中島美雪は、5歳のときからピアノを習わせられている。そして13歳のときにピアノを止めている。往復2時間もかけて8年間通ったピアノ教室をやめたのは、高校受験のためである。そして、1967年、帯広柏葉高校に、入学したときに、両親からガットギターをプレゼントされている。家にはピアノがなかったから、これは美雪が始めて手にした楽器と言える。「「あなたも一週間でギターが弾ける」という本を買ったけど、5年かかった」という本人のコメントは冗談。レコードを聴きながら、ギターテクニックをマスターする。

 STVでのアルバイトについてはすでに述べたが、その他にもいろいろとアルバイトをしている。郵便の仕分け作業、株式総会での封筒作り、野菜の叩き売り、祭りの後のごみの整理、ス-パーや百貨店の試食販売コーナーの売り子など。

 1972年には、札幌冬季オリンピックのアルバイトにも従事している。朝日が昇る前、会場への送迎バスが来るのを凍えながら待つ。会場に着くと、客席のベンチに積もった雪をひとつずつ落としてゆく。神経がある限り、寒さは肌を刺し痛い。根気強い彼女の性格が垣間見える。

 美雪は、会場整理のアルバイトで得た金で、初めてフォークギターを買う。当時、フォークソングが流行っていたので、僕の世代の学生で、ギターの弾けない男子学生のほうが少なかった記憶がある。しかし女学生でギターの弾ける子はひとりもいなかった。その代わり今は普通になったキーボードを持っているリッチな学生は少なかった。せいぜいギターどまりである。ちなみに、ユーミンはピアノ、みゆきはギター、という比較がされることがあるが、中島みゆきは、披露したことはないがピアノの名手でもある。ピアノというブルジョワジー的な楽器ではなく、ギターという庶民的な楽器を選んだのは、彼女の意志であろう。

 とにかく、高校3年生のときに、文化祭のステージでギター一本で歌った美雪は、ウーマンリブのはしりだったのかもしれない。

 1972年5月28日、ニッポン放送主催の「全国フォーク音楽祭全国大会」に、北海道地区代表として出場する。会場は、日比谷野外音楽堂。アコースチックギターで、「あたし時々おもうの」を歌う。

 審査は意見が割れてなかなかまとまらず、結局は4組にグランプリを与えることになった。その中にもちろん、美雪の名はある。プロデビューを薦められるが、彼女は辞退している。全国大会の1週間ほど前に、谷川俊太郎の「私が歌う理由(わけ)」という詩を渡され、それに曲をつけるというのが課題になっていた。

 美雪は、その詩を読んで喉元にナイフを突きつけられたような思いをする。何のために歌っているのか、歌とは何なのかということを厳しく自分に問い詰めることになる。そのため彼女のプロデビューは、1975年まで待たねばならない。


私が歌うわけは

一匹の仔猫

ずぶぬれで死んでゆく

いっぴきの仔猫


私が歌うわけは

いっぽんのけやき

根をたたれ枯れてゆく

いっぽんのけやき


私が歌うわけは

ひとりの子ども

目をみはり立ちすくむ

ひとりの子ども


私が歌うわけは

ひとりのおとこ

目をそむけうずくまる

ひとりのおとこ


私が歌うわけは

一滴の涙

くやしさといらだちの

一滴の涙

(「私が歌う理由」谷川俊太郎)


 谷川俊太郎は、死や孤独、沈黙の中に、人間の非力を見ていたのではないだろう。それらのものの悔しさと苛立ち、というものの実存にこそ、問い掛けたかったのだろう。

 1972年、美雪は教員課程を取っていたため、母校の柏葉高校で教員実習を行う。国語の実習にもかかわらず、美雪は壇上に立つと、

「私は将来、シンガーソングライターになるつもりです。実習に来たのは単位を取るためです」と挨拶し、いきなりギターを取って歌いだしたそうである。谷川俊太郎の詩にショックを受け、自らを追い詰めて、いったんはプロデビューを断念した美雪であったが、プロの歌手になるという情熱は失っていなかった。

 1974年、大学を卒業した美雪は、帯広に戻る。帯広での活動は前述したとおりであるが、その頃、ある雑誌に写真入で美雪の文章が載る。「私とレコード」というコーナーで、吉田拓郎について書いている。


 たかが歌でふと泣けたりする。その時の音楽の「価値」というのは一体どうやってつけるのだろうと思うのです。


 「たかが愛」という後年の歌を思い起こす。歌をなりわいとする中島みゆきにとって、「たかが愛」というのが悪い意味であるはずはない。その「たかが歌」の奥深さと、「価値」について自分を追い詰める、美雪の姿がある。

 

もしどこかで凄くひどい目に遭って落ち込んでいる人がいて、たとえばわたし歌を思い出してもらって「歌に出来る程度の子とじゃん」と思えば、少しは気も楽になるんじゃないか。歌に出来ないほどもっともっとつらいことってありますよね。歌に出来る限り、そんなことは屁でもないと、わたしは言いたいんですね。


 吉本隆明氏との対談で、彼女は言い切っている。

 (「marie claire」1991年11月号 中央公論社)


 1975年、美雪は、地元のアマチュア・アーティストばかりが出演する「ヤングフェスティバル」に出場する。帯広市のファッションタウン「ベル」の2階で、出演者は3人と1組。観客はわずか約60人。美雪はトップバッターでステージに立ち、「町へお帰り」などオリジナル曲数曲を歌う。このとき、美雪はヤマハから「ポプコン」出場を薦められるが、これを断っている。歌はコンテストなどで競い合うものではないし、まして賞などによって評価されるべきではない、と考えたのだろうか。

 断ったはずのヤマハから手紙が届く。内容は、


 賞が欲しいなら来ないでください。


 ヤマハはただ賞を与えるためだけのコンテストをしているのではない。まだ見ぬすばらしいアーティストを発掘するために、「ポプコン」をやっているのだ。リスナーの心を動かすことのできるものが結果として賞をとることが出来るのである。ヤマハはそう言いたかったのだろう。美雪はポプコン出場を決意する。

 前述の、旭楽器商会1階のスタジオで、応募テープを作成する。

 5月18日、静岡県掛川市にある、つま恋エキシビションホールで行われた第9回ポプコン本選会で、「傷ついた翼」を歌って入賞を果たす。

 同年9月25日、シングル「アザミ嬢のララバイ/さよならさよなら」のリリースでプロデビューする。

 プロデビューを果たしたものの、みゆきは既に、次の第10回ポプコンに作品応募しており、予選を勝ち進み、釧路帯広地区予選、北海道大会を通過し、本選会に勝ち進む。

 10月12日、つま恋本選で、「時代」という曲でグランプリを、受賞する。

 同年11月、第6回世界歌謡音楽祭で、「時代」はグランプリを受賞。中島みゆきは。洋々とした海原に、出帆することになる。