが撤去された。

猫じゃらしで遊んでると、夢中になり銜えたら離さない。取り上げようとすると、犬みたいに唸って私ですら取り上げることが出来ない程でした。普段はとっても、従順でお座りも、持って来いも出来るとっても良い子。

甘えたちゃんで、ベッタリ抱っこちゃん。ちょっぴり空気読めないお調子者。

          

こんな寝方をする可愛い子。

遺影にする写真を探してたら、子猫の時からだった。

          

我が家に来た時の写真。

 

こんなに早く亡くなるなんて思ってもいなかったよ。

病名、腎臓のリンパ腫。

あみゅもリンパ腫だった。

我が家はなぜこうもリンパ腫になるのだろうはてなマーク

フードもなるべく質の良い物を選んでるつもりだし、あみゅが亡くなったあとから、腫瘍にさせたくないと、腫瘍の時でも使う免疫力をあげるサプリも使っていた。

我が家の何が悪い? 誰か教えて欲しいくらい。化学物質?環境問題?私の行い?

 

4月入ったくらいに、飲水量が増え、腎臓が悪くなってきたんだろうな・・・と、検査。

BUNが上がりだしてて、自宅で皮下補液開始。

そのうち、腎臓こんなに触れてたっけ?って思い、超音波検査。

腎臓の構造からして、リンパ腫だろう・・・と。

細胞診検査をし、抗がん剤治療を開始。

最初の2回はそれなりに効果はあった。

一番効果があった抗がん剤後は、元々風邪がひどくなる子だったけど、抵抗力も落ち風邪悪化して、抗がん剤が次出来なくなり経過を看ていった。

腎臓のリンパ腫は予後は良くないので、無理な抗がん剤治療をしたくはなかった。あみゅの時は、結構積極的に抗がん剤治療をしたけど、それでも2ヶ月だったし、最期は副作用の方が大きかった気がした。

だから、Marvelの時は、延命&なるべく自分で食べれる時間、気分良く過ごせる時間を大事にしたくて、無理はさせたくなかった。様子を見ながら、計4回の抗がん剤治療をした。

一度抗がん剤治療をすると、風邪を悪化させてしまって、今までも風邪引くと、本当にひどくて鼻は通らなくなり、眠いのに眠れない状況をよく見てたので、最期まで風邪と闘ってた。

亡くなる1週間前も鼻が詰まって顔を下ろして寝てる姿を見なくなってしまった。

 

亡くなる4日前、私が仕事から帰ると、ふらふらしながら私の後を着いて回ったり、鳴いて呼んだり。

最期の頑張りなのかも・・・と、相方と話した。

 

亡くなる3日前、昼間まではヨロヨロしながらも歩いてた。カメラで移動してた姿を昼休みに見ていたのだが、夕方から頭を上げれなくなったと相方からLINEが入ってた。慌てて、帰宅。

Marvelって呼ぶと、ムクッと起き上がってくれて、待っててくれたんだ・・・って、嬉しかった。

その後からは、その場から動けなくなり、寝たまま。同じ体勢がきついのか寝返りだけはやってた。

苦しいだけで、弟に『もう、迎えに来てあげて・・・』と、お願いしたが、弟も忙しいのか?なかなか来てくれず。

そして、弟が亡くなってちょうど1年1ヶ月の7月23日の朝、Marvelは旅立ちました。

病院に行くのが嫌いだったから、なるべく自宅で治療をした。

最期も自宅で看取りたいと思っていたし、毎日ママがいない時に逝かないでよって言って仕事に出かけた。

ママがいてくれた時で良かったよ。

Marvel良く頑張ったね。

風邪引いてきつかったし、結膜炎になったら1年くらい治療もかかったし、嫌なこと沢山された猫生だったけど、ママはMarvelと出逢えて幸せでした。一緒に過ごせて楽しかったよ。

ありがとう。

いつか、きっと逢えると思ってるから、それまでみんにゃと、お兄ちゃん(ママの弟)と、楽しく過ごしててね。

愛してるよ。

 

 

Marvelの悲しみが続く中、我が家には一難去ってまた一難。

守っててくださいね。

今日は、ディアーの命日。 9年が経ちました。

そして、今日が弟が亡くなって100日。

我が家は神式なので、祭となるそうな。

 

母が、9/30が100日祭なんだよね・・・って、言ってて。

これまた、ディアーと弟は何かの縁なのか?繋がりなのか?

9年前、ディアーが亡くなった日、弟とディアーの最期を見届けました。

翌日から、癌治療の入院となる為、その前に・・・と、我が家に遊びに来ていたんです。

ディアーの最期を、翌日から治療を始める弟に見せて良かったのか・・・と、その時も思いましたが、弟はディアーが守ってくれてるんだ・・・っと、言っていたのを思い出します。

        

ディアー、お兄ちゃんを(弟を)9年守っててくれて、ありがとう。

もう、逢えたかな?

お兄ちゃんも、こんなに早くディアー達の所に逝く予定じゃ無かったって、きっと話してるよね?

 

まだまだ、寂しさは抜けないし、信じられないまま。

未だに、ふと、弟に聞かなきゃって思う事があって、『あ・・・もう、いなかったんだショボーン』って、悲しくなる。

 

弟の事で思った事、もうひとつ。

我が家の今までのにゃんず達は、みんな同じペット霊園で火葬をしていただいてて、最期まで気持ちに寄り添ってして頂いてて、お骨も私達が見せて頂く時には、爪先から、しっぽの先まで、綺麗に並べてくださってて、本当に丁寧にしてくださる所です。

説明もしてくださいますし、灰も残らず骨壺の中に入れてあげてくださいって、小さなちり取りの様な刷毛まで用意して頂き、その子のすべてを持ち帰っています。

そして、今も我が家にみんないます。

納骨しないことに、色々なお考えがあると思います。当時、私は我が家に置いておくことに対して、批判的な言葉を貰った事もありますが、それはその家族の考え方、想いなので、私は他人に言われたくはありませんびっくりマーク

それは、今回も同じです。

と、少し話はそれましたが、弟の時には、それも心残り沢山でした。

人の火葬場って、こんなに冷たいの?って。

淡々と仕事こなしてますって感じに思えた。

あなた達、ペット霊園さんの方がなんぼも親切だったわよ!! 研修に行ってくればはてなマークって、思った程。

弟という、近しい身内だし、病院での出来事にも頭にきてた私だったので、そう思ってしまったのかもしれないけど・・・。

 

やはり、最期の見送り方って、大事だと思うんです。

それは、亡くなった方に対してもだし、遺族に対しても。

最期まで、弟に対しても申し訳なかったし、私も後悔ばかりでした。

最期、扉が閉まる寸前まで顔を見に行ってた私。

スイッチを押すのを嫌だって、泣いてた弟の奥さん。辛い、辛い、別れでした。

私の地域では、お骨はずべてを持ち帰らないの宗風?らしく、にゃんずみたいには、すべてを持ち帰れなかった。

骨壺に、勿論入りきれないのも仕方ないけど・・・。

でも、もっと骨壺になるべくぎゅうぎゅうに入れてあげれば良かったって、今思う。

 

実家に主のお骨。

そして、私の所と、弟の奥さん(弟と奥さんが一緒に住んでた所)と3つ分骨する事に。

分骨も色々考え方ありますが、批判は受け付けません(笑)。

実家のお骨は、お墓に納骨され、母はやはり寂しそうです。納骨するまでは、お骨になった弟でも、やはりそこいてくれてる気がしてたんだと思う。

私は毎朝夜、亡くなったにゃんずにお水とフードを入れ替えて、弟にも水を入れ替えて、にゃんずと弟のお骨の頭をとんとんってして、話しかけてます。

『今日も、みんなを守っててね。いってきます。』って。夜は、『今日もありがとう。お休み』と、毎日話しかけます。

弟には、『今日も忙しかった? にゃんずも見守っておかなきゃだし、実家にも様子見に行かなきゃだし、奥さんの所にも勿論行かなきゃだしね・・・』って。

弟の奥さんは、住んでる所に分骨置いてるのに、月命日には必ず、仕事まで休んで、実家のお墓までお参りに行ってくれます。

そして、私の父母の様子を見てきてくれます。

往復3時間ちょっとはかかるのに、ひとりで毎月行ってくれます。

姿は変わってしまったけど、にゃんずも弟も骨壺に入ってしまった形だけど、そこにいてくれるという嬉しさはあります。

ずっと元気でいてくれるのが、一番なんですけどね。

実家のお墓参りに帰ったら、必ず納骨されてる所を開けて、『逢いにきたよ~』って手を振る私達でした。

本日、8月26日は弟の45歳の誕生日。

の、はずですが、45歳の誕生日を迎えることなく旅立ちました。

 

旅立って、2ヶ月が過ぎましたが、まだ信じられない気持ちです。

一緒に住んでたわけではないので、入院してるんだろうな・・・くらいの感覚。

ただ、LINEしても返事は返っては来ない事は、わかってる。

 

胸腺癌とわかって9年。

ずっと闘ってきました。癌の前から闘病はしていたんで、最初の病気からは20年以上の闘いでした。

学生時代に胸腺腫の手術をし、数年後に重症筋無力症を発症。そして、9年前胸腺癌と発覚。

 

弟とは、子供の頃は喧嘩ばかり。でも、大人になって、一緒に遊びに行ったり、ご飯食べに行ったり、仕事の話をしたりと、多分仲良い姉弟だったと思います。

車で5分くらいの所に住んでいたけど、コロナ禍になり、なかなか逢うことも出来ず。もし自分が無症状で持っていて、弟に感染させたら重症化させてしまうのが怖く、なかなか逢えなかったのが悔しい。

 

最期まで諦めず、きつい治療を続けてきた。最期の入院も、治療の為に入院していた。

入院先の病院では、『もう出来ることが無いし、抗がん剤も止めるから、胸水が溜まってきてきつくなってくるので、覚悟するようにと言われた』と、LINEがきてた。

胸水が溜まると眠れなくなるから、続けたいと言ったが、拒否されたと言う。

 

姉はこんなに元気なのに、なんで弟ばかりきつい思いをしなきゃいけないんだ・・・と、話をした時も、弟は『こんなきつい思いをするのは自分だけで充分』と言った、優しい子。

姉は、こんなに気が強く、自分勝手な我が儘な人間なのに、我が家の家系では珍しいくらい、優しい子だった。親からも、姉と弟の性格が逆なら良いのに・・・って言われたくらい。

 

弟の奥さんがとっても良い子で、最期まで寄り添ってくれた。

弟は、彼女に出逢えて、最高に幸せだったと思う。2回目の結婚記念日は迎えられなかったけど。

結婚式も、新婚旅行も行けないままだった。

彼女にも、彼女のご両親にも感謝しかない。

相手がバツイチってだけでも、抵抗あるのに、癌とわかってて結婚を許してくださった。

弟はこれから先の事を考えると、結婚に踏み切れずにずっといた。なのに、彼女のプッシュの方が大きかったのか?2年前に籍を入れた。

弟は、結婚を誰にも反対されなかった・・・。こんなに反対されなくていいのかな?・・・・と言ってたくらい。

彼女のご両親には、私も私の父母も、親戚も感謝しています。それ程、素晴らしい方です。

 

最期の入院では、感染防止対策の為、面会も全く出来なかった。

LINEでちょこちょこ連絡はとっていた。亡くなる1週間くらい前は、調子が良さそうで、食べ物の差しれをお願いされてたくらい。身体の為を思って、ダメだよ・・・・って、差し入れしなかったけど、今となっては食べたい物食べさせてあげれたら良かった・・・って思う。

調子が良いな・・・と思ってた2日後くらい、急に息が苦しくなったから部屋を移動したと。

でも、まだLINEで連絡は取れてたくらい。

亡くなる4日前、元々は病院から転院の話の予定があり、呼ばれていたが、状態が厳しい事を話をされた。

ずっと闘ってきた身体は、いろんなところが悪くなり、肝硬変にもなっていたし、腎臓も悪くなってきてたし、腹水も妊婦さんの様になっていた。足もパンパンで、足から水分が出てくるほどに。

それでも、諦めず、本人は頑張っていた。病院から、もう出来ることがないから、転院を言われた時も、諦めず自分で放射線治療を提案し、やってみることになり、治療してた。

こんなにあっと言う間に、亡くなると思ってもいなかった。

厳しいと言われてからは、弟の奥さん、私、私の両親と病院での時間を過ごした。

呼吸が苦しくなり、モルヒネを使い出し、最初はまだきついなりに意思の疎通が取れていたが、苦しさが増すので薬の量も増え、ずっと寝てるだけ。苦しくて、ベッドに横になることが出来ないのが数日続いてたので(ずっとベッドに座ったままウトウトしか出来なかった)、ベッドに寝れるのが身体は楽そうには見えたけど。

亡くなる30分くらい前から、酸素飽和濃度が下がりだし、急に心拍も下がりだし、亡くなった。

その間、医師は一度も来なかった。看護師の方が『先生呼んできます』と、言って出て行ったが、医師はその間一度も弟を診に来てはくれなかった。

息を引き取った時、病室にいたのは私と弟の奥さんだけ。

急変した時、ドラマの様な慌てた先生達の姿なんて全く見ることはなく、現実はこんなもん?

モニターは付けられてので、心電図が止まったくらいで、医師は死亡確認にやってきた。

私達には、死亡したから確認に行くか・・・くらいにしか、思えなかった。

亡くなった時には、悲しさの方が大きかったので、そこまで思えなかったけど、しばらくしたら、なんであの時医師は来なかったのか?病院なのに、亡くなった時に医師も看護師もその場にいないって?って、無性に悲しく悔しくてならなかった。

しばらくして、担当医師に話しに行った。

『本人が蘇生処置は望まれていなかったので・・・』って。

それを、聞いたのは亡くなってからの話。その病院では、延命処置を希望するか?しないか? 口答だけで、書面での確認を取ってないらしい。

本人が望まなかったからって、医師も看護師も誰も来ないってどうよ?

立ち会ってなければ、弟は誰にも見送られないまま息を引き取ってたかもしれない・・・と思うと、悔しくてならなかった。

他に急患があったのかもしれない。助かる命の方を優先するのは正しい事だと思う。

医師だって休憩してたのかもしれない。人間だもん、休憩だって必要。だけど、当直の医師って1人なの?

死亡確認に来ました・・・・ってタイミングで、慌てた様子もなく入ってきた。

大きな病院って、こんなもの?

私も、弟の奥さんも、絶対この病院では死にたくないと思った。

大きな病院は、最先端の治療だし、医師だって沢山の経験と勉強が出来る、医師が育つ所だと思う。医師が育たなきゃ、医療は進んではいかなし、助かる事もできない。だけど、病気の事だけじゃなく、患者や患者の家族に対しての思いやりが欠けてると思った。

きっと、医師だって、自分の家族なら、もっと向き合うでしょ?って言ってやりたかった。

そんなひとり一人に向き合ってたら、仕事がこなせないのかもしれないけど、私は動物の看護をしてて、自分の子(猫)がされたら嫌だと思う事は、職場でも気を付けて看護してるつもりなので、その気持ちがわからない。

コロナ禍で、医療崩壊寸前と言ってる時代に、何言ってるんだ?って、言われるかもしれないけど、私は悔しくならなかった。

医師が来ても、亡くなってたと思う。でも、『本人は蘇生処置は希望されてませんでしたが・・・』と、その時に寄り添って貰えてたら、私達の気持ちも違っていたと思うが、なんか見捨てられてた気がした。

 

弟の癌は、希少癌であり、検査技師をしてた弟は、癌がわかった時に、『亡くなったら今後の医学の為に、解剖して欲しい』と、言っていた。ここ数年は、その話はしていなかったけど、以前臓器提供カードも持っていたくらいだったので、母は嫌がってたけど、本人の希望だったと言うことで、解剖を行った。

そんな、優しい子だったのに、なんでこんなに早く逝ってしまったのだろうか・・・・。

 

未だ、弟の奥さん、私、母は、受け止められずにいる事も多い。

 

亡くなった後、私は母が体調を崩してしまうのではないか・・・と、心配していたが、母よりも葬儀の後に体調崩したのは父の方だった。

弟と父は、仲が良いとは言えなかった。男同士というのもあるが、あまり一緒にいなかったし、会話もあまりなかった。

弟が亡くなる前の数日、父も病室に来ていた。父は、こんなに長い時間一緒にいたのは、始めてかもしれないと言ったくらいだった。

 

亡くなって、写真を探したりするが、私の中には弟と一緒に写った写真は、あまりない。

ここ数年は、一緒に出かけられなかったので、尚更無い。

動画なんて、全く無かった。

なかなか兄弟や、親子で、この歳になって一緒に写真を撮る事なんてない。

でも、撮ってください。いなくなってからでは、写真撮りたくても撮れません。

動画を見ると、嬉しい気持ちになります。

亡くなってからでは、思い出は増えません。

皆さん、照れくさいかもしれませんが、いなくなって望んでも決して手に入らないんです。

写真や動画は、沢山撮影されてください。

弟との写真があまりないことも、今の私の後悔です。