七日七夜【4】
天を貫き氷河を頂くギニビア山脈最高峰アシメトリー。身を凍らせるような風が吹き抜け、分厚い雲が山肌を覆っている。
切り立った崖の上に1つ、青銀の狼の影があった。しかし並の狼より遥かに大きな体躯が、それがただの獣ではないことを示していた。
高山独特の雪を伴った強風にも動ぜず、氷のような眼差しで吹雪に見舞われる崖下を見下ろす瞳は空より深い青。その見つめる先には、同じような外見の狼がやはり崖の上や岩棚、山腹に点々といた。
それらの様子を目を細めて眺めていたその狼に、背後から駆け上がって来たやや大きめの狼が並んだ。仲間を見つめていた狼が首を巡らした。
『兄上』
『出だしは好調だな?デアノラ』
先にいた方の狼――デアノラは再び目を戻すと低く唸った。
『初めが肝心だ。水狼族の君よ、招集を』
アクラに促され、最も高い位置から見下ろす狼は数歩前進すると天へ向かいその鼻吻を向け、一声高く長い遠吠えを上げた。すると、暫くしてそれに呼応するようにあちらこちらから吠え声が起こり、それは数を増していった。遠吠えは唸る風の音を切り裂くかのように山間に響いてゆく。
水狼の遠吠えが山の天候を変える。雲に覆われていた山は徐々にその全容を現し、しばらくするとすっかり雲は切れ、空は晴れ渡った。
姿が露になった無数の水狼たちの視線を浴びるデアノラの前に、傍に控えていたアクラが進み出ると水狼たちに告げた。
『今日より、勇敢なる狼ラパスの子デアノラは我ら水狼族の長となる。これに付き従い、我らが氏族に更なる繁栄をもたらそうぞ!』
集まった水狼たちの間から次々と応じる声が上がるのをデアノラは終始冷めた目で見ていた。
水狼たちに真に慕われているのはアクラ。長兄の言葉だからこそ彼らは不服を唱えない。どうせ、形ばかりの長・・・
宣言の後アクラの話が続き、それが終わってから再び離散していく仲間を見下ろすデアノラの元へいくつかの水狼たちがやって来た。
世話焼き兄クレマスとその妻アシェル、次兄ロドリゲス、そして亡き父のもとで補佐していた老人組と中堅方だった。
『よっデアン!さっすが、貫禄がちげーな!』
『あんた、もう長なんだからそんな態度不敬よ』
『アシェル、馬鹿には何を言っても無駄だ』
『あッこら、アクラ!馬鹿とは何だ馬鹿とはッ』
『ククッ・・・事実だろうが』
『てめ、ロドリゲスまで――』
『喧しい、黙れ』
うんざりしたようなデアノラの命令に兄たちは顔を見合わせると口を噤んだ。
『それで、お前らは妾に何用だ』
デアノラの投げやりな態度に苦笑する老年者と中堅たちを代表して、ネベルと言う名の齢400を越える狼が進み出た。たかだか30年生きただけの新しい長とは毛艶も体躯のしなやかさも違うが、瞳の輝きだけは衰えない氏族の最年長。
『若き長よ、我々は貴女に忠誠を誓い、前代の長たちにしたように貴女を支え助けることを約束しよう』
『わざわざそれを言いに来たか。大層律義なことだな』
『デアノラ』
アクラの咎めにも顔色ひとつ変えない彼女にネベルは溜め息と共に言葉を継いだ。
『だがな、若き姫君よ。あらかじめご忠告申す。儂らの忠誠は貴女の長としての働きにもかかっておること、忘れぬよう。若さと力強さに溢れた新しき長よ、貴女の心掛け如何によっては稀代の良き長ともなれる。力に傲ることなく若さに高ぶることなく、氏族たちへの忠実さと知恵をもって治められるよう頼み申す』
『・・・・・・・・』
『長となったからには自らの迷いも怖れも断ち切らねばならん。くれぐれも盲目になりて道を踏み誤ることのなきように』
『・・・・・・・・』
無言の長に視線を返しそのまま暫し老いた狼はデアノラと見つめ合ったが、やがて諦めたように視線を逸らすとゆっくりと向きを変え、クレマス、ロドリゲス達を除く仲間と共に雪山を下って行った。
『デアン・・・ネベル爺さん相手にダンマリはねーんじゃねーか?親父だってネベル爺さんには腰が低かっ―――』
チラ、と向けられた絶対零度の眼差しにクレマスは口を噤んだ。『こっえー。毛が逆立っちまった』などとボソボソ呟いてアシェルに白けた目で見られている。
『妾は戻る。何かあれば知らせよ』
そう言い置いて立ち去ったデアノラに、居残った面々は嘆息を漏らした。
『デアノラには困ったものだ・・・長としての自覚に欠ける』
『しょーがねーだろ、アクラ。まだ成年にも達してねーんだぜ?』
『年なぞ言い訳にはならんよ、クレマス。風狼の長は任に就いたのはデアノラより2つばかり若い頃だが、初めから才覚を顕していたぞ』
『あのなぁ、ロドリゲス。ジルベルトとデアノラを比較するだけ間違ってるっての。ジルベルトは何から何までデアノラの対極な男だぜ?』
『風狼の君って、デアノラのお相手の・・・?』
首を傾げたアシェルにアクラが頷いた。
『デアノラの、いつにも増しての無愛想の原因だな』
『今回ばかりは俺らの力ではどうにもならない』
『あぁ、オレの可愛いデアン・・・可哀想にッ!ッ痛――あにすんだよ、アシェル!』
『黙んなさいよ、このシスコンッ』
『何だとッ兄が妹の心配して何が悪いッ。デアンはなあ、傷付きやすくて繊細でピュアで寂しがり屋さんなんだぞッ』
『だから何よッ!ちょっと口を開けばデアノラデアノラって、いい加減妹離れしなさいよッ!第一ぜんっぜん相手にされてないじゃないッ』
『何おう―――!?』
『また始まった・・・』
『こいつらも飽きないな』
ぎゃーぎゃーやり合ってる弟夫婦を生暖かい目で眺めていたアクラにロドリゲスは顔を向けた。
『斑娶りが済んでから長をアクラに変えようという動きもある』
『私は長にはならんよ』
『だが、デアノラには案外その方がいいかもしれんぞ。初めから乗り気ではなかった。今のままでは不安だ』
『長はデアノラだ。風狼の君は統率者として優れた男、長の良い手本となろう。
まだ始まったばかりだ。今は若さ故に悩みもしようが、必ずあれは更なる力を得る。私にあれを超える力はない』
冷静な長兄の瞳はどこかそれを愉しむ色さえある。
『本当に欲がないな、アクラ』
『ではお前ならデアノラに勝てるとでも?』
『いや、俺は無理だ。あるいはまだ幼い今なら潰しがきくだろうが・・・兄上殿を敵に回してまでやることではない』
『だろう?大丈夫だ。私はジルベルトの影響力に期待している。彼は偏見なくデアノラを扱うだろう。かの君もある意味変わり者だからな、似た者同士うまが合うかもしれん』
***
自分の領分に戻り、慎ましやかな住処に帰ってホッと息をついたのも束の間、デアノラは舌打ちしたくなった。というかした。
「ご苦労、デアノラ」
石段に腰掛け、柱に凭れかかっていた人物はデアノラの姿を見留めると鷹揚な笑みを浮かべて迎えた。
「気安く名を呼ぶな。何をしに来た」
冷淡に告げながらも、心の内では久しぶり――本当に久しぶりに聞いたその言葉“お帰り”に揺れ動き戸惑っていた。ジルベルトは身を起こすと口角を上げた。
「昨日言っただろう、また来ると。もう忘れたのか」
「馬鹿にするな!忘れてはおらぬ!」
「ではその理由も覚えているな?」
「――ッ、き、貴様が何をしに来ようと妾には関係ないわ!」
雪のように白い頬に朱をさして、ふいっと顔を逸らしたデアノラにジルベルトはくつくつと笑った。
「本当に、可愛いな」
「―――ッ、な・・・」
「クレマスの気持ちがよく分かる」
ますます頬を紅潮させ唖然とするデアノラに、金色の青年は穏やかに笑って背後の宮を親指で指した。
「入っても良いか?」
白亜の岩壁を削り磨き整形したささやかな住処は生まれた時からいるデアノラの心の在処だった。そこにこの余所者の男を招き入れるのは強い抵抗があった。
「帰れ。妾に近付くな」
拒絶を示すデアノラに明るい笑い声をあげるとジルベルトはゆっくり立ち上がった。
「いずれ褥を共にする間柄だろう。近付くなというのは無理な注文だな。近付かずにどうやってそなたを抱けば良い?
今ここでそなたを奪うとしても私にはその権利があることを忘れていないか?」
「・・・・・・」
―――この男の目的は所詮それか
怒りとも悔しさとも取れない激情が胸の奥から溢れ出、目の奥が熱くなった。煮えたぎる想いの捌け口を求めて、デアノラは目前の男をこれ以上ないほど心を込めて睨視した。
殺意を込めて睨み付けてきたデアノラにジルベルトは肩を竦めた。
「ただの、冗談だ。その日までは、何もしない」
冗談であんな卑しい話ができるとは、やはり風狼というのはどうしようもない恥知らずだ。――いや、心の中にあることから人は語るのだ。冗談だけではないだろう。
呪い殺そうな目付きで一瞥してからツカツカと足早に石段を上り、横を通り過ぎたデアノラの背に再び声がかかった。
「それで、私は中へ入っても?」
ぴたりと足を止めたデアノラの背から一瞬にして怨憎が滲み出たのを感じ、ジルベルトは小さく笑った。ややあって、押し殺したような低い声で返事が返ってきた。
「好きにしろ」
悲しいかな、ジルベルトの冗談が真実であることを、デアノラは自らの理解力が恨めしいほどよく分かっていた。同じ長であり、未来の夫である彼を拒むことは許されないのだ。滲み出そうな涙を懸命に堪えて、心の安息のない午後に覚悟を決めた。
デアノラの住処は小さい。石段を上ると手を回せば大人1人分ほどの太さの石柱が等間隔に計5本、入り口を支えている。その先には、入ってすぐに円形競技場を思わせる形の、10m四方の広い間と奥に狭い寝所の2部屋があるのみ。氏族の長には小さいが、妻や子、配下たちと共にいた父親と違い、1人しかいないのだから十分の広さだ。
「いい処だ」
入ってすぐジルベルトが洩らした呟きに、デアノラは立ち止まったがそれはほんの一瞬で、彼女はさっさと暖簾で仕切られた奥へ消えた。
「対話拒絶、か」
少し寂しそうに呟いたジルベルトは適当な段に腰掛け、また石柱に凭れた。
乳白色の石段は所々座るのに良いように広くなっており、銀色の柔らかい毛皮が敷かれていた。
(冗談が過ぎたか)
まだ年若い乙女が消えた暖簾の方を見やり、ジルベルトは髪を掻きあげた。
彼女の兄であるクレマスやアクラに事前に取扱注意事項を聞いてはいたのだが、いざ現物を目の前にすると反応が愉しくて、ついからかってしまう。それが結果的に彼女の自分に対する不信感を強めることとなるのは百も承知なのだが、素直ではないが、分かりやすい彼女の反応はとても愉しい。微笑ましくも可愛いとさえ感じる。
「さて、どうしたものか」
独りごちる。
成年まで後数年ある少女が長という重責の伴う地位に据えられ、挙句意に沿わない相手と娶せられるのは憐れだと思う。自分とて妖狼の中では若者に過ぎないが、それでも既に成年に達しているといないとでは大きく違う。増して彼女は寂しい娘だと、彼女を溺愛する兄が語っていた。
年相応の無邪気さもない少女の冷たい青の瞳はいつも何を見ているのだろう。閉ざされた扉を開き、固い蕾が花開いた時、何があるのだろう。
笑えば美しさが増すであろうに勿体無い。笑わないのは幸せではないからだ。幸せではないのは温かな心を知らないからだ。憐れな娘だ。
関心を示してやる義務も義理もないが、ジルベルトは個人として彼女に興味があった。変わり者と噂される姫に。相手が誰であろうと関わる以上は把握したい。自分の精神衛生のためにも良好な関係を築きたい。それが彼の性格であった。
「北風と太陽、だったか」
確か、人間たちの童話とやらにそんなものがあった。頑なな心を開くには、彼女の太陽とならねば。美しい花とて陽光に晒されねば開花しない。
「七日と言った以上は何とかせねばな」