1-2-9
目を見開き硬直したフィンの心臓が強く打った。
――ドクン
誰かが叫んでいる。
キ―――――ン・・・
突然襲って来た耳鳴りと同時に世界から音が消えた。悲鳴も、隣の騎士の声も、馬車の音も聞こえなくなった。
目と鼻の先の見慣れた村。そこには恐怖に目を見開き助けを求めながら逃れ場を探す人々があった。必死の形相で口を大きく開け何事かを叫ぶ男。泣き叫ぶ我が子を抱いて走る母親。
人々の恐悸の目の先に在るのは、爛々と忿怒に眼を光らせた白、否、銀青の化物、身の丈2メートルを越える巨大な銀の妖狼。
あ・・・
――ドクン
赤い舌の覗く大きな口に並ぶ、白く鋭利な牙に目が、釘付けになった。
喉がカラカラに乾いて腸(はらわた)が震撼した。
家々はいとも容易く破壊され、強大な妖魔の踏み締めた地は一瞬にして氷土と、その巨躯が触れた家屋は氷塊と、化した。
――即ち、水狼
『もし親が探していたら大変ですねえ。
妖魔とはいえ、普通の狼と同じで母性本能が強いですから、襲いかかってくるかもしれません。
水系の妖狼は凶暴かつ残忍ですしね。』
ああ・・・
――ドクン
頭が真っ白になって目に甦ったのは、紅蓮の業火に包まれた家々。朱に染まった空。襲い来る黒き醜悪な妖魔の群れ。悲鳴と怒号が乱れ飛ぶ阿鼻叫喚の地獄絵図。
イヤ・・・
――ドクン
イヤダ・・・!
瞬間怒濤の勢いで迫り来る驚波、闇に思考を呑まれそうになった時、
ガクンッ
「・・・ぁ・・・」
強く引っ張られて前のめりになったフィンは、その衝撃で自失から解放された。茫然と見れば小さな妖狼がフィンの袖を銜え、訴えるような眼差しを送っていた。
「メイ、リオ」
気が付くと馬車が止まっていた。御者台から飛び降りたチェルシーの背に思わず叫んでいた。
「サー!」
振り返ったチェルシーの、今までにない真剣な表情に息を飲む。厳しさを含んだそれは、戦士の顔だった。
「そなたは村に近付くな!街へ戻り応援を呼ぶのだ!」
そう言うと金髪の騎士は長剣を抜きたった1人で妖魔が襲う村へと駆け出した。1人残されたフィンは呆然とその後ろ姿を見送った。
「・・・私の、せ、い・・・?」
声が震えた。
急ぎ戻り、チェルシーの指示通り救援を・・・・だが。
だが、助けが来る前に手遅れに、なっていたら・・・?
デルメリのように、なってしまったら。そうしてまた、フィンだけが逃げて、生き残ったら。
―――1人だけ、逃げた。ニゲタ。ヒキョウモノ。
「い・・や・・・」
手が震え、脳内に響いた言葉が行動を止めた。
―――また、逃げるのか?
頭が急激に冷え、血の気を失った。
「いや・・・やめて・・・」
震える声で呟き顔を覆ったフィンにメイリオは切迫した様子で吼えた。
――ギャアアァァァ―――――!!
断末魔の叫びが響き思わず顔を上げたフィンの耳に、猛る妖狼の、血に染まった牙が目に入った。
「あぁッ・・・れ、レイ・・・!レイ!!助けてッ!!」
涙混じりに師の名を叫んだが、ふと、気付く。
ちがう。これは、私の、せい。私が、みんな、悪い。
「――っ!」
ペンチで掴んで捻り上げられたかのような痛みが胸に走った。
私が、私が・・・また、私が・・・!
――ワタシガ コワス
やめて・・・やめてやめてやめて・・・!!!
「おのれ、悪しき化物め!この剣の錆となれ!!」
騎士の怒声が響き、暫くの後轟く咆哮と「ぐあっ!」と言う叫び声が上がった。
アレは、紛れもなくレイが予告した通り。子狼の親か、仲間・・・
―――村が襲われたのは、私のせい・・・
私のせいで、また、人が 死ぬ。
その瞬間、フィンの中で何かが切れた。
メイリオの吠え声を無視し転がるように馬車から降りたフィンはそのまま村へ向かって一直線に走った。地を蹴る度に足に刺すような鋭い痛みが走った。それでも、走った。
「フィン!ダメだ!!戻れ!」
逃げた村人の制止を振り切って駆けた。後を子狼が追う。
「おい、誰か!レイさんを呼べ!!あの人に助けを!」
村に入ると地に膝を付き赤黒く染まった右腕を庇い妖魔を睨む騎士とそれから離れた所に転がる剣の破片が目に入った。
チェルシーがフィンの姿を見止めてギョッとする。
「なッ・・・何をしている!早く去れ!!」
地の底から轟くような低い唸り声に顔を向けると、冷気を纏った水狼がそこにいた。周りの温度がぐっと下がった。
その凄烈な怨憎に満ちた青い双眼に体が竦む。大きな美しき銀青色の躯全体から押し潰されそうな程の重圧感が発せられていた。その力を本能的に感じ膝が震えた。フィンが、敵うわけがない。
それでも、また逃げるのは、それだけは嫌だ。いっそ、ここで死んでもいい。
鋭く長い牙が次なる標的を捉え襲いかかる。
「させるか――!!」
チェルシーの怒鳴り声。村人の悲鳴。
脳裏に浮かぶ、4年前の惨劇。
引き裂かれた肉塊。焼け焦げた骸。吐き気を催す腐臭。
だめ。
だめ。
だめ・・・!!!
――やめて・・・ヤメテ!!!!!
身体の内奥から鎌首もたげるように徐々に熱いモノが沸き上がってきた。痛みを伴い突き上げてきたソレは、精神の極限に達するフィンの中で、
爆発した。
「いやあああぁぁぁ――――――――!!!!」
抑え込まれていたものが、決壊した。
急速に今まで感じたことのない、血が沸き立つような肌が粟立つような感覚が生じた。体内で嵐のように渦巻く不可解なエネルギー。
それが解放されるように身体から放出し、紅蓮の光の塊が水狼にぶつかるのが見えた。水狼は後方に飛ぶと冷酷な双眼をフィンに向けた。
――何、今の
剣の破片に手を伸ばし、尚も戦おうとするチェルシー。恐怖に萎縮し見開かれた村人の目。
時間の流れがやけに、遅く感じた。
焦燥感に襲われる。
もう、血を流したくない・・・!
私のせいでっ・・・!
湧出する涙で視界が歪んだ。叫び過ぎて喉がヒリヒリした。
――名を。
突然、頭の中に知らない声が響いた。張りのある、男性の声。その声の響きに何故か胸が浮き立つような、そして畏怖に似た感情が湧いた。
涙に濡れた目を見開いたフィンに、尚も声は語りかける。
――村を救いたければ、そなたの真名を明かせ。我と、契約を。
村を、すくえる・・・?
それの言葉に、深い意味を考える余裕は無かった。ただ、反射的に声が突いて出ていた。
「フィノーラ・・・フィノーラ・フィリア・ロンデリー」
涙声で名を唱えた刹那、視界が鮮暉に包まれた。
「――ッ!?」
直後、肌に感じていた冷気が消え、変わりに熱風が吹き付けた。その熱さに手を翳して顔を庇ったが、すぐに旋風のような熱波は収まった。
――受け取れ、我が契約者よ。我が名はアジェランデス。
「ア、ジェランデス・・・」
フィンの眼前に、水狼と人間たちの間に立ちはだかる、燃え上がる緋色の鮮麗な獅子が、現れた。
フィンは息を飲んでその美しき獣を見やった。涙は驚きの余り止まっていた。
水狼に負けず劣らず大きくしなやかな体躯の堂々たる様はまさに王者。燃え上がる焔の如き鬣を靡かせ、その緋色の獅子はフィンやチェルシーを庇うように立ち、水狼に向かって大気を揺るがす咆哮を上げた。それに水狼はおろかフィンでさえもビクリと身体を震わせた。水狼が凍らせた地面が溶けはじめる。
水狼は忌々しげに唸り声を上げると、姿勢を低めフィンにアジェランデスと名乗った火獣目掛けて跳躍した。こちらも地を蹴った獅子が水狼とガッとぶつかり合い、互いに氷と炎を撒き散らしながら組み合う。
両者が激しく衝突する度に眩しい閃光がひらめき、フィンは不思議な波動を肌に感じ、うねる青と赤の光の帯のようなものを2頭の獣の周囲に見いだした。
・・・妖魔・・・?
でも、味方・・・?
半ば状況を理解できずに呆然と闘いを眺めるフィンの頭に再び声が届いた。
――フィン!
少し幼い、少女の声。知らない声だ。
もしや、またこの焔の獅子の類いか、と思ったフィンの背中に何かがぶつかり、つんのめって転びかけた。
「――なっ・・・・・・え?」
振り返って、瞠目した。
「メ・・・イリオ?」
嬉しそうにパタパタ尻尾を振るメイリオ。
『フィン、やっと聞こえた?私の声、聞こえてる?』
フィンは信じられないものを見るように子狼を見つめた。
・・・メイリオが喋った?
『フィン、“開眼”した!だから妖の言葉、分かる!』
「え、そうなの?」
いつの間に?
そしてハッとした。さっきの、あの不可思議な感覚、水狼に放たれた光の塊、あれがフィンの力の解放された瞬間だったのだ。
驚愕するフィン(表情にあまり差はなし)にメイリオは笑ってるように目を細めた。しかしすぐに耳を伏せ、尻尾を垂らしてシュンとなる。
『私、まだ子ども、だからフィンの力になれなかった。悔しい。でも、あのオッサン強い。だから心配いらない。』
ハッとして見ると、火獣が水狼を弾き飛ばした所だった。地に転がった水狼の身体にはいつの間にかあちこち血が滲んでいた。
「あれは・・・メイリオの親?」
『そう。私の母様だ。でも母様、頭に血が騰ると周り見えなくなるからああしないと止まらない。』
グルルル、と牙を剥くボロボロの水狼を獅子は冷めた目で見下ろした。
『かの男が来る前に己が領域に帰れ。汝が流した血、償いはその魂を求めるが人間。命が惜しければ、疾くと去れ。』
フィンの脳内に響いたのと同じ男性の声が緋色の獣から発せられた。
『母様!私は人間に拐われたのではありません。人間は私を助けたのです。』
水狼の銀青色の体毛は血の汚れで美しさが損なわれていた。水狼は初めてメイリオに気付いたようだった。
『リオ。それは、真か。』
誇り高さが窺われる低い女性の声、メイリオの母狼の声だ。
『そうです。恩には報いなければならない、私はこの人間に仕えます。』
水狼は険の失せた青の瞳でフィンを見た。冷たい色の眼差しに身体を硬くしたフィンを検分するように見た水狼は、顔を歪めながら立とうとし・・・そしてフィンの後ろを見て固まった。
「随分とまた、派手に暴れて下さったようですね・・・北のレディ」
よく聞き慣れた、そして場違いなのんびりとした・・・しかし今は僅かに厭味が混じった、声。
フィンはバッと後ろを振り返った。灰色のくたびれたローブを纏った魔術師が静かな笑みを湛えて立っていた。
「・・・師匠」
目があった途端、ふ、と不思議な色の瞳が和む。言い様のない安堵を覚え、唐突に目の奥が熱くなった。
「よく頑張りましたね。」
温かい声と共にぽす、と頭に手を置かれて再び溢れ落ちた涙が地面にシミを作った。
その弟子の小さく震える肩を安心させるように抱くと、周囲一帯を見回した魔術師は負傷した騎士に目を留め、転がる死体に眉を顰めると、水狼に向かってにっっっこりと微笑んだ。
「さて、この落とし前はどうつけて頂きましょうかね?」
火獣アジェランデスが『だから言ったのに』とボソボソ呟いている。
フィンがレイの所に来て4年、怒ったことのないレイ。いつもにこにこ穏やかなレイ。
その笑顔に、背筋がぞっとしたのは、何故だろうか。
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