思いの切れ端
2012-01-16 18:30:54
テーマ:ブログ
ボクは、今「物書き」という自分の望んだ境遇と、「死ぬまでには絶対果たさなければならない」という境遇の狭間でもがいている。自らまいた種に任を取るというほどのことで、たいしたことではない。だが、その実現、達成には気の遠くなるような時間と、それにかかり切りにならざるを得ないというしんどさはある。
ボクの眼前に広がる風景では、前者の境遇は“彼岸”であり、後者の境遇は“此岸”にある。彼岸を望んだとしても、この此岸に身も心もがんじがらめ縛られており、なすすべはない。これが我が身の現状である。
彼岸を望めば望むほど、それはいっそうまぶしい光輝で輝き、此岸がこれに反比例してますます惨めで色彩の乏しいものになっていく。これでは、自らにとって何よりも貴重な一度切り巡り行く時間と根気をあてどもなく消費するばかりだ。ばかばかしい限りだと思うのである。「彼岸」はあくまでも彼岸であり、今を生きる「此岸」にしか、自らを処し、切り開いていく道はない。
ただ一つ許されるのは、「此岸」に「彼岸」の光景を投影し、その幻想の上で自分の想念を泳がせることだけである。言い方が回りくどいが、つまり「現在の生きざま」に「彼岸の理想」の色彩や光輝を重ね合わせて行動することだ。
なんでもない毎日のこまごまとした処置に、「彼岸の理想」の切れ端をかぶせていくことなのだとボクは思い、実行している。つまりボクは「彼岸の理想」を自らの“潜在能力の顕現”と考えて、こうした贅沢が許される場合にはあえてこの無駄な幻想の具現に挑んでみることにしている。当然、その行動のベースになるのは“卑近な日常の些事”である。そんなイリュージョンをかぶせなくても些事は、些事でしかない。“些事”をそこまで飾り立てて何の意味があろう。たしかにそうだ。理想を追うための時間も金もないボクにとっては、それくらいの贅沢すら許されないのかも知れない。が、ボクはいま敢えてそうしている。
先日テレビを漠然と見ていたら、「見栄えは、心映えだ」というフレーズが頭の中に沸いて出てきた。これはボクが無意識で行ってきたことが、言葉になったものだとすぐに気がついた。些事にもそれなりの見映えは必要で、それを敢えてするのはボク自身の心映えなのだと。此岸に立って、此岸を描く。これならば、ボクの現在の「アンビバレンツ(二律背反)」にも抵触しないし、むしろ現状を止揚する可能性も出てくるのだと思った。
可能な限り、ボクは友人たちや教え子たちからのメールの返事に、今書いているような自らの此岸と彼岸についての考えを加えている。些事にイリュージョンをかぶせるトレーニングのつもりでだ。すべきことを些事であるとするなら、それを些事に終わらせない工夫があればいい。それがうまく行けば、些事では終わらなくなる。こうして得た成果を、また次の些事の処理に使っていく。こうすることで、ボクのなかにある“潜在能力”を顕在化できるのだと言い聞かせている。
ここまでやってきて、たいした進歩の成果もあったわけではない。だが、この感覚があるだけで、ボクの内部では些事が些事ではなくなる。それくらいのことはあるのだ。自己満足でも、今のボクには贅沢な楽しみなのである。
ボクの眼前に広がる風景では、前者の境遇は“彼岸”であり、後者の境遇は“此岸”にある。彼岸を望んだとしても、この此岸に身も心もがんじがらめ縛られており、なすすべはない。これが我が身の現状である。
彼岸を望めば望むほど、それはいっそうまぶしい光輝で輝き、此岸がこれに反比例してますます惨めで色彩の乏しいものになっていく。これでは、自らにとって何よりも貴重な一度切り巡り行く時間と根気をあてどもなく消費するばかりだ。ばかばかしい限りだと思うのである。「彼岸」はあくまでも彼岸であり、今を生きる「此岸」にしか、自らを処し、切り開いていく道はない。
ただ一つ許されるのは、「此岸」に「彼岸」の光景を投影し、その幻想の上で自分の想念を泳がせることだけである。言い方が回りくどいが、つまり「現在の生きざま」に「彼岸の理想」の色彩や光輝を重ね合わせて行動することだ。
なんでもない毎日のこまごまとした処置に、「彼岸の理想」の切れ端をかぶせていくことなのだとボクは思い、実行している。つまりボクは「彼岸の理想」を自らの“潜在能力の顕現”と考えて、こうした贅沢が許される場合にはあえてこの無駄な幻想の具現に挑んでみることにしている。当然、その行動のベースになるのは“卑近な日常の些事”である。そんなイリュージョンをかぶせなくても些事は、些事でしかない。“些事”をそこまで飾り立てて何の意味があろう。たしかにそうだ。理想を追うための時間も金もないボクにとっては、それくらいの贅沢すら許されないのかも知れない。が、ボクはいま敢えてそうしている。
先日テレビを漠然と見ていたら、「見栄えは、心映えだ」というフレーズが頭の中に沸いて出てきた。これはボクが無意識で行ってきたことが、言葉になったものだとすぐに気がついた。些事にもそれなりの見映えは必要で、それを敢えてするのはボク自身の心映えなのだと。此岸に立って、此岸を描く。これならば、ボクの現在の「アンビバレンツ(二律背反)」にも抵触しないし、むしろ現状を止揚する可能性も出てくるのだと思った。
可能な限り、ボクは友人たちや教え子たちからのメールの返事に、今書いているような自らの此岸と彼岸についての考えを加えている。些事にイリュージョンをかぶせるトレーニングのつもりでだ。すべきことを些事であるとするなら、それを些事に終わらせない工夫があればいい。それがうまく行けば、些事では終わらなくなる。こうして得た成果を、また次の些事の処理に使っていく。こうすることで、ボクのなかにある“潜在能力”を顕在化できるのだと言い聞かせている。
ここまでやってきて、たいした進歩の成果もあったわけではない。だが、この感覚があるだけで、ボクの内部では些事が些事ではなくなる。それくらいのことはあるのだ。自己満足でも、今のボクには贅沢な楽しみなのである。





