中島みゆきは、新譜のインタビューで、そのアルバムないしは歌について、コメントすることは決してない。それはコンサートの会場でも同じで、自分の歌の解説は殆どしない。

 1978年5月28日岐阜市民会館でのコンサートでは、「まつりばやし」が、自分の父親の死を歌っているということは、彼女自身のMCから、それと知れる。

 「まつりばやし」の間奏の語りで、彼女は、

「北海道の夏の終わりは、もう冷たい風が吹いてるんです。その風の中をお祭りがやって来るんです。どの家の軒にも、紙で作った赤い花を飾って、お祭りを待つんです。寒い朝でした。脳溢血でした。救急車の音の中で、何がどうなったのか分からないままに、3日待てと言われて、3日待っても目が醒めなかったら、もう諦めてくれって。着の身着のまま徹夜で1日待って、徹夜で2日待って、徹夜で3日待って。お祭りでした。日が暮れるまで待ったけど、目は醒めませんでした。何日もかかって準備したお祭りの支度は、うちだけ無駄になりました。病院の窓の外を、まつりばやしが通っていくんです。綺麗で賑やかでねえ。まつりばやしを追いかけて、浴衣を着た子供が走り出すと、その子のずっと後から、その子の父親が、追いかけて、走っていくんです。・・・走っていくんです」

 これは、中島みゆきが、自分の歌の背景を語った、稀有な例である。



 肩にまつわる 夏の終わりの 風の中

 まつりばやしが 今年も近づいてくる

 丁度 去年の 今頃二人で二階の

 窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

 けれど行列は 通り過ぎていったところで

 後ろ姿しか 見えなくて 残念だった

 あとで思えば あの時の 赤い山車は

 私の すべてのまつりの 後ろ姿だった

 もう紅い花が 揺れても


 今年よく似た 声をかき消す まつりの中

 信じられない おまえの最後を知る

 眠りはじめた おまえの窓の外

 まつりばやしは 静かに

 あでやかに 通り過ぎる

 もう紅い花が 揺れても


 人は誰でも まつりの終わりを知る

 まつりばやしに 入れない時を知る

 眠りつづける おまえよ 私のところへは

 まつりばやしは 

 二度と来ないような気がするよ

 もう紅い花が 揺れても

 ・・・・・・・


 みゆきは「まつりばやし」を力強く歌いきる。

 自分の父親のことを「おまえ」と言うのは実に不自然である。「おまえ」を「あなた」と言い換えても、この歌は立派に成り立つ。それをあえて「おまえ」と言うことで、歌の背景に広がりを持たせている、と思うのである。


 1989年6月7日、四日市文化会館での、「野ウサギのように」コンサートでは、

 「1年半のあいだ、みんなの前に出て歌うことをしないで、ごめんね。工藤静香の歌のタイトルのところで、中島みゆきという名前が出てたくらいで・・・。アルバムを出したり、コンサートをしたり、みんなの前で歌う。歌が好きなだけなら、海の真中で船を浮かべて、ひとり大声で好きなだけ歌っていればいいんだ、と思ってたの。恥をかいたりいろんなこと、言われたりしても、やっぱりみんなの前でこうやって、歌っている。歌ってあげているのではなく、歌うことによって元気にさせてもらっていたのは私のほうだったっていうことが、13年目にしてやっと分かりました。考えてみれば「オールナイトニッポン」をやってたときも、そりゃあ、喋りたくないときもあったよ。でもはがき読んでるとさあ、がんばらなきゃ、つて思う。コンサートだっていつもベストな調子じゃない。そんな時でも、みんなの顔見たらがんばる気になる。・・・私は、みんなの日常のことは何も知らない。そういうみんなの日常の、いろんな出来事にひとつひとうに応えていけるような歌を、しぶとく作っていきたい。そんな歌は一生作れないかもしれないけど・・・。しぶとく歌っていたいから、みんなの前に、また戻ってきました。今日これから出かけていくあなたに、心をこめて歌います。大丈夫な人も、そうでない人も、「いってらっしゃい」「ありがとう」と言います」

 歌手・工藤静香に提供した歌「FU-JI-TSU]、「群集」を歌う。中島みゆきのコンサートで工藤静香は聞けるが、工藤静香のコンサートでは、中島みゆきは聞けない、と語る。この日のみゆきは実に多弁だ。

 さだまさしの妹、佐田玲子に提供した曲、「くらやみ乙女」をリクエストに応えて歌う。

 「少し昔の歌だけど、最近の情勢を見てると、世の中ちっとも変わってないんじゃないかと思う」と語り、「誰のせいでもない雨が」を歌う。これは6月4日の中国天安門事件のことをさしていると思われる。そして、アルバム「グッバイガール」の最終曲、「吹雪」を歌う。これはとても難解な歌詞になっている。あまりに抽象的過ぎていろんな解釈ができる。第五福竜丸のことを歌ったのだという人もいれば、北海道泊村原発のことを歌っているのではないかと、いう人もいるらしい。「これじゃ、あまりにも、わけが分からないので」と言って、みゆきはこの歌のヒントをくれる。しかしその言葉がなくても、僕にはこの歌は充分魅力的である。中島みゆきの、このわけの分からなさが彼女を神秘のベールで包んでくれる。それはポーランドの作家、フランツ・カフカがその難解さによって、読者を魅了してやまないのと同次元のことである。「吹雪」の歌詞を記録して、終える。


日に日に強まる吹雪は なお強まるかもしれない

日に日に深まる暗闇 なお深まるかもしれない

日に日に打ち寄せる波が 岸辺を崩すように

  どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち

  どこにも残らぬ島なら 名前は言えない


恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい

そこに描けない者が 君たちを殺すだろう

間引かれる子の目印 気付かれる場所にはない

  どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち

  どこにも残らぬ島なら 名前は言えない


降り積もる白いものは 羽の形をしている

数えきれない数の 羽の形をしている

あまりにも多過ぎて やがて気にならなくなる

  どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち

  どこにも残らぬ島なら 名前は言えない

  誰も言えない

  はじめから無かったことになるのだろう


疑うブームが過ぎて 盾突くブームが過ぎて

静かになる日が来たら 予定どおりに雪が降る

  どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち

  何もない闇の上を 吹雪は吹くだろう