あるサッカーチームの栄枯盛衰13 | エッセイのコテージ「黒ひげ」日誌

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田舎暮らしの老人コピーライター「黒ひげ」が、暮らしの中で感じた“よしなしごと”を綴ったエッセイを掲載しています。

 東海リーグ

 歴史を書いていく手腕は、錯綜する事実をどのように整理して、いかに順序よくまとめるかにある。時間の経過を追いながら書いていると、どこかで時間を逆転して書かなければならないことが必ず幾度かはある。これをいかに上手に乗り切るかが書き手の腕なのだが、思い込みの強い歴史的な事象に差しかかると自己抑制が利かなくなり、思いの丈だけが表面に湧き出てきてしまって、どのように書くかがコントロール不能になる。その轍を踏んでしまったという悔いが残るのが、前回の原稿だった。時間を飛び越え、リーグ戦の経緯を置き去りにしてしまい、気分の赴くままに1年先に進んでしまった。

 91年シーズンの結末にいったん話を戻すことにする。県1部リーグ優勝を全勝飾ったフューチャーズは、東海リーグの入れ替え戦である第26回東海社会人トーナメントが92年2月25、26日の両日、名古屋の瑞穂球技場で開かれた。この大会に出場した4チームはフューチャーズの他に、県リーグ2位の富士通沼津、三重教員、アンフィニ名古屋、岐阜教員、豊田自動織機、川崎重工、本田技研鈴鹿の8チーム。これか2ブロックに分かれてトーナメントで戦う方式で、2チームが翌年東海リーグに昇格することになっていた。フューチャーズは、アンフィニ名古屋、岐阜教員、本田技研鈴鹿の4チームのAブロック、緒戦はアンフィニ名古屋と当り、岐阜教員と本田技研鈴鹿と東海リーグへの昇格権争う。

 日刊スポーツはアンフィニ名古戦を次のように伝えている。「実力は明らかに違っていた。得点も4-1。しかし、フュ-チャ-ズイレブンの表情はいま一つさえない。『やろうとしたことができなかった。今日はサッカーをやっていても楽しくなかった』。2点を挙げた南は、不満がありありだ」

 アンフィニはまったく攻めの意志をもたなかった。DFが途中でボールを奪ってもタッチに蹴り出すなど、失点をいかに減らすかだけの戦術をとってきたからだこうしたチームにただ勝てばいいという段階は過ぎてしまっていた。内容を伴う試合をどうやって作っていくか。これが東海リーグでの課題だからだった。そのチームにPKにしろ1点を献上した。屈辱感もあったのだ。

 翌日の昇格を決める第2戦の相手は岐阜教員。前半22分までにミケイロ、志村、森下が決めて、早々と勝敗を決めてしまった。シュート25本をつるべ打ちしてあっさり完勝した。

 この試合が、磐田東高のコーチ就任が決まったGK山田智章の引退試合になった。その前年、樋口が京都にある仏教大学の通信制の文学部を卒業して母校四日市中央工高の社会科の先生になった。恩師城●●先生の下でサッカー部のコーチに就任したのだ。その最初の教え子は、小倉、中西、坂崎だ。山田も樋口のこうした人生目標に刺激を受け、1年遅れでこの大学の講議を受け始めた。卒業が決まり、磐田東高の宮司佳則監督の右腕としてコーチに就任することが決まっていた。

 このふたりについての愉しい思い出になっているのが、この樋口、山田両選手の卒論執筆のアドバイザーになったことだ。樋口は遠州の偉人「金原明善」翁の事績を取り上げ、一方山田は「清水次郎長」をテーマにした。真面目一筋の樋口と、清水生まれの熱血漢山田の性格の違いが、こんなところにも現れている。

 ところが、二人に共通している面もある。どちらもチームキャプテンを務めてきたことだ。責任感があり、組織をひとつにまとめて引っ張っていく力量がある。だからこそ彼らは、指導者、教員の道を選んだのだと思う。現在、樋口は四日市中央工高、山田は磐田東高の監督を務めている。山田の育てた選手たちの中からは、アンダーエージの日本代表(藤ケ谷/札幌)やJリーガー(村主/東京ベルディ)も育っている。

 再び話が脱線しかかっている。あわてて、92年シーズンに話を戻そうと思う。

 92年度の東海リーグは新たに昇格したフュ-チャ-ズと豊田自動織機の2チームに、日本電装、トヨタ自動車、ジャトコ、藤枝市役所、トヨタ蹴球団、豊田工機、ミノルタカメラ、マルヤス工業、ヤマハクラブ、名古屋クラブの12チーム。前期は総当たりで戦い、後期は上位リーグ6チーム、下位リーグ6チームでリーグ戦を戦うという方式を採用している。

 フュ-チャ-ズにはこの年から、世界のサッカー界の至宝ディエゴ・マラドーナの末弟ウ-ゴ・マラドーナが加わった。ウ-ゴは開幕試合の名古屋クラブ戦で鮮やかなデビューを飾った。開始直後の1分、中盤から右隅にロングパスを放ち相手ディフェンスの裏に周り込んだ熊谷がセンタリング。これをミケイロが頭で合わせて早々と先制した。さらに5分にはミケイロのパスをダイレクトシュートして初得点を記録し、35分にはミケイロの左からのセンタリングをボレーで叩き込む。動きの鋭さ、ゲームの流れを読む早さ、そしてゴールに持ち込む執念など、どれをとってもアルゼンチン・ユースの顔だったウ-ゴのサッカーセンスの非凡さをうかがわせるものだった。結果は、ミケイロの活躍も加わり5対1でシーズン開幕戦を飾った。この勝利はまた、県西部3部リーグから続いている連勝記録を80に延ばした節目の試合でもあった。

 2節では日本電装と対戦した。昨年2位の強豪チームだが、前年10月山形県鶴岡市で開かれた社会人選手権準決勝で5対1と圧勝していた。この試合でも最初からゲームを支配し、ミケイロ、マラド-ナ、南の強力トリオがそれぞれ1点づつをゲットし、3対1で勝った。3回戦の相手は藤枝市役所、桑原さん兄弟と志村の故郷のチームで全国自治体サッカーでは最多優勝回数を誇る強豪だ。地域リーグで戦う市役所チームはこのチームの他に秋田市役所があるくらいなもの。サッカーの街藤枝の誇りでもある。

 この試合、先行したのは藤枝市役所。開始直後40秒でセンタリングからダイレクトシュートを決められた。しかし、5分にマラド-ナのシュートを弾いたGKのリバウンドをミケイロが蹴り込んですかさず同点とし、18分には鈴木(康)、25分には熊谷が決め、さらに後半終了間際にミケイロの2点目が加わって、結局4対1と藤枝市役所を下した。4節のマルヤス工業戦でもウ-ゴ、ミケイロ、南のトリオを3点を上げ、相手を零封して完勝。5節では現在のグランパスエイトの母体の一つとなったトヨタ蹴球団は両チーム譲らぬ好ゲームとなった。しかし、39分にゴール前にドリブルで持ち込んだ鈴木(康)を相手ディフェンスが倒しPK。これをミケイロが決めた1点を守り切っての辛勝だった。シュート数もフュ-チャ-ズ10本に対してトヨタ蹴球団は6本、まったくの互角であった。リーグ戦ではじめてハラハラする展開になったゲームだった。6節以降も前年の県リーグとは違った苦しい戦いとなった。6節のミノルタカメラ戦こそ4対1と凌いだが、7節のトヨタ自動車戦でも1対0、8節の豊田工機には5対0、ヤマハクラブには3対1、豊田自動織機には7対0、ジャトコとは1対1と、これまでのような大量得点ができたのは豊田工機、豊田自動織機の2試合のみだった。しかも前期最終節ではリーグ戦初の引き分けまで記録している。

 上位チームによる後期リーグ戦でも緒戦のトヨタ蹴球団には4対1と谷中、ミケイロの頑張りで勝ち、藤枝市役所にも3対0と連勝したが、3節の日本電装とは相手に先行され後半追いついて1対1としようやく引き分けに持ち込むという苦しい試合も経験した。この時点で2試合を残して東海リーグの優勝を確定し、JFL2部への昇格リーグへの切符を手にした。後期4節ではトヨタ自動車(裾野市)に0対1と破れチーム創設以来のリーグ戦の連勝記録は91でストップした。最終戦はジャトコを3対0と下して優秀の美を飾ることはできた。地域リーグ優勝まで6年、91勝1敗でのJFL2部昇格挑戦という最短記録はまだ破られていない。おそらく、これは永遠に残る記録になるかも知れないと思っている。

 東海リーグでの戦績は13勝1敗2引き分けの勝点28、総得点48、失点9、得失点差39。ちなみにこの年の2位日本電装は9勝3敗4引き分けの勝点22、得点36、失点22、得失点差14だった。この時点でも明らかにフュ-チャ-ズの力がずば抜けていたことを物語る数値だった。チーム内の成績はミケイロの17得点を筆頭に、ウ-ゴ、南の得点、谷中の4得点、鈴木康之の3得点、マチャイン、熊谷、森下の2得点、そしてチャン、小澤、近の1得点だった。最多出場は南の16、安間の15。竹内、沢村、ミケイロ、熊谷、伊藤の14がそれに次いでいる。選手層の圧さが増し世代交代が進んだシーズンでもあった。

 JFL2部昇格を決める第16回全国地域リーグ決勝大会の予選リーグは、93年3月5、6日の両日、浜松の県営遠州浜海浜公園グランドにYKK(北陸リーグ)と東北電力(東北リーグ)の3チームで行われた。緒戦のYKKとは天皇杯で当り勝ったことのあるチームだった。前半12分に先行を許したものの、その後はフュ-チャ-ズペースで着々と仮点、森下、谷中、簑口がそれぞれ2得点づつをあげ、試合が終わってみれば6対1の圧倒的勝利となった。翌日の東北電力戦では22分過ぎ、7枚の壁を巻いてのウ-ゴのフリーキックが決まり先制。しかし、67分に同点とされたものの、ゲーム終了間際の87分にPKを得て簑口がこれを決め、接戦をものにした。この結果、フューチャ-ズが2戦2勝となり、悲願の昇格決定の場に臨むことになった。

 決勝大会に出場したのはフューチャ-ズのほか、トヨタ自動車(現グランパスエイト名古屋)、NEC山形(現モンティディオ山形)、セントラル神戸の4チームだった。3月19日から21日の日程で岡山県の美作町のサッカー・ラグビー場で開催されたこの試合の緒戦の相手はセントラル神戸。前半34分谷中のコーナーキックを南が頭で合わせて先制した。しかし62分には同点ゴールを奪われ試合は降り出しに戻った。ここで温存していたウ-ゴを投入し、相手に傾きかかた流れを引き戻した。攻撃に幅ができたことで相手守備のマークのずれ、この間隙をついた簑口がゴール前にパス、これを森下が蹴り込んで辛くも勝利を手にした。翌日の第2戦の相手はトヨタ自動車。前年のリーグ戦で唯一苦杯を喫したチームだ。先制したのはフューチャ-ズ。前半30分に谷中から上がったボールを簑口がシュート。これがポストに当ってリバウンドとなったボールをウ-ゴが豪快に決めて先行した。しかし、後半35分にトヨタが後半で放った唯一のシュートがゴールに吸い込まれ、ほぼ手中にしていた勝利が逃げていった。試合はそのまま終了し、対戦成績はこの時点で1勝1敗となった。勝っていればこの時点で昇格が決まったのだ。NECの1勝1分け、トヨタの2分けとなり最終戦のNEC戦での結果がすべてを決することになってしまった。翌日の試合までの時間が長く、沈痛な気持ちになった。チームに関わってこんな気分で過したのは始めての経験だった。ここで負ければこれまでの苦労はすべて水の泡になる。しかも、90年の全国社会人選手権で対戦し勝っている相手だった。

 1次予選から先制されて追いかけるという厳しい試合展開が多かっただけに、この試合はスタートから全開の攻撃を繰り広げた。前半3分にコーナーキックからのこぼれ玉をゴール前に詰めていた前田がシュートして先制した。その2分後にはウ-ゴのフリーキックが鮮やかに決まって中押しの2点目。さらに後半にも簑口が2本のシュートを決めて試合の帰趨を早々と決めてしまった。3点を取ればフューチャ-ズの勝利パターンだった。81分に1点を失ったが、余裕でJFL2部への昇格を手にすることができた。同時に昇格するのは同じ静岡のトヨタ自動車となった。

 このシーズンは、リーグで初の負けを記録し、天皇杯のルールが変更になって県決勝でヤマハ発動機に0対4と破れ、JFL昇格試合もこれまでになく苦しいゲームが多かった。目標の8年に後1年と迫り順調に段階をクリアしてきたものの、これまでに経験したことのない苦しい、困難な戦いを制して勝ち取ったものだった。93年のJ2での戦いもさらに困難なものになるだろうと予想された。より高いレベルでの成果を勝ち得るためにフューチャ-ズは、さらに大きな苦労を重ねていかねばならなかったのである。