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思いの切れ端

2012-01-16 18:30:54
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 ボクは、今「物書き」という自分の望んだ境遇と、「死ぬまでには絶対果たさなければならない」という境遇の狭間でもがいている。自らまいた種に任を取るというほどのことで、たいしたことではない。だが、その実現、達成には気の遠くなるような時間と、それにかかり切りにならざるを得ないというしんどさはある。

 ボクの眼前に広がる風景では、前者の境遇は“彼岸”であり、後者の境遇は“此岸”にある。彼岸を望んだとしても、この此岸に身も心もがんじがらめ縛られており、なすすべはない。これが我が身の現状である。

 彼岸を望めば望むほど、それはいっそうまぶしい光輝で輝き、此岸がこれに反比例してますます惨めで色彩の乏しいものになっていく。これでは、自らにとって何よりも貴重な一度切り巡り行く時間と根気をあてどもなく消費するばかりだ。ばかばかしい限りだと思うのである。「彼岸」はあくまでも彼岸であり、今を生きる「此岸」にしか、自らを処し、切り開いていく道はない。

 ただ一つ許されるのは、「此岸」に「彼岸」の光景を投影し、その幻想の上で自分の想念を泳がせることだけである。言い方が回りくどいが、つまり「現在の生きざま」に「彼岸の理想」の色彩や光輝を重ね合わせて行動することだ。

 なんでもない毎日のこまごまとした処置に、「彼岸の理想」の切れ端をかぶせていくことなのだとボクは思い、実行している。つまりボクは「彼岸の理想」を自らの“潜在能力の顕現”と考えて、こうした贅沢が許される場合にはあえてこの無駄な幻想の具現に挑んでみることにしている。当然、その行動のベースになるのは“卑近な日常の些事”である。そんなイリュージョンをかぶせなくても些事は、些事でしかない。“些事”をそこまで飾り立てて何の意味があろう。たしかにそうだ。理想を追うための時間も金もないボクにとっては、それくらいの贅沢すら許されないのかも知れない。が、ボクはいま敢えてそうしている。

 先日テレビを漠然と見ていたら、「見栄えは、心映えだ」というフレーズが頭の中に沸いて出てきた。これはボクが無意識で行ってきたことが、言葉になったものだとすぐに気がついた。些事にもそれなりの見映えは必要で、それを敢えてするのはボク自身の心映えなのだと。此岸に立って、此岸を描く。これならば、ボクの現在の「アンビバレンツ(二律背反)」にも抵触しないし、むしろ現状を止揚する可能性も出てくるのだと思った。

 可能な限り、ボクは友人たちや教え子たちからのメールの返事に、今書いているような自らの此岸と彼岸についての考えを加えている。些事にイリュージョンをかぶせるトレーニングのつもりでだ。すべきことを些事であるとするなら、それを些事に終わらせない工夫があればいい。それがうまく行けば、些事では終わらなくなる。こうして得た成果を、また次の些事の処理に使っていく。こうすることで、ボクのなかにある“潜在能力”を顕在化できるのだと言い聞かせている。

 ここまでやってきて、たいした進歩の成果もあったわけではない。だが、この感覚があるだけで、ボクの内部では些事が些事ではなくなる。それくらいのことはあるのだ。自己満足でも、今のボクには贅沢な楽しみなのである。

ボクの舌の成り立ち1

2012-01-12 15:14:48
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 〝エッセイ・フリーク・カントリー倶楽部〟というグルッぽを立ち上げた。その最初のコメントをこのブログでも紹介しておこうと思う。次回以降は、表記のグルッぽのみで公開していこうと思っている。いわばさわりの部分のみである。興味があれば我がカントリー倶楽部をご覧いただきたいと思う。

ロビンソンの末裔

 開高健の作品の一つに「ロビンソンの末裔」という小説がある。終戦後に年から北海道に移住した一家の悲惨極まりない耐乏生活を骨太のタッチで描いた佳品である。

 この小説が進行するほぼ同じ時期に、同じ北海道のさらに広大で寒さ厳しき土地でボクは生まれた。幸いなことに盛大な空虚ではあったが、不毛ではなかった。しかも、祖父の代からの貧乏生活で鍛えられた筋金入りの開拓農民の末裔として生まれたことがいかにに幸運だったかを悟ったのは、二十代も半ばを過ぎてこの小説に出会ったときだった。

 我が家は農家ではなかったが、3歳から4歳び頃にはすでに鶏を世話し、朝には堤防上にヤギを放ち夕べには連れて帰るという生活をしていた。もちろん家庭菜園として100坪以上の畑があり、その手入れの手伝いもボクの仕事の一部だった。中学1年頃まで、畑を耕し、畝を切り、肥を入れて、種を蒔き、雑草を取るという一連の野農作業を手伝った。そこから冷害に強く、腹持ちのいいカボチャやジャガイモがたくさんとれた。

 この時期の北海道は冷害が続き、不足する食糧は本州(内地と呼ぶ)からもたらされていた。抱負に、しかも安価に出回っていたのは近隣の漁港に水揚げされる魚介類と、自家菜園でとれるこうした野菜であった。ことに自家栽培の野菜は、ぎりぎりで生きていくための命綱の役割を果たしていたのである。

 そうしたなかに、ささやかな贅沢も幾つかはあった。当時我が家では、毎年旬のにしんをトロ箱一杯買い、50匹近いそれの腹を割いて取り出し、赤々と燃える居間のダルマストーブの上の棚で2ヶ月近くかけて乾燥させていた。

 正月だけは子どもにも許された日本酒の肴としてこの「数の子」をどんぶり一杯むさぼり喰った。ニシンの身は「身欠き」にして保存し、秋野菜とと一緒に麹につけてなれ鮨にした。薄氷のはったこれを食べるのは冬の食卓の楽しみだった。とれたての鮭丸一匹の「すじこ」を酒・みりん・醤油でつけた「醤油漬け」も懐かしい。これを飯が見えないほどに載せたどんぶりも普通にやっていた。こうしたものはとんでもなく高値となり、ボクの司会からは消えていった。今や、夢のまた夢の話である。

自らを省みる手がかり。

2012-01-11 15:54:30
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 最近、北陸にお住まいのheigoさんのブログを日々楽しみに読ませていただいている。一緒に「エッセイ・フリーク・カントリー倶楽部」という「グルッぽ」(一種のsnsか?)も始めた。このところのheigoさんのブログには、子どもの頃の暮らしぶりのことがテーマになっていることが多い。これに刺激を受けて、ボクも子どもの頃のことを一生懸命思い出そうとしているのだが、後悔や自己嫌悪につながることばかりでとてもブログのネタにはなりそうにもない。

 そこで、本箱の奧で埃をかぶっていた二冊の文庫本を引っ張り出し、昨日と今日ずっと読んできた。週末は働いたので、その代休に充てたのだ。業務は家内がテキパキとこなしてくれた。

 一冊は中勘助の「銀の匙」(岩波文庫)、もう一冊は湯川秀樹さんの「旅人」(角川文庫)、いずれも自伝で、ことに前者は幼少期だけを素材にしている。これを手掛かりに、わが幼少期を思い返してみようというわけだ。

 「銀の匙」は表紙カバーに、和辻哲郎氏が解説で述べている次のようなことが書かれている。

 「ふるい玩具にまじって大切にとっておかれた銀の匙。少年の頃の思い出を自伝風に綴ったこの作品には不思議なほどあざやかに子どもの世界が描かれている。しかも大人が追想した世界としてではなく、子どもごころの感情世界が子どもの体験するままに描き出されているのである。漱石が未曾有の秀作として絶賛をおしまなかった名編」

 旧藩士という士族の家に生まれ、生まれた下町と育った山の手の明治期の暮らしぶりが著者の成長とともに描かれている。病弱な彼は国元から出てきた叔母に慈しまれて育った。性格も内向的で、同じ年齢の男の子と遊ぶことはまったくの苦手、もっぱら近所の同じ階級の女の子とばかり遊んでいた。著者の回想は陰影に富んでいて、まるで沈んだ感じの色彩に彩られた後付け彩色のカラー写真を見るような印象を与えている。

 こうした記述から、憧れていながら「男らしくない」という後ろめたい思いに苛まれ、まったく楽しくなかった女の子たちの遊びの輪に入った幾度かの経験を思い出していた。記憶の底に沈み、すっかり忘れていたことだった。そんなこともあったのだ。

 一方、我が国初のノーベル賞を受賞した物理学者湯川秀樹博士の自伝「旅人」には、「ある物理学者の回想」という副題がついている。そして、宇野亜喜良さんの装画になる表紙カバーの折り返しには、以下のような紹介文がある。

 「湯川氏の業績ほどにはその人を知る者は少ないだろう。これは博士自身が綴る生い立ちの記である。「孤独な我執の強い人間」と自身を語り、その心に去来する人生の空しさを淡々と説く文章は、深い瞑想的静けさをたたえる。科学者として最高の栄養に飾られた博士の感慨であることを思う時、読者は深い想いにとらわれるだろう」

 湯川博士は学者一家の出だ。実父小川琢治は京大理学部長を務めた地質学者。長兄小川芳樹は冶金学、金属工学の泰斗で、我が国の原子力平和利用を推進した工学者でもある。すぐ上の兄貝塚茂樹は東洋史学者。そしてすぐ下の弟小川環樹は中国文学者、その下にも弟がいるが彼は戦病死している。

 湯川博士は冒頭で次のように語っている。

 「私の歩いてきた道は、普通の意味では別にけわしくなかった。学者の家に生まれ、後には、それぞれ違った方面の学者になった兄弟たちと、一しょに育っていく過程において、また自由主義的な色彩の濃い学校生活において、世俗的な苦労は少なかった。環境的には、むしろ恵まれていたといったほうがいいかもしれない。
 しかし、「学問の道では」と聞かれると、簡単には答えられない。幸運だったとも思えるが、人一倍、苦労したことも否定できない。何しろ原子物理学といえば、二十世紀に入ってから急速に進歩した学問である。その上げ潮の中で、自分の好きなことを自分の好きな流儀で、やってきただけだともいえよう。ただ、私学者として生きている限り、見知らぬ土地の遍歴者でありたいという希望は、昔も今ももっている」


 中勘助と湯川秀樹博士の来歴は「ウィキペディア」に詳しい。ここではその来歴は書かない。ただ中は1885年、湯川博士が1907年の生まれだ。20歳ほどの違いはあるが、ほぼ同時代の人である。明治後期から大正期にかけてその幼少期・青春期を送っている。二人に共通の価値観というか、生活感は、実はボクたちの両親の世代のものでもある。実の父母は明治期に養母は大正期に生を受け、同じ時代の空気を呼吸してきた。ボクたちはその親たちの薫陶を受けて育ってきたわけで、体内にも意識の中にもこの残渣と云うべきモノが沈殿している。懐かしくもあり、苦くもあるこの感覚が今日の自らの一部ともなっているのを感じるのである。

 この二冊は、これまでにも数度読み返している。その時々に異なった感想を持った。しかし、今回ほど深く読み込んだことはこれまでにはなかった。「脚下照顧」の想いが強かったためであろうか。そこに描かれている記述すべてを自分に照らして読み切ったようにいまは思えている。この心境を手掛かりにして、ボクの自分史、生活史を紡いでいこうと思う考えている。父母たちが自分たちの中に根付かせてくれたものも含めて。

老後の歩き方。

2012-01-09 06:29:53
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 いただいた年賀状を整理している。
 これまでずっとお付き合いいただいた方々のほかに、母がお世話になった同僚・友人の方々がいる。母のお付き合いを受け継いでいこうと努力しているが、母がどんなお付き合いの仕方をしてきたのかは全く分からない。住所録に残っていることと、葬儀にご参列してくださった記録ををもとに、今年も心許ない状況で年賀状のコメントを書いた。

 驚いたのは、母が最後まで親しくお付き合いをさせていただいたTさんから、当方のブログをお読みいただいているというコメントのついた年賀状をいただいたことだ。このシチュエーションはまったく予期していなかった。生前、母はTさんにボクのことをどんなふうに吹聴していたのだろうか。この一点がともかく気がかりだ。

 なにせ、このブログをお読みいただいてわかるようにとっちらかった性分で、やることもいいかげんなら書いていることもとりとめがない。母が語っていたこととは大違いということがすぐに露見してしまう。こういう事態がなにより恐ろしい。心して書いていこうとは思うが、きっと今年も以前と大差のない内容に終始してしまうのだろう。

 もう一つの新しいご縁をもった方々がいる。婿どのの親戚の人々だ。娘たちの結婚式にご臨席いただきご挨拶をさせていただいた方たちにも昨年から賀状を差し上げている。こちらはただ一度だけだが一応面識があり、朧気ながらもお人柄なども推測できる。書いたコメントは当たり障りのないものになってしまったが、それでもこちらの印象をわずかに反映したものにと努力はした。

 こうした新しいつながりが広がり、おつきあいの幅が広がったために、今年の年賀状書きは例年のんべんだらりとした代わり映えのしないものから、少し緊張感のあるものにはなった。実生活でも絵空事ではなく、実現性のあるものをと心がけていきたいと思うのである。

 3日の日に婿どののご両親が我が家に来ていただき、ひとときの歓談を楽しんだことはすでに書いた。その時の感想をお母さんが手紙に認めて、送ってくださった。ありがたいことだ。ただ、困ったことが一つあった。それは「老後をどう過ごすべきか」というご下問があったことだ。ボクなりの考えをまとめて、早急にお答えせねばならない。

 前述したように、ボクのごときいい加減な日々をちゃらんぽらんに過ごしている人はそう多くはないだろう。普通の方々に参考になるはずはないけれど、反面教師としての戒めにはなるかも知れない。そう思い直して、この2、3日はボクなりの「老後の歩き方」を考え、整理している。四六時中酒気が抜けない朦朧とした頭からはそうたいしたことが出てくるとは思えないが、まとまったら、このブログにも公開してみようと思う。

 昨日、インドネシアのグループ会社の社員2人がアパートにやってきた。2週間ほど滞在し、日本の技術を研修する。以前社史取材でお世話になった堀本さんが引率してくられた。10年ぶりの懐かしい再会だった。短い時間で交わした言葉もそう多くはなかったが、感銘をうけた彼の人柄は以前のままだった。こういう出会いもまた老後の大きな楽しみだ。大切にしていこうと思う。

やったぜ!四中工、決勝へ。

2012-01-07 21:59:03
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 6日、今年初の共益資材の買い出しにカインズホームに行った。トイレットペーパー18ロールを6個、詰め替え用の食器洗剤を60個買った。これでセルシオのトランクがほぼ一杯になった。アパートの現在の住人は52人。社員の1人を除いてすべて中国人実習生だ。彼らから1人当たり、月1,000円を共益費の名目で集めて、アパートの維持管理の費用を賄っている。

 会社からの支援は、電気・ガス・水道・下水処理にゴミの産廃回収、そしてNHKの受信料と自治会費といったもの。住人が日々消費するものうち、維持管理や清掃に関するモノはこの共益費用で賄っている。〝自主・自立〟がアパートのモットーだ。洗濯機、掃除機、掃除用具、トイレ用品、テレビ、炊飯器、IHヒーター、ポットといったものから果てはゴミ袋などといった消耗品もすべてこの中で賄っている。月々5万1,000円、年間61万2,000円以内でこれらの需要に対処しなければならない。

 月々集金する金額の半額ほどで月々の支出を賄っている。テレビや洗濯機といった大物が壊れたら、即座に新品を購入しなければならないからだ。それにしても彼らはよく壊す。昨年は5literのポットを6個買った。炊飯器は3個、電子レンジも3台、IHヒーターに至っては5台も買った。現在稼働しているのはすべて2台のみだ。

 修理が不能なのは、彼らが自分たちで修理しようとするからだ。アフターサービスがほとんどない中国ではこうする以外にないのだということは、最近分かった。壊れたらいじるなといっても、彼らはやってしまう。結局は、修理も利かないほどのめちゃくちゃな状態にしてしまうのである。したがって保証期間内ではあっても、壊れたモノはすべて捨て、新規に購入せざるを得ない。この費用が、なかなかばかにならない。共益資材の購入はすべてケチケチ作戦に徹しなければならない理由はここにある。ガソリン代自弁で浜松市内のスーパーをバーゲンハンターそこのけの買い出しを、ここ10年続けてきた。これは、これからもずっと続くのだと思うと、ちょっとうんざりする。

 今朝は、遊び仲間にして恩人でもあるNさんの命日。Nさんは、昨年の1月7日に亡くなった。70歳だった。朝、家内を誘って墓参に行った。ついでにといういい方は悪いが、例年は三が日に行っていた家内の父母が眠る菩提寺にも詣でた。Nさんの菩提寺には花屋がない。義父母が眠るお寺、天林寺は規模も大きくこのお寺専用の花屋も営業している。ここでNさんの墓前に備える花と線香を調達しようという魂胆だった。

 Nさんの眠るお墓は少林寺という閑静な風情のお寺の一画にあった。生前のNさんの人柄そのままの佇まいをもったやさしげなお墓だった。たまたまご住職がいらっしゃったので、お願いして墓前でお経を上げていただいた。やわらかな今年の新春の陽光の中でNさんへの感謝の思いが読経とともに空に舞い上がっていくように思われた。

 今、我が家が安穏とした日々を送っていられるのも、Nさんをはじめとする多くの方々のおかげだ。このことを決して忘れず、心して日々を送っていかねばならないと改めて心に誓った。

 家内を自宅に送り、一人でアパートに戻った。明日、インドネシアの子会社から2週間の予定で研修に来る社員2名の受入準備の仕上げをするためだ。ほぼ、事前に作業は完了しているので最終確認だけすればいい。結局午後は、テレビでサッカーの高校選手権大会準決勝をテレビで観戦、というよりは応援に充てることになった。

 第二試合の福島・尚志高校と対戦した四日市中央高校の監督、樋口志郎君はかつてPJMフューチャーズのチーム・メイトだった。律儀な彼とは、未だに年賀状の交換だけは続けている。監督就任後苦節17年、ようやく国立競技場まで勝ち上がるチームを仕上げてきた。四日市中央高校出身のチームメイトには樋口君のほか伊藤直司、熊谷儀一の2選手もいた。きっと彼らも喜んでいることだろう。たぶん9日の決勝には国立のスタンドで応援していることだろうと思う。できることならボクも行って応援したいが、今の体調ではままならない。おとなしくテレビでの応援で済ませておく以外にないだろう。

 サガン鳥栖が17年にしてJ1昇格を決めた。同じチームメイトだった前田浩二君がアビスパ福岡の監督に就任した。そして、樋口志郎君が全国選手権の覇を頂点で争う。ボクの25年に及ぶサッカーとの関わり(ただし、たいしたことはなにもしていないけど)に、ついに豊饒の実りがやってきた。そう思えている。止めない。諦めない。折れない。続ける。挑む。ボクがサッカーを通じて得た人生の鉄則は、20年を経てその果実を結実させようとしている。ただ、ただ、嬉しい。今年何度目かのこうした思いを、今日も噛みしめた。

正月三が日

2012-01-05 17:52:45
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 例年、ボクは仕事先のアパートの事務所で一人の年越しをする。年越しそばは、カップ麺。雑煮は元旦に家に戻って食す。今年は、読書と新しい年の過ごし方をあれこれ考えながら過ごした。例年と違ったのは、Jazzではなく、ずっとクラシックを流していたことだ。

 元旦の朝は、アパートの事務所に届いた年賀状をもって家に戻った。途中で洗車した。暮れに出かけたのだが、混雑していてとても待てる状態じゃなかったからだ。新年早々、ものごとを洗うというのは、祖母の頃からの我が家の禁じ手だが、やむえを得ないと割り切った。年々、こうしてなしくずしに伝えられた我が家のルールが失われていく。祖母はきっと怒っているに違いないが、肩をすくめてやり過ごすことにした。

 昼過ぎにたどり着き、雑煮を食うのもそこそこに娘の嫁ぎ先に夫婦揃って年始の挨拶に出向いた。孫琳太郎は大事を取って娘とともに自宅で待機し、婿どのだけが実家でボクたちを迎えてくれた。嫁ぎ先は三世代だが、子どもたちは外で暮らしている。ご両親と祖父母、婿どのの弟さん夫妻と年始の挨拶を交わし、今年の幸を言祝いた。年末の孫誕生もあり、両家にとってはおだやかな年の初めになった。

 夜、娘夫妻と一緒に琳太郎が初めて我が家にやってきた。勝手が違うのかなんとなく不機嫌だ。ぶすっとしてニコリともしない。生後50日もたたないのに、すでにこういう太いところが垣間見える。ボクにはこういう琳太郎の姿が心強い。鍛え甲斐があるというものだ。

 翌2日、恒例のSさん邸に年始に行く。これもまた、我が家の恒例行事の一つだ。ここ数年は、玄関先で挨拶をして家に戻っていた。なにしろ200人を大きく超える年始客があり、お邪魔虫は一人でも少ない方がいいだろうと考えていたからだ。今年も、そのつもりで朝一番に出かけてご挨拶を済ませた。

 ところがSさんは、特別の座敷に招き入れてくださった。しかも、2万円を超えるスコッチ・ウィスキーをボクのお年玉として用意してくださっていた。昨年のボクの大病のその後を気遣ってのことだった。そのままいただいて変えるのは、さすがに気が引けた。Sさんとこれで杯を傾けようということになり、そのまま長っ尻になってしまった。延々10時間、このボトルが空になった後も日本酒、ワイン、ビールと飲み変えながら、仕事を語り、世の中を語り、人生の生き様を語りつつ、歓を尽くという望外の時間を蕩尽した。

 申し訳ないことだが、その間幹部社員の皆さんは廊下でSさんにご挨拶するだけで引き下がっていかれた。やがてボクたちのいた座敷は、60歳以上限定のスペースになり、ボクにとって懐かしい方々との久方ぶりの交歓の場になった。20年に渡ってSさんの会社の40年史、50年史、60年史を紡いできた。いずれもその取材に応じてくださった元役員の方々で、しかも、25年前まで続けてきた大晦日の麻雀大会のメンツでもあった。

 Sさんの会社には、国内に1,000人、海外に6,000人の社員がいる。Sさんは創業社長ではないけれど、一代でこの規模の会社にした。一人ひとりの能力を極限まで要求してきた。だから、団塊世代の役員から次世代への世代交代もうまく行き、この厳しい時代にあっても好業績を持続している。この舵取りを社史編纂の過程をつぶさに見聞きしてきたボクには、驚異的なことであった。Sさんはこの歩みを「ただ、ちょっぴし人より先を見、それに対処してきただけ」とこともなげに云ったのが、改めて印象的だった。

 「それでも、これは正しかったのだろうか」と、ボクに投げかけてきた。ワンマン、独裁者と陰口を叩かれていることを知っていたのだろう。ボクは偽らざる気持ちとして「当然でしょう。人を雇い、厳しい時も一人として解雇せず、社員の持っている能力を最大に活かすためには、それ以外に道はないでしょう。サラリーマン社長には決して出来ないことだったと思います」と答えながら、経営者の苦悩、孤独さを一面垣間見た思いがした。

 また、ある下請けさんに対し「もう、切っちゃったほうがいいんじゃないですか」という冗談に、Sさんはまなじりを決して「いかんですよ。どんなことがあっても、ここまでやってきた家族です。甘やかすことはいけませんが、切ってしまうのは論外です」と断じた。居合わせた幹部社員は、このひと言に思わず居住まいを正した。Sさんの経営の底流に流れるモノの本質を直感で理解したのだと思った。

 ボクに対しても、この温かな心配りは及んだ。元気でいる間はずっと顧問家約を続ける。そして70年史も書けと。「うちの社史を書けるのは、あんたしかいないんだから」という言葉までいただいた。どこまでできるのかはわからないが、Sさんの気配りの下で死ぬまで働く。そう決意した。先行き不安の厳しいこの時代に、10年先までの生活保障がある。傍でこの言葉を一緒に聞いた家内の肩の力が抜けるのが分かった。そして、たまたま一緒に居た次男の「なぜ、そこまで」といういぶかり方が可笑しかった。

 翌3日には、嫁ぎ先のご夫婦が大好きなお酒持参で、答礼に来てくださった。孫に会った後だという。次男の友人夫妻と子どもたちも来合わせて賑やかな正月三が日の締めくくりになった。ほんと、近年にない、いい正月だった。

 4日、アパートに一人で戻り、業務を再開した。在住する中国人実習生もみんな元気だった。なにより心強いことだ。今年は、週の3日だけ家内がアパートに来る。そのほかは家にいて、孫の面倒を見たり、家事をする。これまでずっと我慢してきた、好きなことをする時間も幾ばくかはもてるだろう。結婚40年にしてはじめてできる、心ばかりのボクからのプレゼントだ。家族の笑顔を見つつ、新しい年がスタートした。なすべきことを、しっかり時間と手間をかけてやっていこうと思う。

新たな年に向けて

2012-01-01 08:01:29
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明けましておめでとうございます。
拙いブログですが、今年もよろしくご笑覧ください。

 昨夜から、今朝にかけて新しい年の目標設定をしてきました。
 どれだけのことをやり抜けるかは、いささか心許ないところではありますけど。

 28日の日経新聞の最終面「私の履歴書」で松本幸四郎さんがセルバンテスがドンキホーテに云わせた言葉(「ミュージカル「ラマンチャの男」)を引いていました。

 「本当の狂気とはなんだ。夢に溺れて現実を見ないものも狂気かもしれない。また現実のみを追って夢を持たないものも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために闘わないことだ」

 偶然見つけた言葉ですが、これをよすがに今年を生きていこうと思います。
 今年のボク生き様を次のように規定しました。
 
 「身を削り、己を磨く」

 このコンセプトに従って年次の目標を設定しています。まだ全部は定まっていませんが、今日中には仕上げてしまいます。

良いお年を!

2011-12-31 20:16:02
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 100大ニュース、実は72大ニュースをアップして、緊張の糸が切れがっくり来た。

 まだまだやることがあるのに、年末のご挨拶をいただいた方へのRes以外はすべき気力もなく、終日BS-1の「なでしこジャパン」ワールドカップの再放送と、ローカル番組の清水商業の監督、大滝さんのドキュメントを呆然と見続けてきた。

 定年の年を迎えた大滝さんの最後の年、清商はしばらくぶりに全国大会出場を実現した。そして今日、熊本のルーテル学園に1対0の僅差で勝ったという報道があった。直接のお付き合いがあったわけじゃないけど、彼の熱血指導は幾度か現場で目にしてきた。その彼が還暦を前にして、信じられないくらい丸くなっていた。奥さんを亡くしていたらしい。そしてお孫さんの誕生の幾ばくか、現在の大滝さんの心境に影響しているのかも知れないと思った。技術云々ではなく、思いの丈をプレーに示せという昨今に彼の指導コンセプトには共感できる。

 なでしこジャパンのゲームは、結果が分かっているだけに気楽に見ることができる。ただ、ここでやられれば、優勝の結果はなかったという「切所(せっしょ)」のシーンは幾つもあった。これは運に違いないと思えた。佐々木監督は、大滝監督とは対照的な指導者だけど、共通するのは選手にコンセプトを理解、徹底させる力なのだと思った。

 この稿を書いている今、BS-1では、準決勝の日本対スウェーデンの後半戦の模様を放映している。今夜はこの決勝まで見て、行く年来る年を見て寝ることにしている。いろんなことが激しく起きて、その対応に右往左往したとしだったけれど、かろうじて身を守りこの先に望みを繋ぐことができた年となった。先行きには不安がヤマほどあるけど、これを自分の力でクリアしていくほかはないという状況になっている。もう、国の力にはまったく頼ることができない時代が来る。

 これを覚悟していきていこうと思う。

 読者の皆さんにおかれては、そうした覚悟をもって自らの未来を切り開いていく年にしていただきたいと念じている。その上で、来る年が良い年になりますよう祈念しています。併せて、この1年のご愛読を、厚く御礼申し上げます。

100大ニュースのはずが。

2011-12-31 04:36:39
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 2011年を間もなく終わる。100コの新記録、継続、新規の試み、突発事項を記録しようと試みたが、結果は72止まり。これまでにない力を振り絞ってきたが、少し情けない思いを噛みしめている。それでも72コの前進が残ったことを良しとしてしておこうと思う。以下は、その成果である。

1/01.01 家族全員で年賀と食事
2/01.02 最大の得意先で、恩人にも当たる某社社長宅に年始。ここ20年の恒例行事。
3/01.03 小国神社へ初詣。クリスチャンのボクには禁じ手だが、家族の行事につき付き合う。
4/01,03 娘の婚家と会食。先方喪中につき、年始挨拶に代えて。
5/01.03 家内の実家菩提寺に墓参。
6/01.07 遊び仲間でもあり、恩人のNさん突然に逝去。葬儀など一連の行事。
7/01.25 我が夫婦の仲人夫人伊能陽子さん1周忌。
8/01.28 磐田市第二東名側道でスピード違反、罰金18,000円、3点減。
9/01.30 母3回忌を故郷十勝の菩提寺で営む。
10/02.02 クリエーターズ静岡HPにエッセイ連載開始(飯のタネ、遊びのタネ、生きるタネ)

11/02.07 長男の入社研修先決定、8月正社員に採用される。
12/02.17 駐車場にフェンス設置(階下テナントさん支援対策)
13/02.04 レストランチェーンさわやか、社員教育用DVD納品
14/03.03 Speed Learning一括購入。即日勉強開始。
15/03.10 ただ一人存命の男兄弟の兄が古希を迎えた。70歳越は、我が家系男子で初の快挙。
      同日、姉も86歳に。こちらは我が井上一族一の長寿を達成。
16/03.11 東日本大震災起きる。サゴー社長小野さんへの取材中。
17/03.19 娘懐妊判明。出産予定日11月11日
18/3.31 ENKEIグループ60年史原稿完成。5月30日印刷完了、納品。20年間で3度も社史を担当。
19/04.01 浜松商工会議所報「NEWing」に連載してきたコラム「ワンディ・スポット」が11年目に突入。
10年続いたコラムはこれまでに3本あるが、それ以上は今回が初。
20/04.02 高野山・比叡山を家内とクルマで日帰り巡礼。

21/04.05 完全無借金会社へ。抵当権を抹消。
22/04.17 中日新聞東海本社版特集「静岡の元気人」全8ページ取材・コピー完納。29日掲載。
23/04.29 家内のサイドビジネスのコンベンション参加のため神戸ポートアイランドへ、1泊。
24/05.01 64歳誕生日。身体に異変、翌2日大腸がん罹患が判明、入院。18日に手術、31日退院。
25/06.03 ケータイをスマホに機種変更。i-Phoneに。
26/06.04 森町の美味トウモロコシ‘甘々娘’を、お世話になっている方々にお届け。終日。
27/06.11 結婚39周年、家族とともに舘山寺温泉‘ウエルシーズン浜名湖’に1泊。
28/06.12 順子62歳誕生日。体調万全で元気、なによりのこと。
29/06.18 ENKEI鈴木社長ご夫妻と社史完成のお礼をかねて会食。
30/06.25 御前崎なぶら市場の「かつを」をお世話になった方々に。

31/07.02 山梨県JA笛吹の‘もも’を買い出しに。
32/07.07 高校の同期会で東京へ。大学時代の友人の店‘銀座蛇の新’で今年も2次会。初めて帝国ホテルに宿泊。
33/07.13 恩人Nさんの初盆、盆供へ。
34/07.16 家内の実家の菩提寺に墓参。家族で名代のうなぎを食べる。
35/07.24 20年使った冷蔵庫を買い換える。なぜか今度も日立製。
36/08.02 ツィッターをはじめる。思うに任せず、細々と継続中。
37/08.03 長男、正社員採用。36歳にして初めてサラリーマンになる。
38/08.05 自宅に2台目のi-Mac導入。旧機は音源・画像・資料などのストレージに使用。
39/08.05 長男誕生日にi-Padを委譲。楽しそうに使い倒している。
40/08.04 高校時代に自分が編集に関わった学校新聞を復刻。同期の女性が保存していたもの。

41/08.05 更紗屋石橋さん、ボクのために同窓会を開催する。本人欠席で大失礼!
42/08/05-07 15年ぶりに佐賀市・鳥栖市を訪問。サガン鳥栖の試合観戦、大歓迎も。
43/08.06 抗がん剤を服用する治療の第一クールがスタート。全5クールで各クールは一ヶ月間。
44/08.22 アパートに第9期の中国人実習生23人を受け容れる。総勢75人の大混雑。
45/08.29 MD収録のアルバムを電子化、i-Tuneに格納。全音源のmp3化完成。
46/09.01 代表取締役を退任、後任は家内。
47/09.10 PCのソフトウェアを大刷新。Mac OSx(ライオン)、A tok、
アドビCS5(イラストレーター、フォトショップなど)、宛名職人など。
48/09.13 HP大改造に着手。目下、原稿入力を継続中。
49/09.17 自宅バックヤードに物置設置。ボクのDIY道具と家内の園芸資機材が納まった。
50/09.28 中国人研修生の5期生23人が帰国離寮。在寮者は元の52人に戻る。

51/10.08 娘のマンションのリフォーム工事着手、ささやかに資金支援。
52/10.06 セルシオ、自損事故で後部ドアの板金修理。修理と車検代金で40万円の手痛い出費。
53/10.20 E社との人材育成顧問契約の自動延長、11年目に入る。
54/11.01 年初から始めた勝海舟全集全21巻読破を達成。
55/ A3対応のプリンターと新スキャナーを導入。
56/11.17 初孫(外孫)琳太郎誕生。3,600グラム、生後40日で5.4㎏の怪童に成長中。
57/11.25 i-TuneのJazz領域全曲3度目の聴取達成、2ヶ月半を要した。
58/11.26 自宅の書斎の音響環境に5.1チャンネルサラウンドシステム導入。Sony製。
59/12.14 次男、34歳になる。ささやかなプレゼント。
60/12.17 いわゆる自炊開始。蔵書の電子化、現在9冊完了。

61/12.03 サガン鳥栖J1昇格、決定。苦節15年の末、夢実現!
62/12.22 ブログのプライベート・ビューが346に。普段は120前後で信じられない数値に驚愕!
63/12.23 アメーバでグルッぽ「エッセイ・フリーク・カントリー倶楽部」立ち上げ。
64/12.24 自前の異業種交流呑み会Workshop286回(前身のOpenhouseから586回)達成
65/12.25 穂香、琳太郎にホルンでクリスマスソングをプレゼント。初の生演奏を家族でエンジョイ。
66/12.? 久しぶりにCI・VIを受注。社名は(株)エイ・ウェイ(A-Way)に決定。
67/12.26 年賀状のデザイン面を初めて自作。娘出産でしかたなく自立した成果。
68/12.27 PCとi-Phoneの住所録を統合。重複分を整理。全データは411名分に達した。
69/12.27 年賀状310通にすべてひと言を入れ終え投函。これも初の快挙。しかも4日間で。
70/12.28 Speed Learning Lesson16をクリア。全48巻の1/3を完了。進歩はいまだ見えず。

71/12.30 アパートの住人中国人実習生51名、労災・事故・怪我もなく、1年をやり通した。
      この日の大掃除で1年を締めくくる。館内の掃除も昨年を上回る内容に向上。
72/12.31 ブログにupしたエッセイ、通算895編に到達。06年1月3日のスタートから5年目で。

ホテルバーにて

2011-12-30 11:13:01
テーマ:ブログ
 昨夜、顧問契約をしているE社の忘年会が浜松市内のシティホテルで開かれた。毎年招かれているのだが、数年前から家内に出席してもらっている。しかし、アパートの住人である中国人実習生のバスでの往復の引率はボクの仕事。これだけは人任せにできない。なにしろ人材育成を名目に顧問料をいただいているからだ。落花狼藉の酒癖をもった51名を無事に連れ帰るのは、結構たいへんだ。

 延々3時間を会場となるバンケットホールの外で待つのだが、その間の待機場所はこのホテルのロビーバー「サイド・ウォーク」。入り口が見渡せる格好の場所にある。ウィスキーをちびちびやりながら、本を読みブログ原稿の下書きを書き、そしてバーマンの柏原さんと言葉を交わす。これが押し迫った歳末の歳時記の一つになっている。

 今年も楽しみにしていったのだが残念ながら柏原さんはお休みで、カウンターを預かっていたのは妙齢の美人だった。笑顔がすてきだ。丁寧な仕草が彼女の仕事への向き合い方を物語っていて好感がもてた。ネームプレートには山本千香さんとあった。

 ボクはホテルマンに憧れていた時期がある。スキルがあがれば、世界にも出られる。実力があれば抜擢されるチャンスも多い。仕事の質がその先を決めていく世界だ。この憧れが観光専門学校の非常勤講師を9年も勤めさせてもらう幸運に結実した。数年前にお払い箱になったが、400人近い教え子たちとの縁ができたのだ。現在もこのホテルに数人が勤務している。そんな教え子たちの消息を契機として、話が弾んだ。なにしろ、このところ若い女性と言葉を交わす機会の絶えてない昨今のこと、嬉しい時間だった。

 残念ながら、山本さんはボクの教え子ではない。接客業が好きだったという彼女は、数年のファミレス勤務を経てこのホテルに入ったそうだ。本格的にこの仕事の本質を学びたいと考えてのことことだと云う。こういう生き方を選び取り、そして取り組む彼女の姿勢にも共感がもてる。

 ホテルの仕事は多岐に渡る。そして奥行きも深い。ことにバーのカウンターを預かり、酒を扱うこの仕事は、知識吸収の勉強も日々の仕事への取り組みもともに必要だ。すべてから吸収していかなければならない。楚々とした彼女の佇まいの中にも芯の強さを感じさせるのは、ハードな仕事で培われたものなのかも知れない。

 3時間で、スコッチウィスキーのボトル半分を空にした。家内やこの会社に勤務する次男、そしてかつてのアパートの住人も会場を抜け出してきて、珈琲や紅茶で口直しをしていった。つまみにはピザを頼んだ。これで9,200円。1万円でおつりが来た。貧乏暮らしにはありがたい場だ。心も懐も温かななまま、実習生を引き連れてアパートに戻ってきた。

 今まだ、そも心地良い余韻の中にあって、この稿を書いている。事務所の外の廊下には、怒鳴り合っているような大声の中国語が飛び交っている。全館の大掃除の真っ最中なのである。賑やかなことだ。

 そこで、今日も腰折れを一句。

 大掃除 漢語飛び交う 寮の暮れ

 おそまつ様。これで今年の暮れの最後の仕事が間もなく終わる。残りの一日は悲喜こもごもだった今年の一年を愛おしんで送ってやろうと思う。

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