中島家といえば、帯広の町では有名だった。美雪の祖父である中島武一という人は、岐阜県出身の人で、北海道へ渡ってからというもの、メリヤスを売ったりして金を次々ともうけ、一代で財をなした人だという。祖母もキッチリと賢い人であり、そんな夫を手助けしていた。やがて中島武一は帯広市議会の議長にまで登りつめていく。その武一の長男が眞一郎だった。彼を知る人の話によれば眞一郎は山形大学の医学部を出たのだという。名家であるが、それなりのさまざまな事情があったようだ。

 美雪の家はほとんど近所づきあいがなかった。時折すれ違って近所の人と軽く挨拶を交わすくらいだった。一見、幸せに見える中島美雪の家庭だったが、彼女が中学3年の時、妻の典子は娘の美雪と、3つ年下の長男・一郎を連れて、郷里である山形のほう引っ越している。その理由についてつまびらかにするのは、僕の本旨ではない。ただ、このことによって彼女の精神状態はいかばかりであったろうか。ましてや、旧友たちの印象や「夜ふけ」にあらわれる人一倍感受性の鋭い、繊細な神経の持ち主である美雪。3ヵ月後の2月、再び帯広に戻ってきた美雪。受験手続もし、旧友たちとも再び仲良くなっていったが、フッと何か考え込むことが多くなっていった。美雪は、ある友人にこう語ったことがある。「体の傷はいつかは治ることもあるけど、心の傷は完全に治ることはない」と。

 帯広柏葉高校で、好きな人はいたようだ。あるクラブの同級生が大会に出席するため、キチンと早退届を出して帯広駅まで見送りに行った。好きな人がいたら、みなの目も気にせず、一目散にその人に向かっていく美雪。オープンな交際こそなかったものの、ほとばしる激情に突き上げるようにして動く美雪の行動的な一面は、ここにも現れている。柏葉高校時代に3年間ずっと同じクラスだった、氏雅代さんはいつか次のように語ってくれた。「情熱的な人だった。だけど周りにいい理解者がいなかったの。たとえば学園祭のときにオリジナルの曲を発表しても、生徒には受けていたけど、そのことに対して先生たちは、何だ!?あれは、という感じで冷ややかな態度だった。彼女自身としては力をためていた時期じゃないかしら。個性的な人だったけど、それを強烈に表にあらわすということはなかった。私たちのグループというのは特別に見られていたかもしれないけど、つまりあの年頃にあるキャッキャッという感じではなく、グループで人生を考えるみたいなところがあった。ファッションとか食べ物とか流行とかには全然興味がなかったし、明るいしゃべり方は変わってないわね。ボーイフレンドはいたんじゃないかな。今の歌は体験というより、できないので歌で表すってことじゃないかしら。たとえば本を読んで、1だけ感じる人もいれば、10感じる人もいる。彼女は後者で、その感情の組み合わせで作っているんじゃないかな」

 また、喫茶店を経営している上原節子さんは、「あまり目立たない人だった。いつもひとりで考え込んでいるような風で、でも影があるというのとは違うの。天真爛漫なところもあるし、ボーイフレンドはいなかった。大学行ってから、夏休みに会ったとき、親の言うままに結婚しようかなあ、なんて言ってたのに。ポプコンに合格しても、芸能界に入りたくないと言ってたんですよ。クラスの男子の人気は、密かにありましたよ。文化祭でひとりでギター弾いて出たときには、ふだん目立たない人がと意外だったなあ」

 感受性が鋭く、やると決めたら周囲が驚くほどキッパリと行動していった中島美雪。彼女なりに楽しい高校生活ではなかったろうか。目立たない、物静かな人だったと言う人もいれば、とても明るい人だったと言う人もいる。親しい友にだけ自分の心を開いていたということだろうか。

 だが、彼女は帯広のことを語ろうとしない。歌手になってからも帯広では1度もコンサートを行っていない。偶然会場が取れなかったのか? しかし周囲の目は、あえてやろうとはしていない、と見ている。先の氏雅代さんは言う。「今度会ったら、美雪さん、帯広好きじゃないみたいね、と笑って言ってみたいな」

 何が美雪の心に芽生えていったのだろうか。彼女は、卒業の寄せ書きに、こう書いている。3年E組というロゴを中心に、放射線状に縦書きされた色紙だ。「この世で一番醜いのは人の心。そしてこの世で一番美しいのも人の心です」